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アウシュヴィッツの遺体処理(5):燃料消費量

アウシュヴィッツ・ビルケナウのトプフ炉は全てコークスを燃料としていました。コークスは一般に、石炭を蒸し焼きにして炭素成分だけにしたものです。したがって、石炭よりも燃焼効率が高くなります。

マットーニョをはじめとした修正主義者たちは、アウシュビッツの火葬場を攻撃するために、このコークスに目をつけました。まず、非常に素人的な議論レベルでは、「戦時下なのだから100万体もの遺体を焼く燃料を無駄にできたわけがなく、そのような量の火葬などできるわけがない」と主張されるケースが目立ちます。しかし素人さんですから、それらの人たちは量的根拠を上げることはできません。

しかしプロの修正主義者たちは、どうにかして資料的根拠を見つけてきて「たったこれだけの燃料では正史派の主張するような犠牲者を火葬することはできたはずがない」と非常に尤もらしい議論をします。ただし、アウシュビッツには限定された期間の不完全なコークス納入記録しか残っていませんので、実際には計算できるはずがないのですが、マットーニョは色々理屈を並べ立てて、正史派のいうような火葬は無理だったことを論じておられるようです。

ところで、死体一体を焼くのに必要なコークス量はいくらでしょう? これがわからないことには、否定派が知りたいであろう正確な必要コークス総量を求めることができません。しかし、そんな基本コークス量をどうやって求めることが可能なのでしょうか? 

例えば、水を1kgを同じ1kgの蒸気に変えるには、水の比熱は1cal/gKなので、1000gで水温20度の水を全て沸騰させると考えると、

$${80\times1000\times1=80kcal}$$

と非常に単純な乗算で表すことができます。しかし、死体1kgあたりの焼却に必要な基本熱量のような数値は存在しませんので、例えば1kgのコークスの発生熱量がわかったとしても計算できません。そこでこの基本的な考え方を代替的に、どうにかして死体一体あたりに必要なコークス量を実験的に得ることができれば、と考えるのが妥当なところでしょう。マットーニョらは実際そうしているようです。

ところが、この考え方には大きな欠陥があるのです。それは、火葬炉は文字通り、死体を焼くのですから、水の沸騰とは異なって、死体そのものも燃焼し、死体それ自体が燃料になってしまうからです。特にアウシュヴィッツのようなナチスの火葬炉の多くでは多重火葬が行われているので、死体それ自体の燃焼から発生する熱エネルギーを無視することはできません。

ここでちょっと余談ですが、非常におバカなネット修正主義者のある人は、「人間は70%の水分を含むから燃料になるわけがない」と平然と主張して憚らないのですが、だったら一体どうやって人間の遺体を火葬できるのでしょうか? 火葬とは遺体を焼くことです。遺体を焼けないのなら火葬できません。つまり、焼けるのであればそれ自身が燃料になることを意味します。燃焼とは、「ある物質が酸素、または酸素を含む物質と激しく化合して化学反応を起こし、その結果、多量の熱と光を出す現象」のことです。あくまでも、人体は可燃物であるが故に燃料にもなるのです。

マットーニョらは、複数体の多重火葬など出来なかった、としてこの計算を行わないようにしています。確かに一体毎に火葬していたのであるならば、実験的な一体あたりの必要コークス量で乗ずれば、必要なコークス量は比較的単純に計算可能でしょう。しかし、それは果たして史実に即した計算なのでしょうか?

▼翻訳開始▼

アウシュヴィッツの遺体処理 ホロコースト否認の終焉

(1)チフス神話
(2)
火葬場の起源、火葬場の必要性
(3)
キャンプの拡大、オーブンの耐久性
(4)
火葬炉の能力
(5)
燃料消費量
(6)
記録の不在、野外火葬:1942年と1943年
(7)
野外焼却と写真:1944年
(8)
ジョン・ボールの写真、結論、謝辞

燃料消費量

先に述べたように、アウシュビッツの炉はコークスを燃料としていた。マットーニョは、4つの新しい火葬場が稼働していた1943年4月から10月までにアウシュヴィッツで殺害された非登録囚人の死体を火葬するには、アウシュヴィッツへのコークスの配達が十分でなかったと主張している。1943年3月中旬以前は、主収容所のクレマIだけが稼動していた。1942年2月16日から1943年10月までのコークス納入の記録しかないが、1943年4月から1943年10月までのコークスの納入量は497トンであった[140]。コークスの配達に関する情報は、否定派の評論家でフランス人研究者のジャン・クロード・プレサックが、アウシュビッツ国立博物館に所蔵されている当時の記録から収集したものである。彼は、240回分のコークスの配達記録を調べ、その納入量について記録が残っている期間の月別の数字にまとめた。なお、これらの記録がこの期間について完全であるかどうかは不明である。

1942年2月中旬以前と1943年10月以降の記録がないこと、この期間にオーブンが稼働していたことが知られていることを考慮すると、今回議論されている記録が不完全である可能性は十分にある。このような不完全さは、毎月の記録があるコークスの配達と登録された囚人の死亡数を比較することによって推測することができる。1942年7月には、16.5トンのコークスが配達された記録がある。この月、登録された囚人の死者は4124人であった。しかし、1942年3月には、39トンのコークスの搬入の記録があるが、登録された囚人の死亡は2397人に過ぎない[141]。1942年9月には、約9000人の登録囚人の死亡と52トンのコークス配達が記録されている。翌月の登録囚人の死亡者数は約5900人、記録されたコークスの納入量はわずか15トンだった。コークスの納入が2番目に多かった月は、1943年5月の95トンである。しかし、その月の登録囚人の死亡は非常に少なかった。死亡簿は4月14日から6月4日までで、死亡者数は2967人なので、正確な数は割り出せない。したがって、登録された囚人の死は約2000人と考えてよいだろう。したがって、記録されたコークスの搬入が2番目に多かった月は、登録囚人の月別死亡者数が最も少ない月、あるいは最も少ない月のいずれかと一致することになる[142]。

註:上記段落の説明を、一体当たりのコークス使用量の比較として数値計算してみると、
         4,124人:16.5㌧ →  4.0kg/一体当たり
         2,397人:39.0㌧ → 16.3kg/一体当たり
         9,000人:52.0㌧ →  5.8kg/一体当たり
         5,900人:15.0㌧ →  2.5kg/一体当たり
         2,000人:95.0㌧ → 47.5kg/一体当たり

バラバラ過ぎて、コークス納入量と死亡者数は全く対応していないことがわかる。

アウシュヴィッツに実際にどれだけのコークスが運ばれたかという問題は、問題となった年に建設管理部が発行した中心的な数字があれば解決する。ホロコースト否定派のデイヴィッド・アーヴィング氏は1993年に、1940年から1944年までの数字と称するものを発表している。これらの数字は、モスクワのアウシュヴィッツ文書館で発見されたとされていた[143]。ただし、これらの数値にファイル番号は付されていない。筆者は、アーヴィング氏にこの数字の出所を特定させようと3度試みたが、うまくいかなかった。マットーニョは、モスクワのアウシュヴィッツ・アーカイブで、アーヴィングの数字の裏付けを見つけることができなかったと書いている[144]。

マットーニョは、1941年10月31日から11月12日までのグーゼンでの火葬された囚人の記録を調べた。これらの数字は、火葬の詳細について囚人によってつけられた同時代の記録である。フォトコピーは、マウトハウゼン記念博物館から著者に送られてきた[145]。マットーニョは、10月31日から11月12日までの13日間で、677体の遺体が20,700kg、つまり1体あたり30.5kgのコークスを使用して火葬されたことを示す数字であると述べた。1kgは2.2ポンドに相当する。マットーニョは、1943年4月から10月までにアウシュヴィッツに届けられた497トンのコークスは、殺された登録囚人と非登録囚人の数を火葬するには十分でないと主張した。1,000kgは1(メートル)トンに相当する。彼はダヌータ・チェヒの『アウシュビッツ・クロニクル』を調べ、この期間に約10万3千人の未登録の囚人がアウシュビッツに到着した後、姿を消したことを明らかにした。さらに、収容所で死亡した21,580人の登録囚人にもこの数を加えた。彼は死体を火葬するのに十分なコークスがなかったと述べている。これだけの数の死体を利用可能なコークスで火葬するためには、1体あたり4.1kgのコークスしか使わずに火葬したことになる[146]。したがって、103,000人の非登録囚人がこの期間に収容所で殺害されることはあり得ないと主張した。彼は、登録された21,500人の囚人の死亡を1943年4月から1943年10月までに消費されたコークスの量で割ると、1体あたり22.7kgに達した[147]。マットーニョは、登録されていない10万3千人の囚人がどうなったかについては説明しなかった。

マットーニョが依拠したグーゼンのファイルには、コークスを炉に運ぶために使われた一輪車の形でコークスの量が示されている[148]。ページの一番上には「Karren Koks」、つまりコークスの一輪車と書かれている。その下に、一輪車1台が60kgであることが書かれている。しかし、この重量は1941年9月26日から10月15日までの期間のみ記載されている。この間、153台の一輪車で203体の火葬が行われた。つまり、1体あたり45kgで9180kg(60kg×153一輪車)が203体を焼却したことになる。9180という数字は、このファイルのバックアップページで、153本の一輪車に60kgを掛けたものに表示されている。しかし、一輪車に60kgのコークスが入っていたわけではなく、一回に運べる理論上の最大量に基づいた一般的な数字であったと思われる根拠もある。つまり、実際の重量とは関係なく、一輪車1台に60kgが割り当てられていたのである。例えば、10月3日には一輪車13台を使って11体の焼却を行った。一輪車1台が60kgとすると、1体あたり71kgが必要だったのである。しかし、10月15日には、一輪車16台を使って33体、1体あたり29kgで焼却した[149]。

10月16日から22日にかけて、炉の大規模なオーバーホールが行われた。マットーニョが分析した期間、10月31日から11月12日は、677体の死体を焼却するために345台の一輪車が使われたことを示している。しかし、一輪車ごとに重量をつけ、153台すべての一輪車に総重量をつけたオーブン修理前の情報とは異なり、オーバーホール後の一輪車重量についてはそのような情報はない。マットーニョは、一輪車1台の重量を60kgと仮定しただけで、その仮定には問題があること、オーバーホール前のオーブンの一輪車1台の重量が60kgという当初の仮定さえ誤りである可能性を読者に知らせなかったのである。

とはいえ、グーゼンファイルは非常に貴重な情報を提供してくれる。これは、オーブンが燃料を効率よく燃やすほど、より多くの遺体をより短時間で焼くことができることを示している。そのため、炉のオーバーホール前の9月26日から10月15日までの10日間で、一輪車153台分のコークスを使って焼けたのは203体だけだった。しかし、オーバーホール終了後13日間続けて、一輪車365台分のコークスを使って677体を焼いた。この間、11月7日に一輪車45台分のコークスを使って2つのマフラーで94体、翌日には一輪車35台分で72体が焼かれた。この事実が、アウシュビッツの4つの新しい火葬場の46のオーブンに与える影響は重要で、燃料の使用効率が高ければ高いほど、死体が早く燃えることを示す数字だからである。

註:この段落をわかりやすく、数値計算してみると以下のようになる。
●オーバーホール前
9/26〜10/15
     1日あたり20.3体となり一体当たり0.75一輪車
●オーバーホール後
10/22以降(日付不明)
     1日あたり52.1体で一体当たり0.53一輪車
11/7
     1日あたり94体で一体当たり0.47一輪車
11/8
     1日当たり72体で一体当たり0.48一輪車
以上のことから、燃焼効率が上がって遺体をたくさん焼けるようになると、コークス消費量効率が約1.5倍になって、一体当たりのコークス消費量は遺体が増えるほど減るということになっている。マットーニョのいうような一体30kgで比例計算はできないという話になる

マットーニョは、クレマIIとIIIの3重マッフル炉とクレマIVとVの8重マッフル炉が、クレマIの2重マッフル炉よりも燃料効率がよく死体を焼却できることを認めたが、それが死体を早く焼却できることにつながるとは認めなかった。三重マッフル炉は、二重マッフル炉に比べて3分の1だけ少ないコークス量で本体を焼くことができる、と述べたのである。彼は必要な量は1体あたり16.7〜20.3キログラムと算出した。8重マッフル炉は2重マッフル炉の約半分の燃料で遺体を焼くことができ、1体あたり12.5~15.25kgのコークスを使用することができた[150]。マットーニョは、この現象がなぜ起こったかについて、トプフが建設管理部に提供したデータを基にした大雑把な数字であることには触れずに、いくつかの計算をしてみせた。

3重マッフル炉と8重マッフル炉の燃費について、唯一権威ある情報はトプフから建設管理部に提供された。1943年3月17日、建設管理部は見出しのついたメモを発行した。「火葬場II K L[強制収容所]のコークス使用量の見積もりは、1943年3月11日からのトプフ・アンド・サンズ[オーブンのメーカー]のデータ[Angaben]による」メモはさらに、火入れを使ったデータを記述している。火葬場IIとIIIはそれぞれ1時間当たり350キログラムの使用量に対して10回の火入れを必要とした。しかし、連続的に使用すれば3分の1を減らせるので、1つの火葬場で12時間に2800kgのコークスを使用することになる。 8連マッフル炉では、さらに大きな燃料節約になった。これらの炉を連続的に稼働させると、12時間で1120kgのコークスを燃やすことになる。これは、4つの火葬場すべてが12時間に7840kgのコークスで稼働できることを意味する(クレマIIとIIIがそれぞれ2800kg、クレマIVとVがそれぞれ1120キログラム)。建設管理部はこう結んでいる。「これらは最高の成果である。燃焼に何時間、何日必要かは不明なので、年間の使用量を数字で示すことはできない」とある[151]。

マットーニョはこの情報を、「火葬場IIとIIIは一日に約240体、火葬場IVとVは約130体、合計約370体を火葬することができた。したがって、メモにある見積もりは、1日平均370体のやせ細った成人の死体が火葬にかけられると予想されていたことを示している」という意味として表現している[152]。これは単なるデータの誤った特徴付けである。焼却可能な遺体の数については言及されていない。重要なのは、トプフの燃料データは、燃焼量とは関係なく、労働時間に基づいていることだ。というのは、前述のように、1つのオーブンで10時間以内に焼却できる遺体の数は36体にものぼり、トプフ技師プリュファーは5つの三重マッフルオーブンで24時間以内に800体という試算まで出していたからである。マットーニョの本当のジレンマは、先に述べた1943年6月28日の建設管理部の数字にあった。4つの新しい火葬場で24時間に4416体、12時間に2208体を焼くことができるというのである。12時間のコークス使用量7840kgを12時間に火葬できる2208体で割ると、1体あたり平均約3.5kgになるようである。マットーニョは、この問題を直接的に取り上げることはなかった。しかし、彼は6月28日の建設管理部の数字がもたらす問題には気づいていた。この問題に対処するために、彼は否定派の常套手段に戻った。彼は「この文書は捏造である」と発表している[153]。このように、否定派が好まないどんな文書も、偽造と陰謀の結果であると説明されるのが一般的である。マットーニョは誰がこの報告書を「捏造」した可能性があるかについては言及しなかった。

問題は、火葬場が、1943年6月28日の建設管理部の報告で示唆されている15分で死体を焼却することができたかどうかである。先に述べたように、当時の既知の技術では、オーブンで15分以内に遺体を焼却することはできない。しかし、複数の遺体を焼却した場合を考えると、別の姿が浮かび上がってくる。先に引用したダッハウの情報では、2時間の間に7〜9体を同時に焼いたとある。ガス室があったオーストリアのハルトハイム城では、戦後、火葬場の職員が、2体から8体が同時に火葬されると証言している[154]。

ドイツ以外の国では、第二次世界大戦のはるか以前から、多重火葬が行われていたことが知られている。日本の大阪では、1880年代に20の火葬炉があり、それぞれが4時間の間に3体を同時に焼却することができた[155]。1911年、ドイツのドレスデンで開催された国際衛生博覧会では、2時間から2時間半の間に5体を同時に焼くことができる日本のオーブンが発表された[156]。この歴史は、30年後の技術先進国ドイツで、複数の遺体を焼却できることの実現性を補強している。多重火葬を目的としてオーブンが作られていないことは、実際にその行為が行われているかどうかの判断材料にはならない。その最たるものが、違法行為を行っているアメリカである。1980年代初め、南カリフォルニアの霊安室で大スキャンダルがあった。ある施設の従業員は、複数の遺体をまとめて焼却するのが一般的だったと証言している。ある遺体修復師は、1つのレトルト(炉)に5人の遺体があるのを見た、と言い、別の人は7、8人が同時に火葬されるのを見た、と言った。アメリカ初の火葬会社の創業者は、複数の遺体を同時に燃やすと「均一に燃えず、灰が非常に黒くなる」と述べている[157]。興味深いことに、否定派は、火葬場から吐き出される黒い煙を描写する目撃証言にしばしば批判的である。黒い灰を発生させた焼却は、煙の中に黒い微粒子を発生させた可能性が非常に高いのである。

アウシュビッツで多重火葬が行われたことについては、多くの証言がある。ゾンダーコマンド(ガス室から死体を取り出して火葬する者)であるアルター・ファインシルバーは、5つの死体が「その量ではより速く燃えた」と述べている[158]。


翻訳者中:このジマーマンの記述はやや不誠実だと思います。なぜなら、ここでの証言は以下のように、理解が困難な内容だからです。

すぐ隣には、死体を焼却するための炉が置かれていた別の部屋がありました。このような炉は3つあり、それぞれに2つの開口部がありました。1つの開口部には12体までの死体を収容することができますが、そのような量の方が早く燃えるので、一度に5体を積み込むことになります。

アウシュヴィッツの様々な議論(11):証人の宣誓供述書3:スタニスラス・ヤンコウスキ(アルター・ファインシルバー)より

この部分の解釈については、リンク先を見てもらうとわかるかと思いますが、素直に読む限り理解困難です。いくらなんでも、流石に一つの炉に12体も遺体が入るわけがありません。またこの文章を「5体の方が早く燃えるのでそうした」と読むことは可能ですが、それでは12体でないのは何故か?の理由がわかりません。したがって否定派的に言えばこの証言は嘘です。しかし「12体」という中途半端な数字に着目すれば、リンク先で私が書いた解釈で理解は可能かとは思われます。しかしいずれにしても、この証言は不審ではあるので、そこを書かないジマーマンのこの記述はやや不誠実に思えます。もちろん、ジマーマンの言う通り、ファインシルバーが多重火葬に言及していること自体は事実です。


SSの看守ペリー・ブロードは、クレマスⅡとⅢのそれぞれの窯に4体か5体の死体を入れることができたと書いている[159]。ゾンダーコマンドのフィリップ・ミュラーは、一度に3つか4つを焼却することができたと述べている[160]。ゾンダーコマンドのスラマ・ドラゴンは、一度に3つの死体が焼却されたと証言している[161]。1944年4月に逃亡した二人の囚人の報告は、ゾンダーコマンドから受け取った情報に基づくものであったが、一度に3つの死体が焼かれると述べていた[162]。火葬場の労働者ミエチスワフ・モラワは、ビルケナウ火葬場が完全に稼働する前に行なわれたテストでは、クレマⅡの15のオーブンのそれぞれで、40分のあいだに3体を同時に焼くことができたと証言している。彼は、これらのテストはSSによってストップウォッチで行われたと述べている[163]。

マットーニョは、複数の遺体を燃やしたという証言が、コークスに関する主張を行う上で問題となることを承知していた。このようなやり方では、遺体を燃やす時間も燃料の節約にもならないと主張したのだ。したがって、多重火葬は、同時に導入された2体の燃焼に2倍の時間がかかるだけで、2倍の燃料を必要とすると主張したのである。彼の主張は、グーセンの二重マッフル炉の情報に基づいている。彼は、もし複数の焼却があったならば、72体が焼却された日である1941年11月8日にグーセンで起こったはずであると述べている[164]。この研究の前段でマットーニョは11月8日、72体の焼却に24時間30分かかったと主張したが、実際の時間は16時間から17時間だったことを、思い出してほしい。実際、11月7日のグーゼン情報では、94体が19時間45分、つまり1体あたり約25分で燃やされたとあり、彼の主張にはもっと説得力のある情報だっただろう。しかし、どんな状況でも25分で遺体が焼けるとは認めたくなかった。

マットーニョの主張の問題点は、これらの日に多重火葬が行われなかったとかなり確信できることである。11月7日と8日のエンジニアの報告書によると、このオーブンの作業は各日4時間、11月6日は4時間、11月9日はさらに8時間行われたことが示されている。これらの事実は、死体焼却と同じ日にオーブンの修理があったことを意味する[165]。このような状況下では、多重火葬が行われた可能性は極めて低い。マットーニョもこのファイルを調べたが、多重火葬の痕跡を見つけることはできなかった。この研究の前段で述べたように(脚注135の議論参照)、プリュファーの推定した24時間のマッフル当たり53体は、11月7日に19時間45分の間に焼かれたマッフル当たり47体の範囲内の割合である。前述のように、この割合は、前の遺体が完全に消費される前にマッフルに導入することで達成されたものと思われ、多重火葬とは異なる。この可能性は、先に論じたアウシュヴィッツのオーブンのためのトプフの指示書に想定されていたようである(脚注108の議論参照)。

これらのオーブンの操作に関する最も完全な説明は、1945年5月のゾンダーコマンドのヘンリク・タウバーの供述によるものである。アウシュビッツは1945年1月に解放された。これは、同時代の文書に限りなく近いものである。タウバーは1943年2月にクレマIで仕事を始めたが、最終的にはクレマIIとIIIに移された。彼はクレマVでも働いていた。マットーニョはタウバーの証言には一切触れなかった。タウバーは、5体の死体を同時にオーブンで焼くことはよくあることだと述べた。彼は、同時に焼かれている5つの死体を焼却するのに1時間半ほどかかったとも述べている[166]。 この時間帯は決して非現実的なものではない。1911年、日本のオーブンが2時間から2時間半の間に5体を同時に焼くことができたと先に述べたことを思い出してほしい。

また、タウバーは、条件が整えば、オーブンで8体を同時に焼くことが可能であると述べている。彼はやせ細った死体が8体あったときのことを述べている。彼は、子供が焼却されるとき、ゾンダーコマンドは2人の大人と一緒に5、6人の子供の死体を焼いたとも述べている[167]。彼は、子供の死体が灰箱に落ちないように炉の中に置かれたことまで描写している[168]。

タウバーは、遺体を焼却する際の燃料の問題にも言及している。 この点では、彼の証言は、それが問題であり、当局がそれに対処する方法を開発していたことを示すものとして重要である。彼はこう説明している。

すでに述べたように、火葬場IIには5つの炉があり、それぞれ、死体を火葬するための3つのマッフルを備え、2つのコークス炉で加熱されていました。この炉床の火道は、両側のマッフルの灰(集塵)箱の上に出ていました。このように、炎はまず両側のマッフルを回り、次に中央のマッフルを加熱し、そこから燃焼ガスを炉の下、2つの炉床の間に導き出すのです。 このため、側面のマッフルと中央のマッフルでは焼却の仕方が異なっていました。脂肪のない......痩せた人の死体は、横のマッフルでは急速に燃え、中央のマッフルではゆっくりと燃えました。逆に、到着後にガス処刑された人の死体は、無駄なく、センターマッフルでよく燃えました。このような死体の焼却では、コークスは炉の火をつけるためにだけ使用しました。脂肪の多い死体は、体脂肪の燃焼によってそれ自体で燃焼したからです[169]。

太った死体の体脂肪を燃料にするというタウバーの説明は、彼の証言の他の箇所でも強調されていた。このように、彼は早い段階で「焼却のプロセスは、人間の脂肪の燃焼によって加速され、その結果、さらに熱が発生する」と述べている。この方法は、火葬場IIとIIIで使われた。後に彼は、脂肪のついた体を「熱い炉に投入すると、脂肪は直ちに灰箱に流れ込み、そこで火がつき、体の燃焼が始まった」と述べている[170]。

太った犠牲者の体脂肪を燃料にするのは、実体験をもとにした知識が必要である。タウバーは靴職人であり、実際に観察してみなければわからない立場であっただろう。問題は、この証言がどの程度信用できるものであったかである。マットーニョが火葬炉の権威として挙げていたドイツ人技師ルドルフ・ヤコブスコッターは、体脂肪が炉で焼くための熱を生み出すと書いている[171]。マットーニョは、オーブンで体脂肪を燃料として使うという問題には、直接的には触れていない。彼は当初、火葬場で体脂肪を使って燃焼を促進させたという証言を退けていた。しかし、その後、彼は、「決められた方法で行えば、このような手順がうまくいくことを発見した... 」と書き、最初の反対意見を撤回した[172]。タウバーは、火葬場で燃焼を促進するために体脂肪が使われたことについても述べていた[173]。

体脂肪をオーブンで使用するプロセスについては、ゾンダーコマンドのフィリップ・ミュラーも説明しており、当局が燃料効率を最大化するために死体をオーブンに配置する方法を発見したと述べている。

この実験では、さまざまな基準で遺体を選別し、火葬にしました。このように、2人のムゼルマン(やせ衰えた囚人を指す収容所の俗称)の死体は、2人の子供の死体と一緒に火葬されたり、2人の栄養状態の良い男性の死体とやせ衰えた女性の死体が一緒に火葬されたり、1つの荷物が3体、時には4体で構成されていました。これらのグループのメンバー(SS隊員と火葬場を訪れる民間人)は、特定の種類の死体を燃やすのに必要なコークスの量にとくに関心を示しました...

その後、すべての死体を上記の4つのカテゴリーに分け、灰にするために必要なコークスの量を基準にしました。そこで、栄養状態の良い男と痩せた女、あるいはその逆と、子供の遺体を一緒に焼くことが、最も経済的で燃料を節約できる方法とされたのです。というのは、実験が確立していたように、この組み合わせでは、いったん火がつくと、それ以上コークスを必要とせずに死者が燃え続けるからです[174]。

同様に、アウシュヴィッツ収容所司令官ルドルフ・ヘスは、ニュルンベルク裁判で、3つの死体が同時に焼かれ、太っている人の死体は早く焼けると証言している[175]。また、彼は回顧録の中で3体を同時に焼いたことに触れているが[176]、その正確さについてはTHHPのホームページで別の研究日本語訳)をしているところである。

タウバーの宣誓証言とミュラーの回想録は、コークスが問題になることを誰もが知る何年も前に書かれたものである。どちらの証言も、火葬場の運営において燃料が重大な問題であったこと、当局がこの問題に対処する方法を見いだしていたことをはっきりと示している。

薪もオーブンの燃料の一つであった。トプフは薪を燃料とするオーブンを作っていたが、コークスモデルほど効率は良くなかった[177]。タウバーは、コークスが不足したときには、薪や藁をオーブンに使用したと述べている[178]。マットーニョは、1943年9月と10月に行われた木材の搬入の記録を探し出した。彼は、搬入された木材の量は21.5トンのコークスに相当し、問題を解決するのに十分とは言えないと主張した[179]。しかし、マットーニョは、収容所当局が正式な木材の納入に頼っていなかったことを知るために、アウシュビッツの周辺事情に十分精通している。火葬場があったこの時期のビルケナウ地区の写真には、深い森林に囲まれていることが示されている[180]。実は、この周辺には、木材が豊富にあったのだ。伐採してくればいいのだ。解放後のクレマIIIの写真には、その外側の敷地に切断された木材の大きな山が写っている[181]。1944年8月の火葬場の詳細に関する報告には、30名の木材搬出人[Holzablader]が、870名の火葬ストーカーと12時間の2交代制で勤務していることが示されている[182]。

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▲翻訳終了▲

ネットの素人修正主義者は「戦時中だから燃料は無駄にできない!」と主張しつつ「火葬炉で複数遺体など焼却できず、遺体が燃料になることもない!」とある意味相反した主張をします。実際には多重火葬により、燃料を節約していたと言うのに……。つまり、酷い話ではありますが、犠牲者の遺体がたくさんあったので、戦時下でも燃料には困らなかったのです。

ところが、「燃料」がそもそも原理的に何を意味するのか、ネットの素人修正主義者は理解していません。石油やコークスなどが一般に「燃料」と呼ばれるのは、実際には燃料として非常に使いやすいからに他なりません。しかし、原理的には燃えるのであればなんでも燃料になります。言い方を変えれば、問題は何を燃料とするかは、単なる手段の選択に過ぎません。

例えば、現代では多くのゴミ焼却炉は火をつける時以外にはいわゆる燃料は使用しないことが普通です。例えば、横浜市のゴミ焼却工場の説明には、

「焼却炉」に投入されたごみは、ごみ自体が燃料となって燃えます。
そのため、焼却炉の起動時に一度ごみに火が着けば、焼却炉の停止まで助燃材は使用しません。

とあります。燃えるゴミ・燃えないゴミの分別程度なら誰でも知っている筈です。したがって、燃える限りは原理的になんでも燃料になるのです。当たり前の話です。

ところが、ネットの素人修正主義者の多くは、「死体は燃えない」だなんて極端なことまで言う人がいます。もし燃えないのであればどうやって火葬するのでしょう? そんな極端な主張は意味不明です。

また、しばしば言われるのが人体は多くの水分を含むので、そんなに簡単には燃えない、との主張です。しかし、誰も死体が火葬炉内に入れた途端に瞬間に燃え尽きるとはいっていません。ですが、火葬炉内に入れても全くどこも燃えたりしない、なんてこともまたあり得ません。少なくとも髪の毛はすぐに燃え尽きてしまうでしょう。あるいは皮膚表面はすぐに乾燥するので、表面ならばすぐに燃え始める筈です。したがって、死体からの脱水と燃焼は同時に始まるのです。全体の脱水が終わらなければ燃焼が始まらないなんてことはないのです。

このように、炉内で多重火葬を行えば、当然死体自身が燃料となるので、必要コークス量は節約されることになります。ゾンダーコマンドが証言するように、ほとんど死体だけで燃焼させて、コークスは燃えにくい時にしか要らなかったのでしょう。

つまりは、多重火葬を考慮すればマットーニョの火葬理論は全くの無駄なのです。それを延々と何十年も論じ続けているそうですから、ある意味大したものです(笑)

>>(6)記録の不在、野外火葬:1942年と1943年

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