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あの日の鮭ごはん


22階からの景色

 

 その日私は、海を臨むタワマンの22階にいた。

 大きな窓からは、青く広い空と海が絵画のように見えていた。この家の窓からの景色は、いつ見ても開放感があって素晴らしかった。海には船が、空には飛行機が、道路には車やバスやトラックが、少し遠くの工事現場にはショベルカーやダンプカーが、と男の子の大好きなものが全部見える部屋でもあった。
 この窓はまるで、開きっぱなしの宝箱のフタだ、と空にかかる飛行機雲を見ながら思った。

 子どもが0歳の頃にある習い事で出会ったママ友と定期的に開いている「ママ友会」。
 毎回、誰かの家に数人のメンバーで集まっては、当時2歳前後の子どもたちを交流させ、その家のキッチンでみんなで食事を用意して食べ、ママは順番に出かけて用事を済ませ、その間の子どもの面倒をみんなで見合う。そんな会だ。
 その日に集まっていたのは4組の親子。3組はこの近隣に住んでいて私だけ少し遠くに住んでいたのだが仲間に入れてもらっていて、保育園や幼稚園に行っていない子どもたちのよい社交の場となっていた。息子は当時かなりの偏食で食が細いのが悩みだったが、こうして同世代の子どもたちと一緒だといつもよりもよく食べる。2歳児同士の関わりも見ていて微笑ましく、会を重ねるごとにお互いの関わり方に成長が感じられたのもとてもよかった。ママも美容院や通院といった子どもがいると行きづらいような用事を済ませることができ、なかなかよい助け合い制度だった。

 その日、私は歯医者の予約を取ってあった。
 予約の時間は午後2時半。ランチを済ませた後、子どもを他のママにまかせて虫歯治療に行かせてもらうことになっていた。出産後、歯も弱くなったみたいで虫歯が増えてしまったのだ。この会をあてにして、歯医者はこのマンションの近くのところに通い始めた。ここから徒歩10分ほど。2時15分頃に家を出ればいいかな、と思っていたのだが、子どもがグズってしまい時間はもう2時半を回ってしまっていた。遅刻確定だ。早く行かなくちゃ。

 予約していてもいつも30分くらいは待つから、3時頃までに行けば大丈夫かな、家を出たらすぐ歯医者さんに連絡を入れよう。そう思いながら、おもちゃに気を取られてやっと私から離れてくれた子どもからそーっと遠ざかり、ソファに置いてあったスプリングコートを羽織り、靴を履くために玄関に向かったその時だった。

午後2時46分。
突然、視界が大きく揺れた。

震度5?6?いやもっと?

 

 地震を疑似体験する「起震車」に乗ったことがあるが、あれと全く同じだった。

 ぐらんぐらんと大きく揺れ動く床。床を横滑りするダイニングテーブルとイス。地震だ。やっと状況を把握した。

 大きな地震が、今、起こっているのだ。

 震度5?6?とにかく大きい。
 とっさにそれぞれが自分の子どもを抱えてみんなでテーブルの下にもぐり、テーブルの脚を4人が1本ずつ強く握る。築浅の高層マンションは免震構造で、衝撃を逃すため地震の際は大きく揺れると事前に聞いていたこともあり、不思議と慌てる気持ちは起こらなかった。幸い、倒れるような危険な家具はなく、部屋に作り付けの家具の扉は地震の揺れに対してロックがかかる構造のものだった。この部屋に大きな危険はない。

 子どもを守らなければならない。焦ってはいけない。焦りは子どもに伝わってしまう。そこにいた4人のママはみな同じ気持ちだった。落ち着いていつものように子どもに「揺れているね、でも大丈夫だよ」と語り掛けながら、しっかりと子どもを抱きかかえた。

燃えてる。爆発してる。

 

 どれくらい待っただろう。揺れは収まった。

 外が気になり22階の窓から外を見ると、わずか数軒先のビルの低層階の窓から火が出ていた。火災だ。

 視線をずっと先にやると、工場地帯が遠くに見えた。そこで「ボンッ」と火の手が上がった。爆発だ。化学薬品を扱うようなコンビナートのように見えた。また「ボンッ」と高く火が燃え上がった。みんな避難できただろうか。人命が失われていないことを祈りながら、ただ唖然と遠くから見ることしかできなかった。目の前で起こっていることが事実だという実感がなかった。ただただ、呆然と眺めることしかできなかった。

 歯医者に遅刻したのは幸いだった。もし予定通りに家を出ていたら、この大災害のときに子どもと離れ離れになっていたところだった。治療の途中で電気の供給が止まり、治療が中断し麻酔が切れて大変な思いをしていたかもしれない。子どもがグズってくれて助かった。子どもと私だけの二人きりのときでなく、みんながいてくれてよかった。

外は大パニック

 

 高層マンションは予備電源もしばらく動かず、エレベーターが止まってしまった。水を汲み上げるポンプも止まったらしく、水も止まった。マンションの住民は少なからずパニックになっているようだった。周囲がだんだん騒がしくなってきた。

 近所のコンビニやスーパーの棚からは早々に商品が消えた。外に行って戻ってきた、という同じフロアの住人が、階段をあがってきたと息を切らせて外の様子を教えてくれた。もう何も売ってないよ。パンもインスタント食品も水も、棚が空っぽだったよ、とその人は言った。公共交通機関もすべて止まったのだろう。これから夕方になると、帰宅困難者が街にあふれることが予想されていた。

 「ゆりこは早く家に帰った方がいい」。他のママは徒歩すぐのところに住んでいたから、そう言っていちばん家の遠い私をみんなが気遣ってくれた。道路は早くも交通渋滞が始まっている。車で20~30分の距離が今日は何時間かかるかわからない。私が帰り支度をしてママバッグを背負おうとしていると、その家のママが「ちょっと待って」と言った。声のする方を見るとキッチンの冷凍庫をガサゴソと探っている彼女が見えた。

焼き鮭と白ごはん

 

「今、家に何もないんだけど、鮭が1切れだけあったから」

 そういって彼女は、冷凍庫に1切れだけ残っていた鮭の切り身を解凍して手早くグリルで焼き、炊飯器の中にあった白米をタッパーに詰め、そのあたたかなごはんの上に焼きたての鮭を乗せ、タッパーのふたをしめた。

 「帰り、何時間かかるかわからないよ。途中で息子くんに食べさせて」と彼女は言ってそのお弁当を手渡してきた。

 え、いいよ、悪いよ。だって、ここの近所のお店にももう何も売っていないって近所の方が言っていたよ? ごはんだって鮭だって、あなたの家の貴重な食糧でしょう?  
 そう言う私にかまわず「いいの、うちはパンもあるし大丈夫だから、持って行って」と言って彼女は私のママバッグにその鮭ごはん弁当を割り箸とプラスチックスプーンと一緒に入れた。

 次にお店に商品が並ぶのがいつかもわからないっていうのに。

 ありがとう。すごく助かる。と受け取ると、「じゃあ急ごうか!」と急かされるように部屋を出た。子どもの支度は別のママが手伝ってくれていた。そして4人の中でいちばん小柄で可愛いらしいママが、「私、力持ちなの」と言って自分の子どもを抱っこした状態で、折りたたんで玄関に置いてあった私のベビーカーをひょいと持ち上げ、靴を履いてマンションの来客用駐車場に向かって階段を下りて行った。ゆりこちゃんは息子くんをしっかり抱っこしてね、とにっこり笑って、安定した足取りでずんずん階段を下りて行った。

 ママたちは、強い。優しい。頭の回転も行動も早い。

 感心と感動を言葉にする間もなく、急かされるようにマンションをあとにし、ほとんど動かない渋滞の道路を、息子と二人帰路についた。

子どもの危機意識

 


 道路は大渋滞で、まったくと言っていいほど動かなかった。子どものトイレが心配だったが、それは大丈夫だった。お弁当をくれたママの予感が的中し、しばらくすると息子が「おなかすいた」と言いだした。まだまだ道のりの半分も進んでいない時だった。

 食べ物を持っていて助かった。本当に助かった。偏食の息子は、魚をほとんど食べたことがなかった。でもその日は違った。
 ほぼ止まったままの車内で後部座席の息子にお弁当箱とスプーンを渡すと、何らかの危機感を感じていたのだろうか、ごはんだけでなく鮭もたくさん食べた。こぼさないようにしっかりかかえて。普段の小食がうそのように、たっぷりあったそのほとんどをたいらげた。空腹が満たされると、ほどなく息子は寝息をたてて家に着くまでしばらく眠った。

 息子から受け取ったタッパーに少しだけ残ったごはんと鮭を私も食べた。そのピンク色の鮭の塩気は体中の血管にしみわたり元気をくれるような味がした。ごはんは噛むごとにエネルギーに変わっていった気がした。もうすっかり冷めていたが、彼女がよそってくれたときのほかほかとした湯気が見えた気がした。「持って行って」と差し出した彼女の手元を思い出して涙が出てきた。その一口の鮭とごはんで、私は大丈夫、と思えた。たくさん食べた息子はそれはそれは安心したことだろう。

 長い時間をかけて家に着いたころには、我が家の電気は復旧していた。幸いにも家の中に倒れた家具や大きく壊れたものもなかった。

 なんという日だったのだろう。とにかく疲れた。TVもインターネットのニュースもきちんと見る余裕がなかったが、後で被災地の被害の大きさを知り、また胸を締め付けられた。


あれから12年


 あの日の東日本大震災から12年が過ぎた。

 あの日、「鮭ごはん」をくれた彼女は、いまでも私のよき友人だ。本当の悩みを打ち明けることができる数少ない人。自分でも気づかなかった真実を見抜いてくれる人。着実で地に足ついたアドバイスをくれる人。謙虚な人。思慮深い人。危機的状況の中でとっさに、残り少ない食糧を友人に迷いもなく差し出した彼女を、心から信頼し、尊敬している。こういう人を「育ちのよい人」というのだろう、と思う。私も他者に対してそうありたいと思う。

 大震災で被災された方に、心からご冥福をお祈りします。
 今後のさらなる復興と、土地に愛着を感じている方がよりよく住めるよう、お祈りします。

 あの日、この程度のことしか体験していない不公平さを申し訳なく思う気持ちもあります。

 でも、私にとって「元気をもらったあの食事」といえば、あの鮭ごはん。それを迷いなく差し出した彼女の心とともに、何年経っても私に元気と勇気を与え続けてくれています。

 彼女のように、あの焼き鮭とごはんのように、私も誰かに力を与える人になりたい。
 惜しみなく分け与えられる人になりたい。

そう何度となく思い起こす、子育ての指針の一つとなった出来事です。


#元気をもらったあの食事


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