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自殺はサヨナラが言えない

※自殺に関する記述があります。このテーマにセンシティブな方、影響を受けやすい方は観覧をお控えください。



このところ希死念慮に苛まれる日が増えてきた。

先日、様々な要因が重なって、朝からどうしようもなく巨大な絶望感にのしかかられ、死を覚悟した日があった。

うつ状態が長らく続いた末に自殺を考えたことがある人ならわかると思うが、「死を覚悟したなんて、自殺なんだから死ぬかどうか自分で選べるでしょ?」と一般的に言われるかもしれないが、そうではない。

体の病気と同様、心の病気も「生きたい」という意に反して脳が体が死に導こうとしてくる。


その日私は仕事があったが、朝から心は決まっていて、仕事を終えて夜になったら自殺しようと決めた。なぜだかわからないが、死のことを思う時、いつも「社会に迷惑をかけないように」と思う。死ぬのであれば会社なんて休めばいいのにと思うだろうが、そうならないのだ。不思議だ。

自殺に失敗して救急車で運ばれるようなことになっても月曜日には何くわぬ顔で出社できるよう、これまでも自殺が頭を過ぎる時期は、結構日には金曜の夜を選ぶことが多かった。


今回の自殺日和(結局未遂に終わったので、自殺のことを計画したまま過ごした日のことを仮にこう呼ぶ)で気づいたことがある。

送別会などとは違って、世話になった人たちに「さようなら」が言えないことだ。別れだけではない、ありがとうも言えない。好きでした、も、恨んでいます、も。

別れを連想させることを言うわけにはいかない。だって理由を言えないのだから。

今までの自殺日和に人に伝えたかった時は、相手は恋人であることが多かった。ひとり残してしまうけれどごめんねとか、ずっと好きだよとか。


今回「お別れ」を言えなくてむず痒い思いをしたのは、仕事場で関わる人たちだった。お客さん、先輩、同僚。

特に普段会話で盛り上がることが多い相手や、笑わせてくれた相手には「ありがとう」の気持ちがすごく強かったのに、伝えることができなくて寂しかった。

相手は私と来週もその次もずっと会えると思っている。何年も先まで私と関わってくれるつもりで話かけてくれる人も少なくない。

だけれど私だけが知っている。私は今夜死ぬ。

どれほどあなたたちと過ごす時間が楽しいことか、どれほど私を幸せにしてくれたことか。私も来週も来年もあなたたちと笑っていたい。

「ではまた来週!」と特にこっちを見ることもなく、気楽に颯爽と部屋を出る彼らの横顔や後ろ姿を、私は目に焼き付ける。


遺書を書いて残したいこと、伝えたいこともあるけれど、怨念や懺悔でない、お礼みたいなことは直接顔を見て伝えたくなるだと知った。

そして自殺はそれを許さない。

ありがとう、さようなら を許してくれないんだ。


文明や技術が発達して、人間の悩みが目先の生存安否よりも高度で複雑、のっぺりとした「安全」になってしまった今、自分の最期のタイミングを自分で決めたくなるような気持ちが沸き起こることは至って普通だと思う。


それでも社会は、人間の心は、生き物が自分で命を断つことにまだまだ適応していない。

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