ホロコースト否定論者の筆頭格マットーニョ論文を自分でやっつけてみよう(1)
さて、今回は、いつものHolocaustControversiesブログサイトなどの海外サイトには解説のないマットーニョによる否定論記事の翻訳をします。目的は一応別にあるので、その為に訳すのが第一目的ですが、ある程度の知識は必要かもですが、じっくりよーーーく読めば、否定論者が非常に姑息な手段を使っていることが読めるというものです。
本来は、我々の方でも色々と資料収集が必要なのですが、そんなの素人にはほとんど無理な話ですので、とにかく騙されないようじっくりと読解に挑戦してもらいたいと思います。というわけで、基本的には私の方ではあまり解説はしません。私だってわからない部分もあるし、これを読まれるということは、ホロコースト否定論に気持ち的に反論したい方だと思いますので、一度じっくり読んでみて下さい。
否定論者の論文は、必ず否定方向へと誘導する文章になっていますので、注意深く読めば「あれ?」と思うところ程度は分かるはずです。要するに、騙される人はそうした「あれ?」と思う部分を油断してすっ飛ばしてしまうから騙されるのです。マットーニョの論文は一見、非常に緻密そうに見えて、どこかに必ず「?」があります。単純に例えれば、「水道局の方から来ました」とは言っていても、水道局員だとは言っていない、みたいなものです。
なお、最初は歴史修正研究会にある翻訳をコピペで引っ張ってこようかなと思ったのですが、どーも信用できないので、原文から自分で翻訳することにしました。ただ、いつもは英語なので、まぁなんとか意訳も出来ましたが、今回は英語よりもはるかに全然わからないドイツ語の為、やむを得ず歴史修正研究会の翻訳記事を参考にはしています。以前に、全然違う翻訳が飛び出してガッカリしてますからね。ただ、あちらは基本的にはそんなにメチャクチャな翻訳ではないようで、総合的な翻訳精度では軍配はあちらかな? という気はします。流石に一応はあちらさんは大学教授ですからね。
というわけで、私の方で入れる注釈は最低限にしますので、注意深く読んでみて下さい。元論文にある脚注(脚注番号はそのまま)や写真資料は省略します。また、何本も記事を起こしてきた私でも分からないところは多々ありますので、分からなければ読み飛ばしてもいいかとは思います。ただし、「あれ?」という感覚は忘れないように。
▼翻訳開始▼
ビルケナウの火葬場の遺体安置所
資料に照らして
デイビッド・アーヴィングがデボラ・リップシュタットを訴えた名誉毀損裁判では、第11巡回区控訴裁判所が被告を支持する判決を下した。2000年1月1日から4月11日までロンドンで行われた公聴会では、ロバート・ヤン・ヴァン・ペルトが弁護側の専門家として証言を行なった。 ヴァン・ペルトは、ガス室でのユダヤ人絶滅の事実を示す証拠をまったく見つけられなかったので、J.-C.プレサックがすでに収集していたほとんどの利用可能な「状況証拠」をすべてこの分野に持ち込んで、「証拠」として乱用した。彼は「証拠の収束」を主張したが、それは本質的には組織的な文書の誤読に基づいているに過ぎない。彼は、そのような誤解を招かないような文書はすべて無視した。ヴァンペルトは報告書の中で、修正主義の歴史家たちはまだ「歴史修正」という作業に本気で取り組んでいないと非難し、次のように付け加えている[1]。
私個人としては、何年も前から「独自の代替表現」を提供してきた。私の記事と本の両方で、最新の本「アウシュビッツにおける特別処置 用語の由来と意味」[2] は、「特別な処置」と「特別な行動」に関するアウシュビッツの正史を十分に記録したものである。これは、ヴァンペルトがほとんどの場合、知らないか、意図的に無視している文書に基づいている。彼が報告書でも、最近出版した『アウシュビッツの事例:アーヴィング裁判の証拠』[3](これは彼のレポートの拡大版だ)でも、私に言及していないのは偶然ではない。!
本研究では、アウシュヴィッツの歴史学の中心テーマであるビルケナウの火葬場にあるとされる殺人ガス室について、もう一つの積極的な貢献をしている。この研究は、4つのパートに分かれており、4つの異なる視点からこの問題に取り組み、全体として、ビルケナウに人間を殺すガス室が存在しないという証拠ではあるが、実際に証拠が収束していることを示している。私の主張の根拠となっている豊富な資料は、もちろんヴァンペルトによって組織的に無視されている。
I) ビルケナウ収容所の「衛生施設改善のための特別措置」の一環としてのビルケナウ火葬場の死体安置所
1)ヒムラーの1942年7月17日、18日のアウシュビッツ訪問とビルケナウKGLの新しい機能
1942年7月17日と18日にアウシュビッツを訪問した際、ハインリッヒ・ヒムラー親衛隊全国指導者は、KGL(捕虜収容所)ビルケナウの収容人数を20万人に拡大することを決定した。中央建設部はすぐに作業に取り掛かり、8月3日、部長のカール・ビショフ(親衛隊大尉カール・ビショフ)は、SS-WVHA(親衛隊経済管理本部)のAmt CV部(中央建設監査室)に新しい建設計画を提出した。これは、1942年7月8日のサイトプランNo.1453を修正したもので、前述の新しい居住レベルまでキャンプを拡張したことを示している。ビショフは添えられた手紙の中で、2週間前にヒムラーが訪れたことを明確に言及している[4]。
1942年8月15日、中央建設管理部は別の「アウシュヴィッツO/S捕虜収容所の敷地計画」を作成したが、実際には収容人数は20万人となっていた[5]。 8月27日、ビショフはSS-WVHAのオフィスCに手紙を送り、同封の「敷地計画M:1:20,000コピー」で次のように確認している。
その後の数ヶ月間で、KGLビルケナウの収容所の計画人数は13万人から14万人に減らされたが、収容所を拡大する根拠は変わらなかった。
9月15日には、ベルリンでアルベルト・シュペーア大臣とSS-WVHAの責任者オズワルド・ポールとの間で会議が開かれ、SS-WVHAのCオフィスの責任者であるハンス・カムラー親衛隊少将をはじめとする5人の国家高官が参加した。会議の翌日、ポールはヒムラーのために詳細な報告書を書いた。4つのポイントが議論されたが、その1つ目は「東進の結果、アウシュビッツのバラック収容所が拡大した」というものだった。これについてポールは次のように書いている[7]。
ポールは強調した。
アウシュビッツの兵器工場からドイツ人や外国人の民間人労働者を撤退させて他の工場の人員不足を補い、KLの囚人に置き換える必要性を強調した後、ポールはこう続けた。
「東への移動」とは、ユダヤ人を東に追放することだと理解されていた。最後の文は、文脈から見ると、「東への移動」を目的とした労働不適格者のユダヤ人は、旅を中断せず、つまりアウシュビッツに留まらず、東に向かって進んだことを明確に意味している。
会議のまさにその日、すなわち1942年9月15日に、カムラーは建設業規制担当全権大使に「K.L.アウシュヴィッツのための特別な建設任務」というテーマで手紙を書き、その中でアウシュヴィッツに関してなされた決定を伝えた:[8]。
1942年10月、建設プロジェクト「アウシュビッツ捕虜収容所」は、「特別処置の実施」という正式な呼称を得て、収容所の新しい機能が正式に承認された。これは、KLをアウシュビッツとその周辺地域にすでに存在している、あるいは建設中の工業工場のための労働力の貯蔵庫に変えることを目的とした、大規模な建築プログラムであった。
ヒムラーがアウシュヴィッツを訪問した際に決定したこの収容所の機能の変更の意味は、1943年5月22日にルドルフ・ヘスがカムラーと他の役人を前にした演説の中で明確に強調しており、その中でヘスはアウシュヴィッツの任務の起源と発展を次のように説明している。
このように、「アウシュビッツにおけるユダヤ人問題の解決」には、絶滅施設はまったく必要なく、10万人の囚人を収容するための建築措置が必要であり、収容所の絶滅機能とされるものは、その本来の目的ではないばかりか、まったく存在しなかったのである。
1942年10月末、中央建設管理部は、シュペーアとポールの命令に従って、KGLの拡張のための一般的なプロジェクトを起草した。関連文書には次のようなタイトルが付けられていた[11]。
総額13,760,000RMのプロジェクトでは、囚人14万人の収容力に合わせたビルケナウの新しい敷地計画などが行われた[12]。
しかし、アウシュヴィッツ・ビルケナウの収容者は、1943年1月には3万人を下回っていた[13]。 これは、7月に発生したひどいチフスが猛威を振るっていた1942年後半の死亡率が非常に高かったことと、ビルケナウ収容所の不安定な衛生状態の影響が大きかった。1943年4月末には、捕虜の数は53,000人以上に増えていたが[14]、それでも目標値を大きく下回っていた。
2)ビルケナウ火葬場の拡張工事
ビルケナウでの殺人的なチフスの流行と、それによって引き起こされた極めて高い死亡率の経験から、SS当局はビルケナウ収容所の拡張と並行して、そこでの火葬施設の対応する拡張を検討した。よく知られているように、もともとこの収容所には1基の火葬場(後のクレマトリウムII)が計画されていた[15]。
前述の1942年8月3日の手紙の中で、ビショフは次のように述べている[16]。
したがって、1942年8月3日の時点で、アウシュヴィッツの中央建設管理部長は、計画されている火葬場を1つだけ知っていた。
アートル親衛隊少尉が1942年8月21日に作成したメモには、その2日前にエアフルトの炉の建設会社「トプフ&サンズ」から派遣されたエンジニアのクルト・プリュファーが訪れたことについて、次のように書かれている[17]。
この時はまだ、第三火葬場の建設は決定していなかった。
同じ文書によると、8月19日には、もともと白ロシアのモギリョフに予定されていた2台の8マッフル炉をアウシュヴィッツに移すというプリュファーの提案が提出されている。手書きの欄外にある記述からもわかるように、この提案は8月24日にWVHAで承認された。つまり、少なくとも将来の火葬場である第四、第五火葬場のマッフルの数は、この時点ではまだ決まっていなかったのである。
1942年8月には、アウシュビッツ収容所史上最高の月間死亡率を記録した。この月の間に約8,600人の囚人が死亡したが[18]、これは7月(約4,400人死亡)の約2倍にあたる。追加で3つの火葬場を建設するという決定が最初に言及されたのは、8月14日(その日に「火葬場IV/Vの計画1678」が作成された)にさかのぼる[19]。 その月の1日から13日までに、2,500人の囚人が死亡しており、1日平均で190人以上が死亡したことになる。14日から19日(21日の覚書に記載されているインタビューが行われた日)にかけては、さらに高い死亡率が記録されている。約2400人の捕虜が死亡し、1日平均約400人が死亡した。最も悲惨だったのは8月19日で、500人以上の囚人が亡くなった。
8月1日には、21,421人が男子収容所に収容された。19日までに4,113人の捕虜が死亡し、その数は1日平均216人、うち14日から19日までは1,675人で、1日平均279人だった。1日から19日までの期間、収容所の平均人員は約22,900人であった。 もし、20万人の収容所で同様にチフスが流行したら、どのような結果になるか想像してみて欲しい。
このように、3つの火葬場を追加で建設することを決定したのは、衛生面でのわかりやすい配慮だけだった。
3)ビルケナウ収容所の「衛生施設改善のための特別措置」について
1943年5月初め、ヒムラーが1942年7月に決定したプログラムを実行する責任者であるベルリンのSS-WVHAとアウシュヴィッツのSS管理者は、密接に関連した2つの深刻な問題に直面していた。囚人の死亡率が途方もなく高かったことによる人手不足と、疫病の引き金となってこのような高い死亡率をもたらした、悲惨な衛生・消毒状態のことである。このような状況では、キャンプの衛生設備を改善することが主な課題となった。
1943年5月7日、SS-WVHAのAmtsgruppe C(建設)のチーフである親衛隊少将カムラーは、アウシュヴィッツで6人の収容所幹部と会った。収容所の司令官であるSS-親衛隊中佐ヘス、SS現場管理の責任者である親衛隊中佐メッケル、中央建設管理の責任者である親衛隊少佐ビショフ、農業運営の責任者である親衛隊少佐シーザー、SS現場医師である親衛隊大尉ヴィルツ、そしてアウシュヴィッツ基幹収容所を担当する武装親衛隊とアウシュヴィッツ警察の建設管理の責任者である親衛隊少尉キルシュネックである。2日後、ビショフは議論されたテーマについてファイルにメモを書いたが、その中で彼は、衛生的・衛生的施設に関する標準的な現場医師の発言を次のように再現した。
1943年5月8日午後6時5分、グロース・ローゼン強制収容所から「アウシュヴィッツ強制収容所の司令部」の注意を喚起する電報が届き、その内容は次のようなものであった。
その電報には、KLグロース・ローゼンの副官であるヴィルヘルム・ギデオン親衛隊大尉の署名があった[21]。 カムラーはベルリンへの帰路、グロース・ローゼンを通過していた。そこで彼は、ビショフをベルリンに向かわせることを決め、ギデオンにはアウシュビッツに適切なテレックスを送るように指示していた。安全のためにベルリンの事務所にも同じ内容の電報を送っていたので、午後8時5分にFS-Dienst(テレックスサービス)は、SS-WVHAのC/I事務所で勤務していたシュルマン曹長から、ビショフに個人的に宛てた次のような電報を受け取った。
こうして、捕虜収容所(=ビルケナウ収容所)の衛生設備を改善するための大規模なプログラムが始まった。文書の中では、このプログラムは「即時プログラム」「特別措置」「特別プログラム」「特別建設措置」「特別行動」と無差別に呼ばれていた[23]。 この趣旨のカムラーの命令は、5月14日にアウシュビッツの司令官に届けられた[24]。
4)「衛生施設改善のための特別措置」とビルケナウの火葬場
ビルケナウ収容所の衛生施設を改善するプログラムには、開始当初から火葬場も含まれていた。1943年5月13日、ビショフは「K.G.L.アウシュビッツにおける当面のプログラムの仕事の割り当てに関する報告書」を作成し、中央建設管理の各将校、下士官、文官の従業員がこのプログラムの枠組みの中で具体的な仕事を割り当てられた。民間の従業員であるルドルフ・イェーリングの任務は、報告書のポイント9に次のように記されている[25]。
その2日後の5月15日、ビショフは次のようなテレックスをトプフに届けた[26]。
5月16日、ビショフはカムラーに「強制収容所で親衛隊兼武装親衛隊少将かムラー博士が命じた特別プログラムの実行のために取られた措置に関する報告書」を送った。アウシュビッツ」では、ポイント6で次のように述べられている[27]。
第三火葬場の地下にシャワーを設置するプロジェクトは、すぐに第二火葬場にも拡大された。6月5日、トプフ社は「火葬場IIおよびIIIの廃棄物焼却炉」をテーマに次のような手紙を送ってきた[28]。
火葬場IIとIIIの計画の拡大は、ビショフが作成した火葬場の拡大に関するアンケート(1943年6月の日付)で確認されている。その中で、中央建設管理課長は、最初の4つの質問に対して、第Ⅱ〜V火葬場には、トプフ社によって1942年と1943年に建設された46個のマッフルを持つ18個のオーブン[29]があり、コークスで加熱され、全体的に固定されており、高さ16mの煙突が合計6本あり、誘引通風システムは装備されていなかったと述べている。第5の質問「排気ガスは利用されていますか」に対して、ビショフは「計画されていますが、実行されていません」と答え、続く質問「利用されているとしたら、何のためですか」に対しては、「クレマIIとIIIの入浴施設のためです」と答えた[30]。
クレマ IIIに100個のシャワーを設置する計画(クレマ IIにもシャワーを設置)は、火葬場で働く囚人を対象にしたものではなかったと思われる。なぜならば、当時、収容所全体を対象にした殺菌・消毒設備である中央サウナには54個のシャワーしか計画されていなかったからである。
実際、中央サウナのシャワー室には50個のシャワーしか設置されていなかった[32]。したがって、「クレマII とIIIの入浴施設」が収容所全体の囚人のためのものであったことは明らかである。
1943年6月24日、クレマトリウムIIIは、宿舎管理局の中央建設管理によって司令官室に引き渡された。関連する引き渡し交渉に添付された地下室の目録では、Leichenkeller 1に関連して14台のシャワーが言及されており[33]、これらは明らかに先ほどのプロジェクトに関連している。シャワー計画は1943年5月に起草されたばかりだったので、1943年3月31日に行われた引き渡し公聴会での第二火葬場の地下室の目録には、シャワーは登場していない[34]。 もちろん、14個のシャワーは火葬場のスタッフのためのものでしかない。おそらく収容者の鍵屋(註:鍵屋とは収容所内の製作工場のことを意味する)が設置したものであろう。
当初のプロジェクトは、2つの理由で保留になっていた。まず、建設セクションIの2つの消毒バラック(構造体5aと5b)にそれぞれ50個のシャワーが設置された[35]。 1943年5月30日に作成されたビショフの「強制収容所における特別措置に関する建設報告書」からわかるように、この作業は5月末に開始された:[36]報告書には次のように書かれている。
7月13日には、この2つの設備はすでに稼働していた。このことは、ビショフがその日に書いた「KGL.および本陣における特別措置のための作業の進捗状況に関する報告」からもわかる[37]。
これと並行して、消毒・殺菌プラント(すなわち、中央サウナ)の建設が急ピッチで進み、その完成は9月初旬に予定されていた[38]。 確かに、プラントがその後稼働したのは、アウシュヴィッツの現場管理者に引き渡される1ヵ月半前の9月初旬[39]であり[40]、「日中、時間単位で」だけであった。
とはいえ、1944年3月25日には、再びシャワー計画が持ち上がった。このとき、1943年10月1日にビショフに代わって中央建設管理の責任者となった親衛隊中尉ヴェルナー・ヨータンは、「強制収容所アウシュヴィッツ、火葬場の排気ガス利用」というテーマでトプフ社に手紙を送り、次のように書いている。
1943年4月13日付のトプフ社のリストでは、「24674/43/Ro-Pru/Pa」という番号でアーカイブされている手紙を参照して、次のように書かれている[42]。
また、「アウシュヴィッツ火葬場」に関する1943年7月28日付のヴェダグ・プラント・シレジア社からの請求書があり、それは「殺菌消毒プラントのために実施されたシーリング作業」に関するものであった[43](ただし、「2台のトップフ殺菌消毒オーブン」は、中央建設管理者が1943年2月11日に、建物32、すなわち中央サウナのためにトプフ社に発注したことが知られている(命令148号)[44])。最後に、ヴェダグ社からの「個別の請求書」も示すことができる。この請求書は同じ日に作成されており、上述の請求書と同じ文言で、「BW 32 - 殺菌消毒プラント」と明確に言及されている[45] 。
プレサックは次のように書いている[46]。
さて、ビルケナウの火葬場の衛生施設の設計は、反論の余地のない文書的証拠に基づいているが、一方で、大量絶滅施設の設置とされているものは、プレサック自身が認めているように、「状況証拠」にしか裏付けられていないので、火葬場の本当の機能が何であったかは、きわめて明白である。
▲翻訳終了▲
一応1回目はこれで翻訳終了ですが、ラストのプレサックの引用ですが、否定論者ってどうしてこれをやりたがるんでしょうね。プレサック本から当該部分を以下に翻訳引用します。図面がどうのと書いてありますが、文章だけで大体の意味は分かると思うので省略します。
そもそもここで語られているのは収容所内のバラック(セクション)配置の話であって、マットーニョの衛生面の話とはまた違うのです。否定派は相当プレサックに恨みがあるようですね。さて、それはいいとして、マットーニョが4)の項目で何が言いたいかわかったでしょうか? 実は、マットーニョのしている話と辻褄の合う話が、ルドルフ・ヘスの回想録に書いてあるのです。
マットーニョは、偽シャワーの話と、殲滅作戦終了後の話をわざと混ぜているのです。プレサック本を知っているし、ガス室の偽装シャワーの話だってマットーニョなら知っている筈で、当然ヘスの自伝だって知ってる筈です。なのに何故、マットーニョはそんな書き方をするのでしょうか? というわけで、以下の文章はどう読めばいいのか考えてみて下さい。
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