お釈迦様でも手の届かぬところがあるー仏教は最強なのだが、それでも適用限界がある?ということと生老病死の誤解に関する考察。(Ver1.01改訂版)
仏教思想は基本、一切衆生を救う、となっています。でも、それおかしいんですよね。当然今のところそんなのは誇大妄想も甚だしいというのはあるのであるのですが、理念的にはそうです。お経読んでもそう書いてあります。しかし大乗思想は、ちょっとねぇ、妄想が酷過ぎるんですよ。素晴らしい思想であることは間違いないんだけど、これがね、誤解を生む原因なんかなぁとか思うんです。例えばね「人はもう全員既に救われている、仏教の目的はただそれを民衆に気付かせるだけである」なんてあまりに極端な主張さえある(親鸞や蓮如などがそれに近い)。そんな、何でもかんでも救えるわけないんですよ。どうもそこが完全に誤解されてしまってる、様に思えるんです。なんか引っかかるというか。
あのね、例えば一例を挙げると、急な病気や事故で救急車到着前に亡くなった人どうやって救うんですか? 自動車事故で誰もいない山道で崖から落下して「うぅ苦しい、助けてくれ」つったって、死んじゃえば助けることなんて出来るわけないでしょ? あっという間に論破可能なのです。お釈迦さんでも「そりゃ、無理や」って言いますよ。どうしてもそこが疑問でね、極端な現実救済活動に特化しているのが原始仏教だった筈です。実際、医学的な方法で助けてる記述も初期仏典には確か出てくるんです。伝承だっけかな? ともかくそんなことどこかに書いてあった記憶はあります。
そのね、根本的な原因は、生老病死に対するとてつもない大きな勘違い・誤解なんじゃないかと思ってるんです。一般的な理解は、以下のページなどが代表例かと思います。
少しだけ引用します。
生老病死の意味は、先ほど見た通り、生苦(しょうく)、老苦(ろうく)、病苦(びょうく)、死苦(しく)の4つの苦しみのことです。
生老病死の苦しみを含み、仏教の苦しみと言うのは「思い通りにならないこと」「自由でない境地にいること」を意味します。
老いることや、病気にかかる苦しみ、また人はだれでも死ぬという究極的な苦しみは、どれだけ頑張っても今の科学では乗り越えられない、「思い通りにならない」ことの代表ともいえます。
老化防止、病気の予防などなどどれだけ徹底しても、老病死を避けることはできません。そして、自分が醜くなること、病気で苦しむこと、死が迫ることに対する苦しみにどんな人も少なからず苦しむのではないでしょうか。
ところがね、こうした一般的解釈はどこか違和感があるのです。あとほんのわずかに解釈が届いてない気がする。特に、死が迫ることに対する苦しみって、違和感ありまくりなのです。だってね、覚悟して死にゆくとか、老衰で病気もなしに安らかに死ぬとか、あるいはそれはもう苦しみすら感じる暇もなく即死とか、そんなのいっぱいあって、ちょっとそれは牽強付会過ぎないかと。こうムズムズする様な、「それってなんか違うんじゃね?」って感覚です。それでもっと違和感あるのはです、私が別の記事でも言った様に、生きる苦しみです。そのページにはこうあります。
仏教では、一切皆苦(いっさいかいく)とも言いますが、この世のすべては苦しみなのだという考えからスタートします。
仏教では生きること自体苦しみだというのです。
一切皆苦とはそうではなく、(私たち)ブッダたるもの目的は、世に存在する人々の苦しみだけを目標とし、その苦しみ解決のみを目的として、それら苦しみを少しでも多く解決することを唯一の行動原理とすべきである、という様な思想を表す言葉だという様な事は別のノート記事「好きな言葉はありますか?」にその一端を書いています。それはともかく――。
それで一般的には生については愛別離苦(その他三つ)であるとか、五蘊盛苦であるとか、苦しみを種類分けして因縁理論で苦しみを解く方向へと仏教ではいろいろ考えています。でもこれバランスが変なんです。どうして、「生」だけが特化して苦しみを解決する方法が説かれていて、老病死放ったらかし、とかあまりにもバランスが悪い。それなら老病死なんて言わなくていいんですよ、思いません?
仏教は「生きる」苦しみのみを解決するだけの宗教(実はこれは多くの仏教徒が考える以上に「生きている間の苦しみ一般」という具合に、もっと広い概念として普遍的に考えると合ってると思いますが、ここでは「生老病死」の言葉が何を示すのかという意味として)であり、他は知らん、それはあんたらで好きに解決しなはれ、って変だと思いませんか? 少なくとも私自身はどうもどこかおかしく思えてならなかったのです。んなこと、仏教はどんな経典読もうが言ってないんです(私のことですから全部なんか読んでませんけどね)。でもそんな教えない事は確かです、聞いた事ないでしょ? それなのに何故「生老病死」と四つ均等に説く言葉があるのか。なんかどうも変なんですよ。
で、まぁ、その様な違和感に至るきっかけをくれたのは、私が別記事で述べている唯一の師匠悟空さんでした。生は生きる苦しみとするのは変だ、生とは即ち「生まれ出ること」を意味する、って仰ったのです。するとその時は「なるほどそうか」って気がして、その時は納得した様な気にはなっていたのですが……まぁ、大体以下の様なことを言われていました。
「生とは生きる苦しみではなく(それは八苦における愛別離苦や煩悩などの苦しみのことである)、生まれ出る時の産道を通って赤ちゃんが出てくる時の苦しみのことではないか。だったらそんな解決出来ない(しょうもない)苦しみなんていらないから、老病死にしておけばいいんだ。すると、シンプルに老いる苦しみ病の苦しみ死にゆく苦しみに還元出来る。そうすると、老いる苦しみがは例えば老人ホームで介護してもらったり、病む苦しみは病院など医療技術だし、死ぬ苦しみは例えば遺書などを残して不安なく死ぬことになり、苦しみを滅するという意味に合致する」
みたいな感じです。これ、それっぽいんですけど、ずーっと今のさっきまで、なんか喉に魚の骨が引っ掛かったみたいに、なんかしっくりこないんですよ。果たして、ゴータマはそんなつもりで言ったのかなぁ? って思えてね。やっぱ、生老病死のこの四苦は四苦であるからこそ意味がある。昔の人も馬鹿ではない筈だ。間違ったことを説くなんて考え難い、と。お経が荒唐無稽なのは理解します。でも生老病死は重要な仏教徒たる者知らぬものはいない基本理念です。そこは流石に誤った事は言わない筈なのです。
それで、原点に戻って考えると、生老病死って、もしかして、解決不能の苦のことを言ってるんじゃないかと。そうすると、割とすっきり理解できるのです。それなら、決して届かぬ苦しみはあってもいいことになります。あったらあかんのですけどw(事故あって良いのか?、みたいなw)
で、シンプルに図式化するんですよ。生老病死っていうのはね、多分こうじゃないかなと。
生 → 赤ちゃんが産道を通って出る時の苦しみ → 死
老 → 老いる苦しみ(認知障害、行動が制限される、など) → 死
病 → 病の苦しみ → 死
こうすると、見事にすっきりします。四文字並べてはいるが、三つの苦を表す言葉を末尾の死に導く四文字熟語なんじゃないか、と。「生老病・死」って言葉なのです、おそらく。すると、めちゃくちゃすっきり理解出来るのです。
これ、上で言った通り、三つともほぼ解決不能なのですね。当時のインドですから、めちゃくちゃ一般的なことであり、理解しやすかった筈です。二千五百年前のインドなんて劣悪極悪それはそれは現在とは到底比べ物にならない酷い社会ですから。赤ちゃんは生まれたらすぐ死ぬ確率めちゃくちゃ高くてどこの家に行ったって絶対赤ちゃん死ぬ経験してます(そんな有名な逸話があります)。老いたってほぼどうすることもできません。認知障害もどうすることもできず徘徊して何処かへ行ってしまい野垂れ死する。足もヨボついてしょっ中コケて転倒死するだろうし、病気になったら若い時よりすぐ死に至る病と化す。病気なんか当時は少ししか解決出来ず、ほぼ大抵は病気にかかったらその苦しみを経て死んでしまうことが一般的に多い。といった具合です。
でも今は、赤ちゃんの生存率高いし、老人介護が普通にあったり、医療・介護技術の発達(老眼鏡やらなにやら老いによる劣化を助ける工夫)で、まだ全然不十分であるとはいえ、当然2500年前のインドとは比べものになりません。だからですね、これはブッダチームの教育上の教えにすぎないと思うんです。「弟子たちさん、世の中にはただでさえ解決不能の苦しみがあるのを知ってるだろ、苦しみなどそこら中に転がってるんだから、せめて解決できるものを解決していこうよ」ってさ。
スッタニパータっていう最も最初の仏典ではないかと言われるお経にはね、「死の苦しみがあるではないか」みたいなセリフがじゃんじゃか登場するのです。ちょ、おま、何回言うねん? それこそ死ぬくらいしつこい。これがどうも引っ掛かってね、でもこんな感じに理解すると、かなりすっきりします。
え? 死の苦しみだって、死んだら仏様になるんだっていうのも救いなんじゃないの? って……それね、生きてる遺族の方でしょ。仏様になったんだと思い込むことで、安らかな気持ちになるって言う単なるプラセボ効果でっせ。身も蓋もない現実ですがね。まぁでも、心を安らかにするのももちろん仏教の果たしてきた役割の一つではあります。しかしもはやそんなことを真に受ける時代はもう過ぎてます。死んだら普通に、仏教なんかなくても、人は故人に思いを馳せる事は誰でも出来ます。余談ですが、葬式は仏教は葬式仏教を行く行くは将来的にやめるべきと思ってます。個人的にむかつくからです、あれ。人の死を食い物にするって感じがしてね、どうも嫌なんです。口汚いですけどね。せめてそう言う意識くらいは胸に秘めてでいいから持って働いて欲しい。
だからですね、言いたいのは、ムッチャクチャな全員救うみたいなことをほざく仏教は全て偽仏教になるって事なんです。見分けがめっちゃ簡単になるでしょ? 仏教だって無理なものは無理なのです。違いますかね?
以上、仏教の適用限界についての考察でした。
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