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ははのしのはなし

もう何年前か分かりませんが、私が中学生3年生のとき
母が死にました。

いつも通りの朝でした。洗濯物を干している母に
その時付き合っていた彼氏を家に連れてきていいか
会話したのが最後だった気がします。

いつも通り学校に行って、家に帰ってきました。
母は働きにいってました。母子家庭でした。
家に帰ると妹と母の彼氏がいました。
当時、母は彼氏がいました。籍を入れるような話は出ていなかったものの
よく家に遊びにきてました。
世話好きのいい人でした。お父さんとは思っていないながらも
私達も慕っていました。

そこに突然電話が来ました。
母の職場から。
「お母さんが倒れて救急車で運ばれています。」と。

すぐに三人で病院に向かいました。
着いた瞬間、集中治療室に入っていることを知り
すぐさま、おばあちゃんに連絡をしました。
本当のお父さんにも連絡をしました。
もちろん母の彼氏とは誰も面識がなく、
全員が揃った病院の待合室は地獄絵図でした。

ただそんなこと知ったことないくらい緊急の事態でした。

すぐにおばあちゃんとおじいちゃんと私と妹が呼び出されました。
お医者さんからの説明。
「オブラートに包んで話している時間がないから、
お子様に聞かせるかの判断はお任せします。」
とお医者さんに言われました。
おばあちゃんは私を見つめました。
私は妹と一緒に部屋を出ました。怖くなりました。

そこからはよく覚えていません。
病院の待合室でずっと妹と泣いてました。

次の朝になり、なにか食べないとと言って
いとこのお姉さんにたい焼きを買って貰いました。
無味でした。

その後も意識が戻らず、ずっと集中治療室でした。

病院の近くの歩道橋から車道を眺めてました。
おじさんが慰めるように色んな話を隣でしてましたが
何一つ覚えていません。

いとこの旦那さんがコンビニで好きなもの買っていいよって
言ってくれました。ただ、何も欲しい物が見つかりませんでした。

そんな状態で2日ほどたった夜、
「元気な母は探したら
どこかにいるんじゃないのか」
ふとそう思い私は夜の道を駆け出しました。

必死でした。
人生で一番頭がおかしくなってしまっていたようです。
「元気な母」は見つからず大人たちに保護されました。

4日目の朝。
長期間病院にこもっていた私と妹は一度お家に帰り
ちゃんとお風呂に入ってからまた戻ってこようという話になりました。

駐車場に向かっていると、親戚のお兄ちゃんが走ってきて
「様態が…」と言いました。
子供でしたがすぐに全てを察しました。

急いで病室に戻ると本当にドラマでしかみたことない光景でした。
ベットが真ん中にある小さい部屋で親戚全員が母を見守っていました。
心電図はまだかすかに動いていました。
みんな泣きながら「頑張れ、頑張れ」と言っていました。

ただ、私は思いました。
「もう頑張らなくていい」と。
今まで女手一人で育ててきてくれた母はいつも頑張っていました。
仕事でストレスを抱えながらいつも私達に寄り添ってくれていた母
泣いている姿、今思えば精神的にも限界は近かったのだと思います。
そんな母にこれ以上頑張ってとは口が裂けても言えませんでした。
「もう十分頑張ったよ」

そう私がつぶやくと病室は静かになり、みんなは
「ありがとう」を伝え出しました。
母はそれを待っていたかのように
そのまま帰らぬ人となりました。四十二歳でした。

もう十年以上前の話になるものの、悲しみは癒えず
いつもどんなときでも母の話をするのは少し辛いものです。

ただ、当たり前なんてこの世には存在しないんだと言うことを
忘れないためにも、大切な人に大好きを毎日伝えることを
忘れないためにもどうしても綴っておきたかった。

暗い話でごめんなさい。ただこれが私の人生の1ページです。




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