見出し画像

遠藤周作『私の履歴書 落第坊主の履歴書』(1989)紹介と感想

遠藤周作『私の履歴書 落第坊主の履歴書』日本経済新聞出版社, 2013


1989年6月に「日本経済新聞」へ掲載された、幼少期からの前半生を振り返る「私の履歴書」と、その内容に関連した過去のエッセイの再録で構成されています。
十数年振りに狐狸庵先生のエッセイを読みましたが変わらぬ面白さを感じることが出来て嬉しかったです。

滑稽で軽妙な軽さと人の深い所まで見抜くような深さのバランスが良く、そのどちらにも人間がしっかり描かれていました。
友人の自殺や戦時中の話など、シリアスな内容で感じる悲哀は勿論のこと、滑稽な場面や厄介に見える行動からも、笑いとともに人間とは綺麗や真面目な面だけでは理解することはできないぞと言われているようです。


著者は、勉強はできず、若い衝動をもて余し学校を抜け出しては怒られていました。数学の試験でなにも分からないので、全問に「そうである、まったくそうである。ぼくもそう思う」と書いたエピソードは、それでも白紙にはしないという真面目な部分が伺えなくもありません。

何度も浪人をして、本を読むようになったのは大学に入ってから。しかし、そこまでの幼少期に後につながる多くの経験をしており、それを鮮明に覚えていたことが、小説家・遠藤周作の地盤として重要だったのだと感じました。


著者も友人も破天荒で子どもっぽいエピソードに事欠かないのもすごいところです。
それだけ、人と親密になり、自然と観察もしていたのでしょう。

入院中に同じ時期に入院していた吉川英治氏と比べられて、周囲の人から軽く見られたり、その発言や行動を怒られたりしているのを笑わせてもらいながらも、「吉川先生がなんだい。俺は俺だア」という心の叫びに、その通りだよと深く頷きました。

他にも印象に残っている所をいくつかあげると、〈芥川賞の夜〉の祖母の姿にウルッとし、〈人生を包む微笑〉に書かれていることを年と共に段々実感として感じられるようになり、〈兄弟〉のコロコロコミックにありそうなオチに笑わせてもらいました。


そして忘れてはならないのが、著者のキリスト教徒としての側面です。
〈神の働き〉で描かれる、「神が存在するという前に、神でも仏でも、自分の心の中にそういうものが働いているかどうかということが問題です。」という考え方には納得させられました。
少し長めになりますが引用します。

あそこに神がいる、と神の存在を見つけるものではないということがだんだん私にはわかってきました。後ろのほうから、いろんな人を通して、目に見えない力で私の人生を押していって、今日この私があるのだということでわかってきたのです。
~中略~
 もう一つは、自分の人生を単独のみの自分の人生と考えないで、父親、母親をはじめいろいろな人を合わせた総合体としての場で自分が成立しているのだということを考えたのです。
~中略~
現実に生きている人もいるし、読んだ本の著者などもいます。そのように後ろから押しているものと私を存在させる場というものの二つがあって、それを考えかみしめていると、やっぱり神が働いているなという感じが私にはするのです。

遠藤周作『私の履歴書 落第坊主の履歴書』日本経済新聞出版社, 2013, p.159-160
〈神の働き〉より


色んな面がある遠藤周作を一冊で俯瞰できるため、狐狸庵先生の入門書としても良さそうな、満足度の高い一冊でした。

 一冊の本も年齢によって読みかたが変る。少年時代や青年時代の愚行もそれを俯瞰できる年齢になってみると、すべてそれは意味があり、マイナスでは絶対になかったことがやっと理解できたのだ。そしてそのひとつひとつが糸でつながり、その先では人生を包む大きな存在が微笑しながら私を見ていてくれていたこともわかったが、それを説明するには後半生の私を語らねばなるまい。

遠藤周作『私の履歴書 落第坊主の履歴書』日本経済新聞出版社, 2013, p.122-123
〈人生を包む微笑〉より


この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?