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ダッハウのガス室は戦後の捏造?

※この記事は、2024年6月25日に追記の証言部分(ブラーハの証言)を除き全面改訂しました。

ダッハウ強制収容所のガス室について、否定派はガス室そのものが捏造であり、戦後、ダッハウでのガス室での大量虐殺の話が流れたが、その後、ダッハウのガス室での囚人の処刑自体が定説で否定されるなど、戦後に連合軍はダッハウのガス室を捏造したのは明らかだ! のような主張をしているようです。歴史修正主義研究会の記事を「ダッハウ ガス室」で検索すると、いくつもの記事が引っかかってくるほど、否定派は執拗にダッハウのガス室を攻撃してきたようです。

しかし、それらの記事を読んでいても、否定派の記事だから目が滑ってちゃんと読めないというのもありますが、なんかどーも要点が定まらないダッハウガス室の否定論が並んでいるだけのように見てしまいます。検索すると一番最初に出てくるフォーリソンの記事には、最近見つけたばかりですが、明らかに嘘としか思えない、全く信ぴょう性のない、アメリカ版ネオナチのソースまで使われています。

終戦直後くらいから、ダッハウのガス室で囚人の大量処刑が行われていたという説が世間的に流布していたという話は、そこそこ確かなようなのですが、ホロコースト否定派は「ガス室など嘘である」と最初から決めつけているせいか、どうしてそんな説が戦後に流れたのかについての詳細な解説は見たことがありません(修正主義者にそんなことを期待しても無駄です。修正主義者は陰謀論の5W1Hを明かすことはありません)。

では、定説側・反修正主義者側は? というと、これもまたユダヤ人絶滅にダッハウのガス室は無関係とわかっているからか、詳細な説明がなされることはほとんどありません。したがって、私のようにホロコーストに2020年頃から興味を持ち始めた人にとっては、なんだか煙に包まれたように、話の全体像がよくわからない、というのが実感です。

一応、定説側と修正主義者側の共通認識は、ダッハウではガス室で大量虐殺は行われなかった、というものです。ダッハウ強制収容所記念館の公式サイトによる解説は以下のとおりです。

当初、SSは収容所で死亡した囚人の遺灰を遺族に送り、収容所からそう遠くない場所に埋葬するか、ミュンヘンの東墓地に運んで火葬した。戦争の勃発とともに囚人の数と死亡率が劇的に上昇したため、1940 年の夏、SS は炉を備えた最初の火葬場を建設した。わずか 1 年後、この火葬場の収容能力は不足した。1942年の春に「バラック X」の建設が始まり、1年後に運用が開始された。これは、4つの炉、衣類の消毒室、日中用居室、衛生設備、さらに遺体安置所と「シャワー浴」に偽装したガス室を備えた火葬場であった。「バラックX」が囚人の大量虐殺のために設計されたことは疑いの余地はない。

ダッハウ強制収容所では、毒ガスによる大量殺戮は一度も行われなかった。SS がなぜ実用ガス室をこの目的に使用しなかったのかは、いまだに説明されていない。当時の目撃者の証言によると、1944年に何人かの囚人が毒ガスで殺されたという。

収容所施設からやや離れた場所に位置する火葬場エリアは、SSが処刑場として使用していた。 ここでは、囚人が絞首刑にされたり、首の後ろを撃たれたりしていた。 犠牲者の多くは抵抗組織のメンバーだった。 記念の「死の通路」は、処刑場や遺灰が納められた墓を通り抜けるようになっている。

1933年から1945年の間、ダッハウ強制収容所とその分所において、拷問や虐待、病気、栄養失調が原因で死亡した人数は、直接的な死因を含め約41,500人にのぼる。

https://www.kz-gedenkstaette-dachau.de/en/historical-site/virtual-tour/crematorium-area/

定説側は、ダッハウ収容所に殺人ガス室が作られたのは事実、としていますが、否定派側はそこは殺人ガス室ではなかったし、殺人ガス室に見えるように仕立て上げたのは連合国(米軍)だとさえ主張しています。この時点で私には訳がわからなくなります。ホロコーストのガス室をソ連が捏造したという主張ならまだなんとか話は理解できなくもありませんが、米軍となると、「なんで?」となるからです。米軍の戦争犯罪を誤魔化すため? 米軍はドイツ軍によるユダヤ人絶滅の証拠を発見できなかったので、成果をでっち上げるためにガス室を捏造した? しかし、いずれにしても理由がよくわかりません。

少し調べてみましたが、ニュルンベルク裁判でも、ダッハウ裁判でも、マルティン・ゴットフリート・ヴァイスという親衛隊中佐が僅かに「収容所のガス室の初期建設と使用」と記述されていたのを見つけただけで、彼がダッハウのガス室の件で裁かれたという情報を見つけることはできませんでした。つまり、私自身の調査では今の所という限定付きですが、ダッハウのガス室の件が裁判で確実に裁かれたという事例は見つからず、もしそうだとするのれあれば、裁判にかけるという目的もなく、ダッハウのガス室を捏造する理由は何? となってしまいます。

ともかく、ダッハウのガス室に関する情報は、否定派がいろいろ調べているにしても、断片的なものしかないし、実際よくわからないというのが正直なところです。頼みの綱の一つでもあるHolocaust Controversiesブログサイトでも、ダッハウのガス室については、以下の記事を除き、ほとんど扱われていません。

HCの他の記事で、「ダッハウのガス室についてはいずれ書く予定」のように言っておきながら、全然書いてくれないというのもあります。とにかく、情報が少ないので、ダッハウのガス室に関しては今のところ私には大した知識もありません。ですが、PHDNにあった一つの記事だけは、多少は助かっているので、過去、最初に翻訳した時の出来栄えがあまり良くないので、今回、翻訳を全面的にやり直すことにしました。

▼翻訳開始▼

ダッハウのガス室

著 ハリー・W・マザール


はじめに

法的背景

1933年1月30日、アドルフ・ヒトラーがドイツの首相に就任した。政治的敵対者の投獄を合法化する必要性を予見し、フォン・ヒンデンブルク大統領、アドルフ・ヒトラー首相、フリック内相、ギュルトナー法務大臣が署名した大統領令が、ちょうど1ヵ月後の1933年2月28日、『帝国法律公報』第17号に掲載された。命令には次のような内容が含まれていた:

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写真1:Reichsgesetzblatt Nr.17(帝国法律公報第17号)、1933年2月28日。

§1
憲法第114条、第115条、第117条、第118条、第123条、第124条および第153条は、追って通告するまで無効とする。個人の自由、報道の自由を含む言論の自由、集会の権利、団体を結成する権利に対する制限、郵便、電信、電話の通信の秘密に対する侵害、家宅捜索、没収、財産所有権の制限については、これまで法律で規定されていた制限を超えることが許されるようになった。

[...]

§4
...反対運動によって人命を危険にさらした者は、懲役または情状酌量の余地がある場合は6カ月以上の禁固刑に処される...[1]、[2]

ダッハウ強制収容所が正式に開設されたのは、それからわずか6週間後の1933年3月22日水曜日だった。3月21日付の『Münchner Neueste Nachrichten』紙の記事はこう伝えている:

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写真2:Münchner Neueste Nachrichten(ミュンヘン最新ニュース)、1933年3月21日。

ミュンヘン警察長官ヒムラーは以下の報道発表を行った:

水曜日、最初の強制収容所がダッハウに開設され、5000人が収容される。国家の安全を脅かすすべての共産主義者と--必要な場合には--ドイツ社会民主党(国旗団)および社会民主党の幹部は、ここに収容されることになっている。長期的には、これらの刑務所に過度の負担をかけることなく、個々の幹部たちを州刑務所に収容しておくことは不可能であり、他方では、これらの人々は、釈放されたとたんに、扇動し組織化しようとする努力を持続することが試行によって示されているので、釈放することはできない。

[...]

ヒムラー警察署長はさらに、保護拘置は必要な限り実施されると断言した。[…]囚人の扱いに関する広範な噂が不正確であることが示された… [3]、[4]

ナチ党機関紙『Völkischer Beobachter』にも同じ日付で同様の記事が掲載された。

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写真3:Völkischer Beobachter(人民の観察者)1933年3月21日。

ヒトラーはこの日刊紙の発行部数を増やすために、エルンスト・ハンフステングルの借款でアメリカの近代的な輪転機を手に入れた。[5]、[6]

第三帝国の指導者たちは、政権に就いてからわずか3ヵ月足らずで、ドイツ国民の基本的で不可侵の市民権を撤廃し、あるいは著しく制限した。それは、これから起こることの前兆に過ぎなかった。

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写真4:ダッハウ記念館の眺め。(筆者撮影)

ダッハウ強制収容所 : 初期の日々

1933年5月1日までに、収容所には1200人の収容者がいた。ほとんどがミュンヘン出身の政治犯だった。これらの収容者は「...社会民主党と共産党の党員、多くのカトリック教徒、多くのユダヤ人医師と弁護士」で構成されていた[7]。 看守たちは、収容所開設当初から収容者の殺害を開始した。

1933年末近く、4,821人の登録囚人がダッハウに到着した。1945年までに、206,206人の囚人が登録された。死者の総数は知る由もない。ソ連軍捕虜は数千人単位で即刻処刑され、民間人はゲシュタポによって「特別待遇」(ナチスの婉曲表現で「殺害」を意味する)のために収容所に割り当てられ、多くの者が避難行進や死の行進で死亡した。これらの死者は登録されなかった。アーロルゼンの国際追跡サービス(International Tracing Service)は、登録された囚人のうち31,591人が死亡したと報告している。[8]

遺体の処理

1941年のナチスによるソ連侵攻以前は、死因は主に自然死、寒さ、病気、または1933年10月1日に親衛隊上級大佐アイケが発布した「捕虜収容所の懲罰および刑法」に違反したとされる処刑によるものであった。その内容は次のとおり。

§ 11 仕事場、居住区、厨房作業場、便所又は休憩所において、破壊的な政治に関与し、挑発的な演説を行い、この目的のために他の者と集まり、徒党を組み、うろつき、情報を収集し、又は受領し、若しくは埋没させ、又は敵の恐怖宣伝に使用される収容所に関する情報を、真実であるか虚偽であるかを問わず、メモその他の方法によって、収容所の訪問者に反復し、若しくは密輸する者、釈放または移送された囚人を通じて文書または口頭でメッセージを送る者、衣服その他の物に隠す者、壁越しに投げる者、暗号文を書く者、反乱を扇動するために小屋の屋根や木に登る者、ランプその他の手段で信号を伝達する者、外部との接触を求める者、他人の逃亡や犯罪を助言、支援、援助する者は、革命法の規定により破壊扇動者として絞首刑に処せられる。[9]

この勅令は、ほんの口実による殺人の許可に他ならなかった。ハンス・バイムラーは、1933年にダッハウにわずか4週間投獄され、その後脱走することができたが、その間に50人近くが残虐に殺されたと報告している。[10]

ナチスにとって、囚人の死は大きな問題となった。当初、死者はライテンベルクとヴァルトフリートホーフの共同墓地に埋葬された。記録によると、6,223体がライテンベルクから掘り出され、1,124体が9カ所から運び出された[11]。火葬場の建設前にそこに埋葬されていた死者の数、そして、戦争末期には死者の数が火葬場の収容能力を上回り、共同墓地に埋葬された死者の数を特定することはおそらく不可能である。

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写真5:ライテンベルク墓地での犠牲者の埋葬。Berben, Paul, op. cit. p. 128.

1941年までに、死体処理の問題は重大な局面を迎えた。何千人ものロシア人捕虜がダッハウに配属される一方で、政治犯、「反社会的勢力」、ユダヤ人の流入が増え続け、そのほとんどが登録されることなく、人口が急増した。1940年だけで、22,675人の新規登録囚人がダッハウとその補助収容所に組み入れられた。ダッハウ収容所で発生した未登録死者の数は、おそらく知る由もないだろう:

ダッハウでは何人が投獄されたか? 誰がダッハウで死んだのか? 拷問者や処刑者は誰だったのか? これらや類似の質問に対する答えは、かなり異なっている。従って、ダッハウでの死亡者数の見積もりは、実にさまざまである。引退したダッハウ市長のザウナーは20,600人と言い、ニーメラー牧師は(1945年にダッハウで書かれた碑文を引用して)238,756人と言っている。スリュー・ガードナーは、1960年1月10日の『サンデー・エクスプレス』紙の記事で、同様の数字(230,000)を挙げている。

なぜ、このように確信が持てず、推定値に大きな差があるのだろうか? それは、第三帝国のすべての強制収容所やその他の絶滅センターがそうであったように、ダッハウの強制収容所も最初から最後まで、大きな秘密主義に包まれていたからである。[12]

ダッハウにおける未登録の処刑による死亡の例を挙げよう:

1941年秋、ロシアとの戦争が始まって数週間後、毎日のように大量清算が行われた。6,000人以上が処刑されたが、彼らの名前などは登録されなかった。[13]

最初の火葬場は1940年、収容所の北西の角に建てられたが、小さな歩道橋を渡って行くしかない。

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写真6:収容所と火葬場を結ぶ歩道橋。ロングコートの女性の左側にある木立が、古い火葬場を隠している。(筆者撮影)

木立に囲まれた木製の小屋に火葬炉がある。

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写真7:古い火葬炉のある木造の小屋の眺め。(写真提供:ダニエル・ケレン博士)

よく隠された場所は慎重に選ばれ、さらに大きな排水溝、キャンプの壁、有刺鉄線のフェンス、水の流れる大きな溝によって主収容所から隔離されていた。

火葬場やガス室とキャンプを隔てる排水溝、有刺鉄線のフェンス、コンクリートの壁。手前には見張り台がある。(筆者撮影)
写真8:収容所と火葬場、ガス室を隔てる排水溝、鉄条網、コンクリートの壁。手前は監視塔。(筆者撮影)
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写真9:南から北へ見た、収容所と火葬場を隔てる排水溝、有刺鉄線のフェンス、コンクリートの壁。1939年頃の当時の写真。ヘス、P.セールスO.S.B、 『ダッハウ:神のいない世界』、1945年、セバルドゥス出版社、ニュルンベルク、p. 80。
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写真10:収容所の壁の裏側、排水溝と平行に流れる水路。(筆者撮影)。

現在でも、収容所から旧火葬場を見ることは不可能であり、新火葬場への小道を歩いて旧火葬場から数メートル以内にいても、多くの見学者は見落としてしまう。

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写真47:ダッハウ強制収容所の簡単な地図。火葬場(11番)は囚人からはよく見えない。

1942年初頭までに、死亡率は、もともとトプフ&ゾーネ社によって建設された古い火葬場の収容能力を上回った。メーカーの名前は炉の扉によく見える。

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写真11:火葬炉扉の鋳型に見えるトプフ社名(ダニエル・ケレン博士撮影)。
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写真12:旧火葬場のよく使われた炉(ダニエル・ケレン博士撮影)。

1942年4月、より効率的な4炉式火葬場の計画が立案されたが、その計画初期から、5つのガス室が組み込まれていた。[14]

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写真13:新しい火葬場の位置図、1942年5月23日、ダッハウ・アーカイヴ。
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写真14:新しい火葬場の建築配置図、1942年5月23日。左の4つの消毒室に注意。ニュルンベルク州立公文書館。
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写真15:新しい火葬場の正面図と背面図。主火葬炉の煙突の左にある殺人室の上の排気煙突に注意。ニュルンベルク州立博物館。(著者による英語表記)

1942年7月23日、ベルリンのSS本部から150,000ライヒスマルクの費用で火葬場の建設を開始する命令が出された[15]。

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写真16:1942年7月23日付、レンツァー親衛隊参謀総長からダッハウ収容所管理者への新しい火葬場の建設を許可する書簡。ニュルンベルク州立文書館。

5つのガス室--4つは燻蒸専用、5つ目は殺人目的--を組み込んだ新しい火葬場は1943年に完成した。この新しい火葬場は「バラックX」という不吉な響きで知られることになる。[16]、[17]

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写真17:1945年の解放後に撮影された火葬場の写真。殺人室の前にある、容器を遮蔽する木製の構造物に注意。アメリカ陸軍の写真。
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写真18:木立から撮影された新しい火葬場の写真(筆者撮影)。
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写真19:新火葬場、北から南を望む。(写真は筆者撮影)
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写真20:火葬場の入り口の扉。(写真は筆者撮影)

ダッハウや他のナチ収容所の火葬炉は、厳密に言えば「火葬場」ではないことを指摘しなければならない。従来の「火葬場」は、一度に一人の死体を火葬するように設計されている。これは、加熱サイクル、焼却サイクル、冷却サイクル、遺灰の回収を意味する。連続的に遺体を火葬する炉は、「焼却炉」と呼ぶのがふさわしい。この場合、火葬と火葬の間に冷却期間も灰の回収もない。新しい死体は、古い死体が焼き尽くされるのと同時に、火葬炉に投入されるだけである。「焼却炉」の運転コストは「火葬場」のそれよりもかなり低く、効率はかなり高い。石炭やその他の燃料が不足しがちで、焼却すべき死体の数が大幅に増えたため、火葬炉は連続稼働した;複数の遺体が一緒に焼かれ、灰が混ざり合うこともよくあった:

ここでは改良された火葬炉(バラックX)が稼働した。扉を開けると熱風が吹き出すのを抑えるため、二重扉になっていた…4基の火葬炉があり、一度に7、8体ずつ、衰弱が激しいときは9体まで収容できた。火葬は約2時間(他の見積もりでは、この時間は10~15分程度とされている)。

翻訳者註:おそらく「2時間」の内容は複数体の遺体(「一度に7、8体ずつ」)を一回と数えた場合の火葬時間のことで、括弧内の著者のマザールによる注釈は、一体あたりの計算上の火葬時間のことでしょう。計算すると、1炉ごとに8体遺体を装填して2時間かかったとするのであれば、1時間で4体であり、従って平均すると、60分÷4体=15分/体となるわけです。これは、アウシュビッツ・ビルケナウの火葬炉と全く同じ一体あたりの火葬時間です(こちらにあるヤニシュ書簡を確認してください)。残念ながらマザール氏はこのことを理解していなかったようです。

 
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写真21:火葬炉2、3、4(筆者撮影)。
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写真22:火葬場の火葬炉1(著者撮影)
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写真23:火葬炉2の側面にある灰回収ハッチ。(筆者撮影)[翻訳者註:おそらく火葬炉の側面下にあるのは「灰回収ハッチ」ではなく、コークスを追加するためのハッチだと思われます。灰を回収するのは火葬炉の遺体挿入口の真下です]

理論的(建前的)には、遺灰は骨壷に集められ、保存されることになっていた。遺族は費用を支払えば骨壷を送ってもらうことができる。...いずれにせよ、複数の遺体が一緒に火葬されたため、骨壷は無作為に集められた灰で満たされた。結局、骨壷を埋める手間は省かれ、遺灰は火葬場の敷地内に埋葬された。[18]

火葬場はまだ正常に機能していたが、遺体を焼くのに10分から15分かかった。[19](翻訳者註:この一文の意味がよくわからないのですが、おそらく前述した一体あたりの火葬時間のことを言っているのでしょう)

ガス室

目的

これから2つの問題が取り上げられる:

  1. バラックXに建設されたガス室の意図された目的、

  2. バラックXにガス室が建設された後の実際の使用。

使用目的

多くの読者にとって驚きかもしれないが、バラックXには5つのガス室があり、そのすべてが当初の設計に含まれていた。これらは建設され、今日まで存在している。ダッハウ収容所を訪れる見学者の大半は、火葬場の正面入り口と、偽装された殺人ガス室として指定されている大部屋に恐怖に引き寄せられ、これらの場所を越えることはめったにない。この部屋(8号室)は、死体安置室の隣にあり、その死体安置室は、4つの巨大な炉がある広いエリアにつながっている。

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写真24:1945年、解放米軍が発見した火葬場に隣接する死体安置室。ニュルンベルグ州立文書館。

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写真25:ダッハウの殺人室の外にある多言語の看板。(筆者撮影)

しかし、新しい火葬場の原図(バラックX)には、さらに4つの部屋が描かれている。これらは建物の南側にあり、燻蒸あるいは消毒のために特別に設計・建設された。

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写真26:ダッハウの燻蒸室の外にある多言語の看板。(筆者撮影)
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写真27:ダッハウの4つの燻蒸室のうちの2つ。(筆者撮影)

ダッハウの過密状態は収容者に深刻な問題をもたらし、中でも最も危険だったのは、シラミを媒介とするチフスだった。これらの4つのガス室は、衣類、寝具、毛布などを燻蒸するために特別に設計されたもので、十分に証明された技術を使った:シアン化水素ガスは、チクロンBペレットの形をしていた。これらの部屋は、アウシュヴィッツで同じ目的で提案されたものと同じ設計であった:

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写真28:アウシュヴィッツ強制収容所の燻蒸室案が描かれた設計図。デボラ・ドワークとロバート・ヤン・ヴァン・ペルト、前掲書、p. 220.

この方法は[以前の方法であるHWMを使って]効果的であったが、収容所当局は、この方法が非効率的であることに苛立ちを覚えた。大量のチクロンBが必要で、シラミの駆除に時間がかかりすぎたのである。デゲシュの技術者たちは、1941年に建築事務所に送った論文で、この問題を取り上げている。彼らは、標準的な200グラムのチクロンB缶で使えるように設計された小型の加熱可能な部屋を多数建設することを推奨した。空間を摂氏30度以上に加熱すれば、粒からガスがすばやく完全に蒸発し、シラミを殺すのに必要な暴露時間が1時間に短縮された。[...] [20]

アウシュヴィッツで計画されていた殺菌ガス室は、チクロンBの入った缶を開け、結晶かペレットをトレイに分配し、そしてペレットに熱風を吹き付け急速に蒸発させる、独特の装置を使うように設計されていた、[21]

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写真29:アウシュヴィッツ燻蒸室用に提案されたツィクロンB散布装置。デボラ・ドワークとロバート・ヤン・ヴァン・ペルト、前掲書、p. 221(英語表記は筆者による)。

アウシュビッツ当局は、この機械化された部屋にかかる費用を正当化することができず、この計画は中止された。

しかし、ダッハウの新しい火葬場の建設費には、害虫駆除のために特別に設計された4つのガス室(上記の<写真14>と<写真27>を参照)の建設が含まれており、それぞれのガス室には、アウシュヴィッツのために提案されていたのと同じデゲシュ社のチクロンBディスペンサーが設置されていた。

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写真30:新しいダッハウ火葬場に設置されたチクロンB散布装置。(筆者撮影)

害虫駆除室は小さく、狭く、天井が低い。人間の駆除よりも、衣類、寝具、毛布の処理に適している。対象の駆除処理が完了したら、作業員は外側のドアを開けて、残っている非常に揮発性の高いガスを危険なしに大気中に拡散させるだけで済む。ダッハウ火葬場にある4つの並列室は、疑いなく、シラミその他の昆虫を駆除するために特別に設計されたガス室である。

4つの害虫駆除室に隣接する大きな部屋もガス室であるが、この部屋は殺人目的に特別に設計されている。この部屋がガス室?という疑問は、部屋の天井にある排気口<写真31>、屋根にある排気煙突<写真32>、害虫駆除ガス室で使われている金属製のドア<写真33>を見ると、すぐに払拭される。

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写真31:ダッハウ火葬場の殺人ガス室の天井。排気グリルと偽シャワーヘッドに注意。(ダニエル・ケレン博士撮影)
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写真32:殺人室の外観。真上に排気煙突がある。(ダニエル・ケレン博士撮影)
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写真33:死体安置室に通じる殺人室のドア。(ダニエル・ケレン博士撮影)

ガス室のドアの当時の写真<写真34>は、害虫駆除室で使われているものと似たデザインである。

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写真34:1945年、アメリカの解放軍が発見した殺人室のドア。(米軍撮影)。

部屋の天井にある偽のシャワーヘッド<写真35>、ドアに掲げられた「Brausebad」(シャワー室)と書かれた看板<写真36>、タイル張りを模した滑らかなレンガ仕上げ(下の<写真41>参照)は、消毒室と殺人室を結ぶ通路に衣服を置いた犠牲者が入浴すると信じさせるための手の込んだ策略の一部であったと思われる。

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写真35:偽シャワーヘッドのアップ。(ダニエル・ケレン博士撮影)
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写真36:脱衣場から殺人ガス室に入るドア。「Brausebad」(シャワー浴室)であることを示す標識に注意。(筆者撮影)

殺人室としての設計のさらなる証拠は、ガス室から外部に通じる2つのゴミ入れのような引き出しである。

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写真37:致死性毒物を入れるために設計された2つのゴミ入れのような引き出しを示す殺人ガス室の外観。(ダニエル・ケレン博士撮影)
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写真38:2つのゴミ入れのような引き出しのうちの1つと閉鎖された換気口を示す殺人ガス室の外観中景。(ダニエル・ケレン博士撮影)
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写真39:殺人室に致死性の毒を入れるためのゴミ入れのような引き出しのクローズアップ写真。底にヒンジがあり、装置を揺り動かしたり出したりできる。(写真提供:ダニエル・ケレン博士)

これらの容器を説明する唯一の可能性は、小さな缶からチクロンB(あるいは他の致死性の揮発性毒物)の顆粒を受け取るように設計されていたということだ。殺人ガス処刑の責任者は、ガスマスクをつけ、2つのゴミ入れを開け、それぞれにチクロンBの小缶の一部を捨てるだけでよい。これを終えると、オペレーターは、保護格子によって犠牲者からの干渉から守られているビンを閉じ<写真40><写真41>、犠牲者がすべて死ぬまで数分間待つ。

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写真40:保護格子を示すゴミ入れのような引き出しの内部のクローズアップ。(ダニエル・ケレン博士撮影)
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写真41:殺人ガス室内部からの格子ゴミ入れのような引き出しのクローズアップ写真。(ダニエル・ケレン博士撮影)

この時点で、強力な機械式排気装置が作動し、有毒ガスが大気中に放出され、ゴミ箱の上部に設けられた小さなハッチから新鮮な空気が取り込まれる。その後、遺体は死体安置室に移され、隣接する火葬炉での焼却を待つことができる。

害虫駆除室と殺人ガス室へのチクロンBの散布方法の違いが問題となる。簡単に言えば、昆虫を殺すためのシアン化水素ガスの暴露時間と濃度は、人間を殺すのに必要な濃度よりもかなり高いということだ。この製品のメーカーによれば、人間を殺すのに必要な量は1立方メートルあたり0.3グラムだが、昆虫を駆除するためには1立方メートルあたり10グラムの濃度が日常的に使われていたという[22]低濃度のシアン化水素で人間を殺すことが比較的容易であることから、殺人室では、高価なデゲッシュ・ディスペンサーを使うよりも、引き出しのようなゴミ入れを使う方が簡単であり、コストもかからない。さらに、この容器を使えば、ラッシャーがヒムラーへの手紙の中で提案したように、他の揮発性毒物を使用することができる。(以降参照)

これまで説明のなかった、不審な構造について言及しておこう。新しい火葬場(バラックX)の東側の壁に、ゴミ箱のような引き出しがある場所を塞いでいるように見える木製のスクリーンは、アメリカ軍が収容所を解放した直後に撮影された写真で確認できる。(上記<写真17>も参照)

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写真42:ゴミ入れのような引き出しの前にある木製のスクリーンの前に積み上げられた遺体。(写真はレンツ,ヨハネス・マリア、『ダッハウのキリスト、あるいは勝利者キリスト』、1957年、Buchversand: "Libri Catholici "の464頁に掲載)。

このスクリーンは幅16フィート、奥行き6フィートほどあるようだ。屋根はないようだ。もし本当にスクリーンであったなら、何気ない傍観者に観察される可能性もなく、一人または複数の犯人がゴミ入れのような引き出しを操作できたはずである。

ガス室の実際の使用

燻蒸室や害虫駆除室が本来の目的で使用されたことはほぼ確実である。ノイホイスラー司教はミシュレの『自由の街』を引用している:

...ガス室と提供された毒ガスをうまく利用した。腸チフスが流行したとき1944年の冬、収容所で腸チフス(typhoid fever)[筆者は間違っている。シラミが媒介するチフス(typhus)のことだろう。- HWM(翻訳者註:日本語の「チフス」の意味については、詳しくはWIkipedia)]が大流行したとき、消毒部隊のカポは収容所のリーダーに、消毒兵舎の庭に山積みにされ、シラミを媒介する危険なボロ布をチクロンのガスで消毒することを提案した。実験は成功した。しかし、そのためにガス室が使われたわけではない。その代わりに、火葬場の西側[実際には南側-HWM]出口にある小さな部屋と、一般的に消毒に使われるもう一つの収容所建物がこの役割を果たした。[23]

ダッハウの公式歴史家であるパウル・ベルベンはさらにこう述べている:

1944年から5年にかけての冬、親衛隊軍医の権限で消毒班が、害虫にまみれた衣服の山をガスで消毒し始めた。[24]

ダッハウの管理当局、何人かの有名な囚人、そして多くの歴史家は、収容所の大型ガス室が殺人目的で使われたことはないとすぐに指摘するが、少なくとも、それに反する証拠もある。たとえば、ノイホイスラー司教はこう述べている:

金網の向こうにも収容所の火葬場があった。最初は木造のバラックに収容されていたが、後に、ポーランド人カトリック司祭が建築業を教えて建てた石造りの建物に収容された。この火葬場は、収容所にかなり近い西側の小さな森の中にあった。西風が吹いていたため、死体の焼ける臭いが収容所内に充満し、彼らの最期が近づいていることを思い起こさせ、絶望感を計り知れないものにした。

新しい火葬場にはガス室も接続された。ガス室を備えた火葬場の建設全体は1943年に完成した。「脱衣室」、「シャワー室」、「死体安置室」があった。シャワーは金属製のトラップであり、毒ガス供給用のパイプラインはなかった。このガス室がダッハウで稼働することはなかった。死者だけが「焼却」のために火葬場に運ばれ、「ガス処刑」のために生きている者は運ばれなかった。[25]

また、少なくとも3,166人の捕虜がリンツのハルトハイム城に送られたという証拠もかなり残っている。ここで彼らは、もともと精神遅滞者や身体障害者を処分するために使われていた小さなガス室で、すぐに死刑にされた。[26]

ジークムント・ラッシャー博士

ハインリヒ・ヒムラーの知人で、後に不遇の身となり処刑されたラッシャーは、ダッハウでのグロテスクないわゆる「医学実験」に積極的に参加した。この実験には、囚人が屈服するまで冷水に浸したり、悲鳴を上げる囚人が死ぬまで高所を模擬した部屋から避難させたりすることも含まれていた[27]。ラッシャーの活動のこの側面や、彼の特異な資格について詳しく説明することは、この小論の範囲を超えている。分析に値するのは、1942年8月9日にヒムラーに送られた彼の便箋に書かれた通信である。<写真43> 英語に翻訳するとこうなる:

画像44
写真43:ラッシャーからヒムラーへの書簡、1942年8月9日。ベルリン文書センター個人記録。

ジークムント・ラッシャー博士
ミュンヘン
Togerstr.56
1942年8月9日
尊敬する親衛隊全国指導者!

ご存知のように、リンツと同じ施設がダッハウに建設される予定です。いずれにせよ、「障害者輸送」は特別室に終着するので、私は、このような特別室に収容される運命にある人物を使って、この特別室での戦闘ガスの効果をテストすることができないかと考えました。これまでのところ、入手可能な報告は、動物実験か、ガス製造中の事故に関するものだけです。

(署名)
S. ラッシャー[28]

この手紙は大きな論争を引き起こした。大きなガス室が実際に殺人室であったことは立証されているが、ラッシャーの手紙以外には、実際に人間に対して使用されたことを裏付ける証拠はほとんど出てこなかった。しかし、少なくとも実験目的でこのガス室が使用されたことを裏付ける、あまり知られていない本がある。。

ナチス・ドイツと国境を接するオランダの小さな町、フェンロのホテルで、英国諜報部員のS・ペイン・ベスト大尉が他の英国人将校とともにゲシュタポに誘拐された。誘拐はドイツ軍がオランダを占領する前のことで、それまで平和な中立国だった。几帳面な将校で、諜報の専門家であり、強迫的な日記を書くベスト少佐は、ナチスの捕虜の中ではむしろ待遇がよく、優秀な捕虜のための独房が割り当てられた。当初ザクセンハウゼンに収容されていたベスト少佐は、1944年8月にブッヘンヴァルトに移された。

フォン・ラーベナウ将軍、ボンヘッファー牧師、フォン・ファルケンハウゼン将軍、ヨーゼフ・ミュラー博士など、特権的な囚人たちに混じって、ジークムント・ラッシャー博士の独房(No.10)は、ベスト大尉の独房(No.11)に隣接していた:

翌朝、洗面所に行くと、生姜の口ひげを生やした小柄な男がいて、ラッシャー医師と名乗り、自分はイギリス人とのハーフで、母親がチェンバレン家と親戚だと言った。私の名前を告げると、彼は私の事件を知っていて、スティーブンス(もう一人の英国人将校-HWM)がダッハウで医務官をしていたときにも会ったことがあると言った。...彼は奇妙な奴で、おそらく私の知る限り最も奇妙な人物だった。

ほとんど最初に会ったとき、彼は、自分がヒムラーの個人スタッフに属していたこと、ガス室の建設を計画・監督し、囚人を医学研究のモルモットとして使う責任を負っていたのは自分であったことを私に話した。明らかに、彼はこのことを何も悪いこととは思っておらず、単なる便宜上の問題と考えていた。ガス室に関しては、非常に心優しい人物であるヒムラーは、囚人がもっとも不安と苦痛を感じないような方法で絶滅されることをもっとも心配しており、その目的がわからないようにカモフラージュされたガス室を設計し、患者が決して目覚めないことを認識することなく眠りに落ちるように、致死性ガスの流量を調節するために、最大の努力が払われたと述べている。残念なことに、毒ガスの影響に対する抵抗力が人によって異なるために起こる問題を解決することにはまったく成功していなかった。ラッシャーによると、主な難点は、殺される人数があまりにも多いために、ガス室が満杯になるのを防ぐことが不可能であったことであり、このことが、規則正しい同時死亡率を確保しようとする試みを大きく妨げていたのである。[29]

もし、ラッシャーが述べているように、「...問題解決に成功しなかった...」というのであれば、彼はおそらく、ダッハウのガス室で人を死刑にする実験をしていたことになる。ラッシャーは、1944年初頭まで、ダッハウで「医学実験」を行っていたが、表向きは、幼児誘拐を妻に手伝わせたという理由で逮捕された。彼がダッハウを去ったことで、殺人室のさらなる実験は終わりを告げたのであろう。

アメリカ軍がブッヘンヴァルトに迫ったとき、ラッシャー、ベスト、その他の著名な "特別 "囚人はダッハウに疎開し、「バンカー」と呼ばれる囚人専用区域に収容された。ラッシャーは1945年4月26日、ダッハウの「バンカー」の73号房で後頭部を撃たれて死んだ[30]。その3日後、収容所はアメリカ軍によって解放された。ベストは釈放され、回想録を出版した。

セールス・ヘスO.S.B.神父も、ダッハウ解放直後に出版した著書の中でガス室について触れている:

1942年までは、小さな火葬場が2基の炉で業務を行っていた。1942年には、4つの炉を備えた大きな火葬場が建設され、4つのガス室が装備された。すべての建設は、多くのポーランド人司祭を従えた石工たちによって実行された。火葬炉の炉床は十分に大きく、4つの死体が一度に収まることができた。[…]まだ生きていた囚人が火葬炉に入れられたという話をよく聞いた。1942年か1943年に、ユダヤ人の分遣隊が目立って火葬場に『連行』され、誰も帰ってこなかった。彼らはどうなったのか、私たちは疑うことしかできなかった。それ以上の具体的なことは知らなかった。[31]

解放

ダッハウは1945年4月29日、アメリカ軍によって解放された。彼らが遭遇したシナリオは、筆舌に尽くしがたいダンテスクなものだった。新しい火葬場の死体安置室(上の<写真24>参照)と古い火葬場の前には、死体が無造作に積み上げられていた。

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写真44:ダッハウが解放されたとき、古い火葬場の外に積み上げられた死体。Berben, Paul, op. cit., pp.192と193の間の写真は、ベルギー人囚人J. Brichauxによるもの。

囚人たちが収容されていた小屋の外にも、収容所の敷地内に死体が散乱しているのが見つかった。<写真45> 近くの鉄道の側線にあった箱車も、何百もの死体で埋め尽くされていた。<写真46> このような犯罪を説明できるものは何もない。

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写真45:小屋の外に並んだ遺体(米軍撮影)
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写真46:アメリカ軍が鉄道車両で発見した遺体。(帝国戦争博物館、ロンドン)

彼らに突きつけられた証拠を考えれば、兵士、観察者、ジャーナリスト、議会調査員が、死体安置室、ガス室の床、古い火葬場の隣で発見された死体がガス室の犠牲者であったと仮定しても不思議ではなかった。当時のアメリカ陸軍新聞の報告はこう伝えている:

ダッハウの火葬場は長くて低いレンガ造りの建物で、高い煙突があり、そこから昼も夜も煙が流れていた。ガス室は20フィート四方で、天井にはシャワーの吹き出し口のような18個のノズルがある...[32]

今日、これらの場所で発見された死者のすべてではないにしても、そのほとんどは、飢餓、野晒し(exposure)、病気--とくにチフス--虐待、毒ガス以外の手段による処刑によって死んだと一般に受け止められている。それにもかかわらず、ダッハウ収容所の生存者の一人、ポーランド人技師ジョエル・サックは、解放後すぐに殺人室を訪れて、こう報告している:

外には、ジクロンB[中略]の毒が入った缶がまだたくさんあった。その缶には、A.E.G. [sic] FARBEN INDUSTRIEという製造者の名前が記されていた。

ガス室のドアの外側には、記録をつけるための用紙が取り付けられていた:

Gasheit, ガス処理時間、Zu, 閉じる . . . Uhr, 時間 ...

Auf, 終了 . . . Uhr, 時間 . . .

その下には、ドクロに2本の十字架と警告の印があった:

Vorsicht, Careful . . . G A S(慎重に...。G A S)
Lebensgefahr, Danger to Life(命の危険)
Nicht Offenen, Do Not Open [33](開けないこと)

米軍、ヘス神父、サックのいずれの報告も、殺人室が人を殺すために使われたことを決定的に証明するものではない。さらなる証拠が発見されるまでは、歴史家たちは、あの部屋で毒ガスを使って人間を殺害することは技術的には可能であり、16x16x高さ12フィートのあの部屋は、そのような苛酷な仕事を遂行するためだけに設計されたものであったという知識で自らを納得させなければならないであろう。この事情は、犯人たちの罪を免除するものではない。ダッハウにいた何万人もの不幸な人々がどのような方法で命を失ったにせよ、彼らはガス室に入れられてシアン化水素ガスで窒息死させられたのと同じように確実に殺されたのである。どのような手段であれ、人命を意図的に破壊することは殺人であることに変わりはない。当面は、ナチスがダッハウで殺人ガス室を使うつもりであったこと、ダッハウ強制収容所でそのようなガス室を設計し、建設し、設備していたことを示すだけで十分である。

▲翻訳終了▲

以上、反修正主義者の、故・ハリー・W・マザール氏によってまとめられたダッハウのガス室についての解説記事でしたが、わかりやすいのは良いのですが、個人的には不十分だと思っています。たとえば、あっさり「ダミーシャワー」だと述べられていますが、どうしてそれがダミーシャワーだとわかったのかについて、何の説明もありません。この件、ネット上だけとは言え、色々調べてはいるのですが、出てくるのは否定派の主張ばかりで、彼らは米軍が偽造したのだとの主張か、それらのシャワーは実際にシャワーだったとの説かのいずれかで、定説側や反修正主義者側の説明はほとんど見かけません。ダミーシャワーであったことを疑っているわけではないのですが、以前に見たのは昔の『対抗言論』のサイトの中で「給水設備が接続されていなかった」という説明だけであり、どうしてそれがわかったのかについては何の説明もありませんでした。どうにかしてもうちょっと詳しく知りたいのですが、今のところお手上げです。

また、マザールの記事には一切書いていませんが、ダッハウのガス処刑を唯一目撃したとされる証言があります。フランチシェク・ブラーハというダッハウに囚人になっていた医師であり、米軍による尋問調書と、ニュルンベルク裁判での証言の二つです。以下に、そのうち、ガス室に関連した部分だけ抜粋して翻訳紹介しておきます。

尋問調書と裁判での証言で、ガス実験の際の被験者の人数が異なる点が気になると言えば気になりますが、内容的には、上記翻訳記事中で紹介したラッシャーの手紙や、イギリス軍諜報員の戦後の記述と内容的に矛盾しないものなので、否定はしにくいものだと思います。但し、決定的証拠とまでは言えません。他に証拠が少なすぎるのです。おそらく、このように証拠が少ないのは、ダッハウのガス室はガス実験に使われたとしても、マザールが書くように、ほんの数回くらいしか使われなかったのではないかと思われますが、ともかく証拠が少なすぎます。ダッハウのガス室でのガス処刑の実態は未解明というしかないと思います。

▼翻訳開始▼

フランチシェク・ブラーハのダッハウに関する供述書
1945年5月3日~18日

1945年4月29日、ダッハウはアメリカ軍によって解放された。1945年5月3日からは、フランチシェク・ブラハの供述調書(5月3日から5月18日の間に作成)などが作成され、その原本がオンラインで公開されている。以下はその記録である(1946年1月11日と14日にニュルンベルクで行われたフランチシェク・ブラーハの証言もこのサイトで再現されている)。

PS 2586 ページ 68-112

証拠書類No.5

1945年5月3日1540時にドイツのダッハウで撮影されたフランツ・ブラーハ博士の証言。Tec 3 ISIDOR M. ASTOR, 32 115 631, WCIT #6823, Hq ETGUSA (J. A. Section) APO 887, U.S. Army, は、調査官・審査官であるデヴィッド・チャベス・Jr.大佐の前に報告者として出頭し、彼から以下の形式で宣誓された。「あなたは、現在私が行っているこの調査において、報告者としての職務を忠実に遂行することを誓います、どうぞよろしくお願いします。」

S/Sgt, ALFRED E. LAURENCE, #33625383, WCIT #6823, Hq. ETCUSA (J.A. Section) APO 887, U.S. Army, S/Sgt, ALFRED E. LAURENCE, WCIT #6823, Hq: 「あなたは、現在私が行っているこの調査において、真に通訳することを誓います。」

フランツ・ブラーハ博士が調査官・審査官の前に現れ、次のように証言した。

Q. ブラーハ博士、我々は、ここダッハウの強制収容所を担当していたドイツ人が行ったとされる残虐行為や残酷さを調査しています。あなたは、この収容所でドイツ人が犯した状況や残虐行為について、宣誓して証言してくれますか。

A. はい。

Q. 誓いの意味を理解していますか?

A. はい。

Q. 起立して右手を挙げ、宣誓してください。あなた、フランツ・ブラーハは、現在私が行っているこの調査において、あなたが提出する証拠は、真実であり、全体であり、真実以外の何ものでもないことを誓いますか、お願いします。

A. 誓います。

註:翻訳箇所はガス室に関連した箇所のみとします。

(中略)

Q. No.1、No.2、No.3と記載されている段落に注目していただき、その段落を読んで通訳に伝え、通訳がそれを記録に読み上げるようにしていただけますか?

A. パラグラフ.1:労働キャンプを含む収容所とコマンド53,117外のおおよその兵力。これは正しいです。パラグラフNo.2:死者の量10,435人。これは正しくありません。なぜなら、絞首刑、銃殺、ガス処刑によって殺されたケースは含まれていないからです。これは自然死だけです。この場合、ダッハウの強制収容所とSSの労働キャンプから出たユダヤ人、名前はカウフェリング、ミューレドルフ、リーダレ-5,495人です。

Q. 先生、第2項には、1945年1月1日から3月27日までの間の死亡者数は10,435人と簡潔に書かれていますが、これは正しいですか?

A. はい、自然死です。

Q. では、第1項に記載されている自然死の数以外にも、ダッハウ強制収容所では死人が出たのですね?

A. とても多いです。

(中略)

Q. 注射された800人のうち、90%が死亡し、残りの10%は一生不自由な生活を送ることになるので、死亡率は100%と言ってもよいのではないでしょうか?

A. はい。

Q. これらの障害者はどうしたのですか?

A. 毎週、あるいは2週間ごとに、いわゆる病人輸送車で送り出されました。

Q. 彼らは殺されたのですか?

A. ガス室で殺されたり、アイブパンやユーナルコン(スペル)の注射で殺されたりしました。さらに、2つの大きな病人輸送列車が、1つはリンツへ、もう1つはルブリンへと、数千人の人々を乗せて送り出されました。

註:このガス室とは、外へ送り出されているので、リンツのハルトハイム城の安楽死施設のことだと思われる。

(中略)

Q. ダッハウ強制収容所には、他の種類の処刑室がありましたか?

A. すべての処刑は火葬場とその庭で行われましたが、1942年にSS兵舎のライフル射撃場の近くで行われたロシア人捕虜の射殺を除いては、そのようなことはありませんでした。

Q. ガス室のことを聞いたことがありますか。

A. はい、私は、火葬場の建物の中にあるガス室に入ったことがあります。

Q. 資料「C」をお渡ししますので、それが何を表しているのか教えていただけますか。

A. これは、新しい火葬場のガス室です。

Q. その資料にはある言葉が書かれていますね。「ブラウゼバッド」の意味を教えていただけますか。

A. この「ブラウゼバッド」はドイツ語で「シャワー・バス」を意味しています。

Q. あなたは、ロシア人捕虜が処刑されたと話しましたね。何人のロシア人捕虜がSSによって処刑されたのでしょうか。

A. あまり正確な数字は言えませんが、ある時期、収容所には6~8千人のロシア人捕虜がいたことは知っています。それらの囚人はすべて機関銃で殺され、私自身も銃声を聞いたことがあります。

Q. その捕虜たちはいつ殺されたのですか?

A. 1942年の春と夏です。

Q. これらのロシア人捕虜が処刑されたときのSS司令官は誰でしたか?

A. 当時の収容所司令官の名前は知りませんが、収容所のリーダーであるアイケ親衛隊上級大将は知っていました。今、収容所の司令官の名前を思い出しました。ピオルコウスキーでした。

(中略)

Q. ダッハウ収容所で発狂した囚人たちはどうなりましたか?

A. いわゆる病人輸送車でダッハウから送り出されるか、病院の神経病ステーションに連れてこられ、注射で治療されました。

A. 先生、いわゆる輸送車というのは、単なる架空の名前で、実際にはこの人たちは火葬場に連れて行かれて焼かれたのですか?

A. あれは架空の名前にすぎません。その人たちは、夜、火葬場に連れて行かれ、ガス室でガスを浴びせられましたガス室が存在する前の時代には、収容所の地下牢に連れて行かれ、そこで注射を打たれていました。

Q. 収容所の地下牢について何を知っていますか?

A. ダッハウ収容所の地下牢はさまざまな部分で構成されています。普通の独房もあれば、非常に小さな窓のある独房もあります。他の種類の独房では、囚人は横になることができますが、立ち上がらなければなりません。普通の独房には、将軍や評判の良い外国人など、著名な囚人が入れられていました。彼らはよく扱われ、庭を歩くことも許されていた。小房は、収容所政治部や収容所役員の調査を受ける囚人に使われた。立ったままの独房は、人に話をさせたり、罰を与えたりするための拷問に使われました。この独房では、一度に2~3日も立たされることがありました。

(中略)

Q. もちろん、あなたはまだ宣誓していることを理解していますか?

A. はい。

Q. ダッハウ収容所の火葬場に隣接しているガス室を見たことがありますか。

A. はい、何度も見ました。

Q. このガス室を検査したことがありますか。

A. はい、しました。また、建設の目的を知っていたので、1943年中頃に完成するはずだったので、囚人労働者に作業を遅らせるように伝えました。

Q. ガス室が実際に完成したのはいつですか。

A. 火葬場と一緒に、1944年の初めには完成していました。

Q. ガス室の偽のシャワーヘッドの構造を観察しましたか。

A. いいえ、しかし、建設に携わったすべての労働者が、この部屋をシャワー室ではなく、ガス室と呼んでいるのを聞いたことがあります。

Q. この部屋の外側のドアに刻まれている文字を見たことがありますか。

A. はい、見たことがあります。この部屋が建設されたときから、ドアには「シャワールーム」という記号が描かれていました。

Q. あなたは個人的に、この部屋でガスを浴びた人を見たことがありますか?

A. はい、7人の人がガス処刑されるのを目撃しました

Q. それは何日のことでしたか?

A. 日付は覚えていませんが、1944年の初春、夜の8時頃でした。

Q. あなたの知る限り、ダッハウでガス処刑されたのは、この囚人たちが最初でしたか?

A. 私の知る限りでは、そうです。

Q. なぜ、ガスを浴びた後の囚人たちを見ることが許されたのですか?

A. 死体を調べて、生きている痕跡を確認しなければなりませんでした。私は医者なので呼ばれたのです。

Q. このとき見たことを話してください。

A. 死んでいる囚人が2人、意識不明の囚人が2人、そしてまだ生きていて座っている囚人が3人いました。この最後の3人の囚人はまだ話すことができました。SS医師ラッシャーの監督のもとで働かなくてはならなかったので、この最後の3名の囚人に質問することはできませんでした。ラッシャー医師は自分でガス室に入ることを恐れていたので、私はラッシャー医師からガス室に送られました。私が行なった唯一の検査は、囚人が死んでいるかどうかを判断することでした。私が去った後、生きていた人たちに何が起こったのかは知りません。

Q. この特別な機会に、この部屋で使われたガスの種類を自分の知識で知っていますか?

A. いいえ、聞かされていないので、知りませんが、ガスは甘い匂いと味がして、やや塩素に似ていました。

Q. ガス室に入るとき、ガスマスクを着用しましたか。

A. いいえ、しませんでした。

Q. 入る前に部屋は換気されていましたか?

A. はい。

Q. これらの囚人のうち2人だけが死んでいて、2人が意識不明、3人が生きていた理由について、何か説明はありますか?

A. はい、おそらく、ガス処刑の初期の実験段階であり、この時点では、死をもたらすのに必要なガスの量を決定するために、最小量のガスを使用していたからでしょう。

Q. ガス室の中のこの2つの死体について、医学的な観点から、何か特別なことに気がつきましたか?

A. はい。口から泡が出ていましたし、皮膚は青みがかった赤い色をしていました。

Q. 使われたガスがシアン化合物であった可能性があると思いますか?

A. もしガスがシアン化物だったら、7人全員が死んでいたでしょうし、シアン化物中毒後に見られる皮膚の鮮やかなスカーレット・ピンク色を呈していたはずだからです。

Q. あなたの意見では、ガスは塩素または塩素誘導体であったのではないでしょうか?

A. はい、塩素と他のガスの混合物であった可能性があります。

Q. あなたが部屋に入ったとき、意識があり、座っていた人たちの状態はどうでしたか?

A. 青白い顔をしていて、肌は湿っていましたが、咳や涙をした形跡はありませんでした。

Q. ガス室の7人の囚人が誰であったか、特定の国籍や人種であったかを知っていますか。

A. いいえ、彼らは民間の下着とズボンを着た民間人で、囚人マークのないジャケットを着ていました。いずれかの方法で死刑を宣告された囚人の衣服を、死刑執行の前に、囚人用の衣服を取り去って、民間人用の衣服に取り替えることが、常に慣習となっていました。

Q. ラッシャー博士や他の誰かが、部屋の中で囚人に起こったことについて、あなたに何かを言いましたか?

A. いいえ、ラッシャー博士は私を自動車に乗せて、何も言わずに火葬場に連れて行ってくれました。会議室に着くと、彼は私に、中に入って男たちを調べ、彼らの状態を報告するように言いました。

Q. この部屋で、衣服や毛布の消毒が行われた形跡はありましたか?

A. いいえ、私が入ったときに部屋にいた囚人を除いて、部屋は完全に清潔でした。

Q. 医師、医学者としてのあなたの意見では、あなたが部屋で見つけた2体の死体は、ガスによって処刑されたのですか?

A. はい、そう信じています。というのも、市民生活の中で、ガスで処刑された患者を観察し、治療した経験があるからです。私は、この部屋で、3つのクラスの人々を見ました。死者は口から泡を吹き、皮膚は青みがかった青みがかった変色をしており、顔はわずかに膨らんでいました。意識のない人の脈拍は遅く、弱く、平均して1分間に約50回でした。意識のある人の脈拍も遅く、平均して1分間に約60回でした。

Q. この部屋で発生したガス処刑のエピソードを、直接または間接的に知っていますか?

A. ガス処刑については伝聞でしか知らず、自分の知識ではありませんが、病院の特定の部屋に精神病患者がいなくなり、その患者が火葬場に運ばれたのを見たことがあるという事件を数多く知っています。私の知る限り、それらの患者は病院に戻ってこなかったし、その患者が病院に運ばれた後も戻ってこなかった。病院から連れ去られた精神異常の患者には、退院票が作成されました。

Q. あなたは、火葬場に連れて行かれた心神喪失の患者を何人か知っていますか?

A. はい。

Q. あなたの知る限りでは、これらの患者のうち、病院に戻ったり、収容所エリアで見かけたりした人はいますか?

A. いいえ。

Q. これらの精神異常者が火葬場に連れて行かれるのを見たのはいつですか?

A. 私が説明したエピソードの前と後の両方で、ガス処刑された7名の人々を見ました。しかし、私が目撃したこのエピソードの前に連れて行かれた人々には注射が打たれていましたが、その後に連れて行かれた人々には、間歇的な注射は打たれていませんでした。

証言は1945年5月18日午前9時30分に終了した。

フランツ・ブラーハ

デヴィッド・チャベス・JR., Colonel, JAGD, Investigator-Examinerの認証を受けています。

私は、上記の証言が、上記の署名がなされる前に、証人の母国語で書き取られたことを証明します。

▲翻訳終了▲

▼翻訳開始▼

フランチシェク・ブラハのダッハウに関する供述書
ニュルンベルク - 1946年1月11日〜14日

1945年4月29日、ダッハウはアメリカ軍によって解放された。1945年5月3日からは、フランチシェク・ブラーハの供述調書などが作成された。彼はニュルンベルク裁判で再び証言した。この証言は、裁判の議事録「Trial of the Major War Criminals, Proceedings Vol.5, Nuremberg, 1947, p.167-199」に掲載されている。原本(pdf形式)と、より読みやすいトランスクリプトをオンラインで公開している。この証言を再現してみた。1946年1月9日にブラハが行った宣誓証言(文書PS-3249)の朗読も含まれており、ドイツ語の原文は「主要戦犯裁判」の「文書(ブルーシリーズ)」の巻に掲載されている。XXXII, pp.56-64 (pdf形式)、および1946年1月11日のドイツ語版のトランスクリプトにも記載されている。また、ニュルンベルクでの証言を抜粋したビデオも公開されている(パート1パート2パート3)。これらのビデオは、ロバート・H・ジャクソン・センター収集したビデオの一部である。

第三十二日
1946年1月11日(金)午前の部

[...]

ドッド氏:証人フランツ・ブラーハ博士を召喚します。

[証人のブラーハが証言台に立った]

裁判長: [証人に]あなたの名前はフランツ・ブラーハですか?

DR. フランツ・ブラーハ(証人):[チェコ語で]フランツ・ブラーハ博士です。

裁判長:この宣誓を繰り返してください。「私は全知全能の神に誓って、真実を、純粋な真実を語り、何も差し控えたり付け加えたりしないことを誓います」。

[証人は宣誓を繰り返した]

裁判長;座って下さい。

ドッド氏:あなたはフランツ・ブラーハ博士で、チェコスロバキアの出身であり、市民でもありますね?

ブラーハ:[チェコ語で]はい。

ドッド氏:あなたはドイツ語を話すことができると聞いています。技術的な理由から、この試験はドイツ語で行うことを提案しますが、あなたの母国語はチェコ語だと思いますが、そうでしょうか?

ブラーハ:本件の利益のために、以下の理由でドイツ語で証言したいと思います。1. 私の証言の対象となっている過去7年間、私はもっぱらドイツ語の環境で生活してきました。 強制収容所での生活やその周辺に関する多くの特殊・技術的な表現は、純粋にドイツの発明であり、他の言語では適切な表現が見つかりません。

ドッド氏:ブラーハ博士、あなたは学歴、訓練、職業からして医学博士ですか?

ブラーハ:[ドイツ語で]はい。

ドッド氏:そして、1939年、あなたはチェコスロバキアの病院の院長でしたか?

ブラーハ:はい。

ドッド氏:あなたは、1939年にドイツ軍がチェコスロバキアを占領した後、逮捕されたのではありませんか?

ブラーハ:はい。

ドッド氏:1939年から1941年にかけて、さまざまな刑務所に収容されましたか?

ブラーハ:はい。

註:翻訳箇所はガス室に関連した箇所のみとします。

(中略)

12. ガスや銃撃、注射による多くの処刑が収容所内で行われた。ガス室は1944年に完成しましたが、私は、最初の犠牲者を調べるために、ラッシャー博士に呼ばれました。部屋にいた8~9人のうち、まだ生きているのは3人で、残りは死んでいるように見えました。目は赤く、顔は腫れ上がっていました。後に多くの囚人がこの方法で殺されました。その後、彼らは火葬場に運ばれ、私は彼らの歯に金が付いているかどうかを調べなければなりませんでした。金を含んだ歯が抜かれました。病気になった多くの囚人は、病院にいる間に注射で殺されました。病院で殺された囚人の中には、解剖室に運ばれてきましたが、通常は足の親指に結ばれているタグに名前も番号も書かれていませんでした。そのタグには「解剖しないでください」と書かれていました。私が解剖したところ、彼らは全く健康でしたが、注射が原因で亡くなっていました。赤痢になったり、嘔吐して看護師を困らせたりしただけで殺されることもあった。精神病患者は、ガス室に連れて行かれ、そこで注射されたり、銃で撃たれたりして処刑されました。射殺は一般的な処刑方法でした。囚人は火葬場のすぐ外で撃たれ、中に運ばれることもありました。息をして音を立てている間にオーブンに押し込まれた人を見たことがありますが、生きている状態であれば、まず頭を殴られるのが普通です。

(後略)

註:もう一箇所ガス室の話があったが、マウトハウゼンの話でありかつ伝聞でしかないので省略した。

▲翻訳終了▲

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