無関心

ある人が、「好きの反対は無関心だ」と言った。

彼がそう言うなら、私は自分以外の存在に対して、ある意味無関心である。

もっとも、私の場合、他人に無関心というよりは、「自分にしか関心がない」と言った方が腑に落ちるかもしれない。

人は、繋がりすぎるからいけないと思う。
無駄に気にしてしまったり、無駄に傷ついたり、少々関心を持ちすぎているようにも感じる。

現代をうまく生きるなら、思い切ってアナログ人間になるのが最善かもしれないと、思う。

無意識にも、他人によく見られたいという欲に塗れたsnsの呪縛に囚われ、その人生は一体何が楽しいのだろうか?

みんな自分の人生に精一杯で、人の人生に干渉する隙などない。まして誰がいつ、何を投稿したと
か、ほとんど覚えていないし、見知らぬ人に知らしめる必要はあるのだろうか?

一時の承認欲求に駆られ、人々はsnsゾンビと化すが、その投稿にかけた時間と釣り合うほどに、他人の意識の中に入っているのだろうか?

確かに自己満足と言われればそうかもしれないが、私にはただ、自分自身と人間的に向き合い、頭を使って考える時間のほうが重要なように感じる。

必要以上に多くの人と関わる必要はないし、認めてもらおうと思う必要もない。ただ、人間らしく、自分が一緒に時間を過ごしたいと思える、ごく身の回りの人々と、近況を共有するためにあるのだと思う。

他人とうまく関わっていくためには、まずは自分とうまく関わっていることが必要だ。

火葬路まで、嫌でも離れることができない代わりに、どんな状況でも味方でいてくれるのは紛れもなく自分自身だけなのである。

周りの環境、関わる人間は選ぶことができるが、自分本体だけはそれができない。

自分は死ぬまで「自分」なのだ。

一つの個体として自立し、自分以外のことをあくまで環境だと感じられる状況になってからこそ、それでもわざわざ一緒にいたいと思える友人や恋人を見つけ、時間を共有する。

まずそのためには、黙って自分と向き合い、自分を理解すること。他人の反応に過敏にならないことが最短経路である。

いい意味で、自分中心の世界に生きることは、少なからず必要なのかもしれない。

いい意味で、世界に無関心になることは、自立の最短経路なのかもしれない。

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