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第一章 「二大まつり」で育つ~1970年代前半~(2)

実は「異色まんが」の宝庫

『ゴジラ対メガロ』以降、映画館で観た映画の記憶はかなりはっきり残るようになってきた。その中心は、やはりこの二大まつり。上映作品の記録を見てみると、どちらも77~78年頃までは観に行っているようなのだが、東映の方は映画館で観たのか、後年になってテレビ放映の時に見たのか、どうしても思い出せない作品が多いのだ。東宝の方は77年までは間違いなく観ているので、東映もその頃まで観ていたのだろう。なぜ両者の記憶に差があるのかについては思い当たるフシがあるのだが、それについては後ほど詳しく。

個人的に「東映まんがまつり」で最も印象に残っている作品が、73年の夏興行で上映された『マジンガーZ対デビルマン』。今では同じ東映が『仮面ライダー』や戦隊ものの劇場版で普通に行なわれている“クロスオーバー”ものだが当時はまだ珍しく、それだけでも我々当時の子供たちは大興奮したものだ。特に、それまで飛べなかったZがジェットスクランダーを装着して囚われのデビルマンを救援に行くクライマックスのカタルシスは子供心に強く残っている(おかげで、この後にテレビシリーズでスクランダーが初登場した時は、話が地味でガッカリした)。とは言え、「対」と付いているが両者が戦わない(敵同士が手を結んだので共闘するだけ。これは現在に至るまで上述の東映クロスオーバー映画に受け継がれている)点にガッカリした子供も多かったようだが、Zを操縦する兜甲児(石丸博也)とデビルマンに変身する不動明(田中亮一)が途中でバイク競走するシーンのことに違いないと自分に言い聞かせた当時の私の大人な対応を自分でも誉めてやりたい。

同じ永井豪原作というだけで、ロボットアニメと変身ヒーローという別ジャンル、しかも放送していたテレビ局も別だった両作品の合体は、今日に至るまでかなりレアな力業だったのかも知れない(『デビルマン』がすでに放送を終了していたから実現したという)。

その後は、なぜか異色の作りや経緯の作品ばかりが記憶に残っている。

阿川弘之原作の絵本のアニメ映画化で、擬人化された蒸気機関車が登場するという『きかんしゃトーマス』を先取りしたような設定の『きかんしゃやえもん D51の大冒険』(74年春興行)は、蒸気機関車の実写のパートがやたら長かった。

観る前は「なぜ「まんがまつり」でこんな映画が?」と思ってしまったのが、『これがUFOだ!空飛ぶ円盤』(75年春興行)。世界各国でのUFOの目撃談をアニメで再現する、再現ドラマならぬ「再現アニメ」という驚きの手法。その点では確かに“まんが”だが、これも「UFOの実写フィルム」がたびたび挿入される。いわば「セミ・ドキュメンタリー・アニメ」(ますます混乱する呼び名)だが、実はこれ、次回の75年夏興行で上映される『宇宙円盤大戦争』への前振り作品で、ラストに同作の予告が流れた。

ただし、『宇宙円盤大戦争』は実際の円盤目撃談とはまったく違う、永井原作のロボットアニメ。当時のUFOブームに乗る形の設定だったため、まずは空飛ぶ円盤の“実話”で子供たちの心を掴み、ロボットアニメへ…という戦略だったのだろうか?ところが、実はこれも“ワンクッション”で、この作品をベースにして設定を微妙にアレンジし、さらに『マジンガーZ』の主人公・兜甲児を登場させ、『Z』とその続編『グレートマジンガー』に続く『マジンガー』シリーズ(今風に言えば「マジンガーバース」とでも言うべき、世界観を共有する一連の作品)の第3弾となるテレビシリーズ『UFOロボ グレンダイザー』が製作された。つまり、『宇宙円盤大戦争』は『グレンダイザー』のパイロット版的作品だったのだ。子供心にも、その複雑な製作過程が何となく理解できた。

第1作『白蛇伝』(1958)以来。東映動画(現・東映アニメーション)の長編作品の主軸は世界各国の童話や昔話だった。その路線は「まんがまつり」が始まっても当然続き、私も『アンデルセン童話 にんぎょ姫』(75年春興行)、70年春興行で上映された作品の短縮改題版『ちびっ子レミと名犬カピより 家なき子』(75年夏興行)など、観た記憶がある作品は結構多いのだが、一番しっかり印象に残っているのが、名作童話とジュール・ヴェルヌを合体させた『長靴をはいた猫 80日間世界一周』(76年春興行)。「♪びっくりしたニャーン」の主題歌で有名な東映動画での『長靴をはいた猫』シリーズは3本あり全作観たようなのだが、個人的にはラストの本作が一番面白かった記憶がある。このシリーズ、主人公の猫・ペロをはじめ声優が作品ごとに変わっているキャラが多いのだが、猫の殺し屋トリオのチビの声を担当した「アクリル板の女王」こと水森亜土だけは全作登板していて、「亜土ちゃん」と言えばあの独特な絵と同じぐらい、このチビ猫を思い出してしまう。

記録を調べていて最も驚いたのが、75年の夏興行。ジョン・バリーのテーマ曲で有名な、年のあのイギリス映画『野生のエルザ』(1966)のダイジェスト版が上映されたのだ。いやいや、東映作品でもなければまんがでもなかろう、とツッコミを入れる前に、そう言えば『野生のエルザ』を「変な形」で観た、という漠然とした記憶が克明に甦った。「変な形」とは、テレビの洋画劇場でもない、映画館でのきちんとした形でもない、何かイレギュラーな形で観た、という記憶だけが残っていたのだ。「まんがまつり」の一本としてなら、この時の上映作品の本数(それまでの興行の平均より1本多い)から推測すると、恐らく長くても40分ぐらいの上映時間にまで編集されていただろう。テレビの2時間枠の洋画劇場の正味の放送時間の3分の1から半分弱だ。間違いなく(普通の)映画なのにこの時間…。同作がこんな形で上映されたことなど知らなかった…はずなのだが、実は自分でも観ていたのだ。まさに衝撃の事実だ。いろいろと調べてみたものの、この時の上映に関する詳細が分からない。当時の上映作品を各興行ごとに丸ごと再現して収録したDVDのシリーズでも、この興行のものは未発売。他でもないこの『エルザ』が権利関係でネックになっているだろうから、そりゃ出せないだろう。そもそも、なぜこの作品がラインナップに入っていたのかが謎だが…。

この後も「まんがまつり」は、名称や内容など様々な変化を遂げながらも同様の興行を続け、2019年に「まんがまつり」の名称を復活させて現在も続いている。

チャンピオンで怪獣&パニック少年に?

前に触れたように、前述の二回より前とその間(72年の夏と冬)の「チャンピオンまつり」は観た記憶がまったくない。幼かったせいもあるだろうし、興行自体が太陽館で行なわれなかった可能性もある(『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』1966の回に関しては、上映されたと思しき証拠を後に発見するのだが、その話はまた後で)。

『ゴジラ対メガロ』以降は欠かさず観に行ったようで、記憶も残っている。何だかんだでミニラの子供受けがすごかった、73年夏興行の『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』(1967)。ゴジラの擬人化が決定的になった作品ゆえ「ゴジラ映画の堕落が本格化した作品」などと言われることもあるが、我々がゴジラ映画を観始めた頃には、ゴジラの擬人化はすっかり定着していた。後に全長版をビデオで見て、輪っかの火炎を吐いたりとミニラの一挙手一投足をかなり鮮明に覚えていたのには我ながら驚いた。

73年冬興行の『キングコングの逆襲』(1967)では、とにかくメカニコングにしびれた。知り合いの子が大きめの人形を持っていたのがうらやましくて仕方なかった。クライマックスの東京タワーでの対決は夜間だったが、その照明が醸し出す独特の画調まで記憶に残っていた。物心ついた時から、特撮ものでも俳優に興味があった私だったが、この映画では主演の宝田明をなぜか児玉清だと思い込んでいた。たぶん当時の私は、児玉さんは知ってたけど宝田さんは知らなかったのだろう。所詮は幼稚園児である。

小学校の入学式のあたりに観たことになる74年の春興行は、とにかく『ゴジラ対メカゴジラ』に狂気乱舞。テレビCMで流れた、地下の格納庫から上昇していくカットにエキサイトした。『キングコングの逆襲』でも同様のシーンがあって興奮したのだが、確かに前回の『キン逆』再上映は本作への前振りだったという説にも頷ける。この映画でメカゴジラの戦闘シーンに流れる曲があまりにかっこ良かったので、サビの数小節だけ覚えてしまった。4年後に発売されたレコード(後述)でこの曲に“再会”するまで覚えていたのだから、我ながら恐れ入る。私にとって、テレビの主題歌などではない、いわゆる“劇伴”に意識が行った初めての体験だったのかも知れない。

この時の同時上映の一本が、沖縄出身の兄弟アイドルグループを追った中編ドキュメンタリー『ハロー!フィンガー5』。当時の彼らの人気はすごかった(私は妙子ちゃんが好きだった)。もしかして『対メカゴジラ』と沖縄つながりでの同時上映だったのか?また、テレビアニメ『アルプスの少女ハイジ』のブローアップ版が(確か)1本目に上映されたが、連れて行ってくれた母が、オープニングの例の「どこから下がっているのか謎のブランコ」のカットをスクリーンで観て「すごい迫力だった!」と数年間言い続けていたのには「そっちかよ!」と呆れた(母はその後の作品の間じゅう眠っていたらしい)。

74年の冬興行はかなり異質。『モスラ』(1961)と『緯度0大作戦』の短縮再上映に、中編ドキュメンタリー『燃える男 長島茂雄 栄光の背番号3』の3本立て。長島の映画はまったく記憶に残っておらず、『緯度0』も巨大メカ同士の戦いというエキサイティングな見せ場の記憶が完全に飛んでいて、なぜかラスト近辺しか覚えていない。

だが、その分『モスラ』は大興奮で観て記憶も鮮明(一番はっきり覚えていたのは、前半の山場で燦然と光り輝く「バャリースオレンヂ」のネオンサイン)。だが、当時の私にとって新鮮だったのは、「怪獣の対決」ではなく「怪獣の襲撃や都市破壊」が最大の見せ場になる作品だったことだろう。それまでの「チャンピオンまつり」で私が観てきた怪獣映画は「怪獣同士(主にゴジラや仲間と、地球侵略を企む宇宙人の手先の怪獣)の戦い」という展開が“定番”で、メインの見せ場はもちろんその対決。そこに至るまでに一方の怪獣が都市を破壊するシーンはあるものの、テレビのウルトラマンなどでも出て来る“お約束”の一つと言ってよかった。しかし、「単独の怪獣による都市破壊」がメインの見せ場になっている作品は、恐らくこれが初めてだったはずだ。そして、そのようなタイプの作品では、怪獣の接近による混乱や対策に奔走する人々のドラマが(対決ものよりは丁寧に)描かれる。つまりこれは、「怪獣によるパニック映画」とも言えるわけだ。何がきっかけだったのかまったく覚えていないのだが、その頃の私はパニック映画にも強い興味を抱いていた(その興味をより強くした作品をこの年の初めに観ているのだが、それは次の項で)。それに、この回は珍しく「第一」で上映された。そのことも、『モスラ』の「何か違うぞ感」が印象に残った原因だったのかも知れない。

そんな(私一人だけの)盛り上がりとは裏腹に、「チャンピオンまつり」はこの頃から急激に規模を縮小してしまった。すでに74年から夏興行は中止、『メカゴジラの逆襲』をメインにした75年の春興行の成績が伸び悩んだため、ついに『ゴジラ』シリーズの新作製作が打ち切られてしまう。そのせいもあり、「チャンピオンまつり」もこの回以降はついに年1回の春興行のみになってしまう。翌76年はなぜかディズニー・アニメがメインとなり、『ピーター・パン』(1953)をトリに、ミッキーなどの短編アニメ集と『タイムボカン』や『元祖天才バカボン』が並んだ、摩訶不思議な回だったが、当時の私はこの興行が行なわれたことすら知らなかった。もしかすると、「「チャンピオンまつり」=怪獣映画を必ずやる」という思い込みから、この興行が「チャンピオンまつり」だと認識していなかった可能性もある。

しかし翌77年、リバイバル作品ながらゴジラ映画が「チャンピオンまつり」に復活する。しかも、それは名作『キングコング対ゴジラ』(1962)。個人的には昭和のゴジラ映画で最も好きな作品になった。怪獣対決ものではあるが、両怪獣の出現によるパニックが丁寧に描かれていることで、『モスラ』の時のような緊張感あふれる展開になっていた。時にゴジラは、それまで観てきた人類の味方キャラではなく、「本来の姿」である人類の脅威として登場する。これに魅了されたのだ。もちろん、怪獣同士の戦いはエキサイティングだし、芸達者な名優たちによるコメディ・タッチの人間ドラマも、子供なりに楽しめた(主人公の桜井(高島忠夫)が、妹のふみ子(浜美枝)と「何もしていない」と言い張る恋人の藤田(佐原健二)の口をハンカチで拭うと口紅がついている、というかなりアダルトだが洗練されたギャグの意味が分かったのは、今考えると自分でもマセガキだと思う)。「娯楽作品としてのゴジラ映画」の最高傑作にいきなりぶち当たってしまったのだ。

この回は同時上映作品も印象的だった。テレビのブローアップ版が上映された『円盤戦争バンキッド』は当時の熊本では放送されておらず(結局、その後も放映はなかった模様)、そんな番組の途中の1話だけ見せられてもなあ…ということは、熊本に限らず当時の地方では「まつり」上映時に頻発した現象。やたら明るくて元気が出る主題歌が強く印象に残ったが、「ガメラマーチ」やテレビ『FNS歌謡祭』のテーマ曲、そして『若大将』シリーズなどを手がけた広瀬健次郎の作曲だと後年になって知り、納得した。

そして、『巨人軍物語 進め!!栄光へ』は1時間弱の作品で、巨人軍の新人選手たちのドラマと、実際の巨人軍の選手たちの姿を織り交ぜて描いた作品。監督は時代劇の名手・沢島忠、音楽は佐藤勝、千秋実や江原真二郎らベテラン俳優が出演するなど、(今考えたら)かなり豪華である。


と、個人的にはなかなか充実したこの年の「チャンピオンまつり」だったが、『地球防衛軍』(1957)の再上映版をメインのプログラムにした翌78年の興行は、太陽館での上映はなかった。そしてそれが「チャンピオンまつり」のラストだった。つまり、私にとっての最後の「チャンピオンまつり」は77年の興行になってしまったわけだ。

時は流れ、平成から新世紀にかけて国産のゴジラ映画が正月興行として定着した時期、いわゆる「ミレニアム・シリーズ」の数本が前述のように劇場版『ハム太郎』と同時上映で公開された。東宝はこれを「「チャンピオンまつり」の復活」の意味も込めていたようだ。その是非はともかく、もしそうだとすれば、私と娘は共に「「チャンピオンまつり」から映画人生を始めた」ことになる。


…と書きながら当時のことを思い出していたら、両「まつり」を観に行っていた太陽館で、今では見られない光景に毎回遭遇していたことを思い出した。

上映開始の時は何の知らせもなく、時間が来るといきなり場内の電気が消された。それにビックリしたせいもあったのか、映画館に詰めかけていた子供たちは、絶叫に近い歓声を上げていた。今では、特にシネコンだと上映開始前からCMなどが流れていていつの間にか予告編へ、というスタイルが主流だし、大抵のお客は行儀よく静かに映画を観る(そうでないマナー違反の客もよくいるが…)。もちろん、映画が始まるとそれに没頭し、無駄口を叩く子供はいない。そう考えると、当時の子供たちは本当に純粋に、そして全力で映画を楽しむために映画館に来ていたんだなあ、と思える。そこにいた私も、幸せな時代に生きていたのかも知れない。あれは、昭和後期の子供たちにとって本当に「まつり」だったのだ。

流星人間ゾーンの謎

「チャンピオンまつり」で思い出した余談を。

この興行が軌道に乗ってきた73年、東宝が初めて製作したテレビの巨大ヒーロー作品『流星人間ゾーン』も放送された。「正義の味方」のゴジラをはじめ、キングギドラやガイガンなど映画で活躍した怪獣たちのゲスト出演が売りだった。監督には、本多猪四郎や福田純と『ゴジラ』シリーズの二本柱の両巨頭に加え、クレージー・キャッツ映画や『若大将』シリーズなどを手がけた古澤憲吾も参加するという豪華版。そして、助監督の一人だった小栗康平が番組後半で監督昇進を果たした。ある回でゴジラがゾーンファイターの特訓の相手をして戦うシーンがあってなぜか妙に印象に残っていたのだが、調べてみたらそのシーンがあった第21話こそ小栗の監督デビュー作だったのだ。

で、この『ゾーン』に関して、今回の調査である疑問が生まれた。「チャンピオンまつり」の前半で上映されたテレビ作品は、『ウルトラ』シリーズなどの円谷プロ作品をはじめ、ゴジラと同系の巨大変身ヒーローものが多かった。また、等身大ではあるが、『レインボーマン』や前述の『バンキッド』など、東宝製作のヒーローものもあった。そう考えると『ゾーン』も上映されておかしくない、むしろ上映されて然るべき作品だったのだが、「チャンピオンまつり」でのブローアップ版はおろか他の興行でも、上映されていないのだ。番組が2クールで打ち切られたせいもあるかも知れない。もしかすると、「映画の方からゲスト(ゴジラ等)は呼ぶが、自分からスクリーンに行くことはない」みたいな謎のルールでもあったのだろうか?

(つづく)

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