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ヴィトゲンシュタインの言いたかった事。

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインっていう20世紀初頭の有名な哲学者がいます。どんな人か詳しく知りたい人は以下をご覧ください。

めっちゃくちゃ頭のいい人です。19世紀後半から20世紀の初頭はまさに知の爆発現象が起こって、一気に多くの天才が現れます。アインシュタインなどはその代表格ですが、この人もその中の一人です。彼はまさに天才哲学者そのものでした。あっという間になんでも自分で理解し得てしまうくらいの、それはそれはオッソロしいほどの切れ味のある思考。彼の事実上の師匠たる有名な哲学・数学・他色々者であったバートランド・ラッセルですら、舌を巻くほどの人です。ところが。

あまりに切れ味があり過ぎて、理解されないんです。ええ、私もなんのことやらさっぱりでした(笑)。でもね、自分なりに自画自賛すると、どうしてこんなに私って嗅覚鋭すぎるのか、自分でさっぱりわかりません。なんとなく、大型書店でたまたま、このオーストリア出身青年の生存時唯一の著作物である『論理哲学論考』っていう、これまた超クッソ難解な本を手に取っていたんですよ。哲学なんてほぼ知らないんですよ? 膨大な哲学書が他にもあるのに、デカルトもカントもほぼ知らない私がこんなのに手を出すなんて無謀も甚だしい。買おうとしたのは文庫本じゃなかったしそこそこ値もはる。そもそもですね、ウィトゲンシュタインなんて知らなかったんです。いまだにこの嗅覚の凄さが私自身さっぱりわかりません。これね、多分同様のことを思索した人ならわかると思うんですけど、いわゆる哲学的真理って奴なのです。

あんまり自画自賛してもしょうがないのでやめますが、まぁ「ん? なんだこれは?」と思った切っ掛けはあります。ペラペラ〜っとページをめくっていると妙な図があったのです。確かこんな図です。適当に私が書きましたが、まぁこんなイメージです。下手ですw

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世界はこのようなものである、っていうんです。それ、私自身が中学生の頃から考えてきた疑問とそっくり同じだったんです。点が自分で世界が円。点と円じゃなかったなー? 点じゃなく目だったかも。ともかくも、それが私と世界の全てなのです。分かりにくいかなー? こうした考え方を独我論というのですが、世界には私以外は全て世界であって、この関係以外は存在し得ない、つー論理です。めっちゃ説明しにくいことはわかってます。

「考える故に我あり」とやったのが、ルネ・デカルトです。この人の説明は省きます。自我の存在こそ唯一否定できないものである、とまぁそういうことです。否定できるんですけどね、それはちょっと脇へ置いといて――こうした考え方はデカルト以降もずっと不変に続きます。ヴィトゲンシュタインもその一人です。そうすっとですね、おかしなことが起きるのです。我は絶対に世界に所属できないんです。「はあ?」と思いますよね。思われた方がいたら大正解です。素直にこんな変な自動作文装置である本記事著者の私を理解する必要はありません。ともあれ、そんな感覚に陥った人って、実際にはかなりいると思います。例えば・・・

「仲間外れ」もそれだし「村八分」もそうだしもっと言えば「差別」もそうなんです。自分はそれら世界に所属できないから文句言うんです。「はぁ?」って思った人、ナイスです。そう「世界」って一体なんなのでしょうか? あるいは「我・自我」って一体なんのことなんでしょうか? ところが驚くなかれ、自分は自分、世界は世界、以外に語りようがないのです。これがあの有名なセリフ――


語り得ざるものには沈黙すべきである


の意味です。語りうるはずのないものを人は語ろうとする、だけどそんなものは語り得ないのが真実なのだから、語るべきではない、みたいな哲学者的な真理をどうにかして論理学や言葉を超複雑難解に駆使して、ヴィトゲンシュタインは懸命に証明しようとしたのが、その本『論理哲学論考』です。驚きまっせ、基本的に執筆はあの酷い酷い第一次世界大戦従軍中にですよ? それも結構優秀な軍人。あんた変人すぎる(笑)

要はね、「世界」って、ただそう呼んでるだけなんです。会社もそうだし、技術者の世界であるとか、お菓子の世界であるとか、国家それ自体であるとか、文字通りの意味であるところの国家全てを指す意味であるとか、ぜーんぶ勝手にそう呼んでるだけなのです。例えばそうだな……、日本に生活する「私」は「日本」人だ、ってことにしましょうか。その人はアメリカへ行くとアメリカ人になりますか? そんなことはないですよね? 国籍取らないとアメリカ人にはなりません。するとですね、その人は「日本」という一つの世界から抜け出したのにも関わらず、日本人のままなんて変なんですよ。そう、定義がおかしい。ちゃうやろ、国籍だろ、とみんないいたくなります。あのね、国籍なんて古い時代にありましたか? ないんです、それは所属国を示すための方法の一つでしかありません。

そうすっと、DNAがどうたらこうたら言い始める人もいるかと思うので、あまり深く考え過ぎないようにしましょう。「私」が日本人であることを証明できる人なんかいませんよ? 絶対そんなのおかしいのにも関わらず、です。だからパスポート偽造出来るんです。自分自身は世界に所属してないからです。証明する手立ては何もありません。どんな場合でもこれは成り立ちます。例えば男女。「私は女性である」この命題も絶対に証明出来ません。これを暴いたのがジェンダー学です。でもね、めっちゃくちゃそれって違和感ありすぎなのです。このなんとも言えないムズムズする違和感みたいなものは、もう面倒だから語るな。語っても無意味である。うまく行く様に人様の間で初の定義をしておきなさい、たったそれだけの事なのです。これが真実なのを人はどーやっても認めたがらないんですよ、何故だか分かりますか? そう、拘るからです。その違和感に。で、喧嘩して揉めはじめちゃったりなんかする。だったら、その揉めたり喧嘩したりするのをどうにかして止める方法をみんなで考えればいいのに、揉めてばっかり・・・まぁそこは語りませんけど。

そこまではウィトゲンシュタインの切れ味鋭い思考も届いた。実はもう少し探求していたら違った本も掛けたんじゃないかなぁと思いますが、それはここでは語りません。ともあれ、それでウィトゲンシュタインはとうとう世の真理を暴いたぞ、と、哲学探究を一旦やめてしまいます。自分が言った通りにそんな哲学探求的なことは「沈黙」しはったんです。哲学分野の教授職かな、それは始めます。でしばらく経ってから、教授を務めていた大学内の知人に「いや、君にはまだ仕事が残っている」とばかりにその知人が顎をしゃくってみます。それで今度は「言語ゲーム」という切り口の違う方向からの真理探究を始めるですが、それはそれで面白いんですけど、あんまりやり過ぎると私の自動機械もそろそろ油を刺す頃なのでやめておきます。

興味があったら一度手に取ってみてくださいね。「またかよ、あいつの説明デタラメだったのか……」とため息の一つも出るかと思いますけど。それはそれ、こうした哲学的思想への興味を持つ切っ掛けにしてくれはったらうれしいです。なかなか大変だとは思いますが、結構面白いですよ。それでは。

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