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「当たり前」を問い直すことが哲学だ。

こんばんは、イラストレーターのマルオです。

今日のお題は、「哲学」のこと。

今日、ちょうど読んでいた本に
インスパイアされて
「自分がこの世界で生きるとは?」
みたいなことを考えていました。


人間臭さと静謐の間で

というのも。
人間というのは
欲望や打算にまみれて
それこそ徹底的に「人間臭く生きる」
瞬間もあれば

欲望から離れて
静かな境地に生きることも
あるなと思ったからです。

どちらかに寄らなければならない
ということもなく。

状態としても、
「陰陽太極図」(コレ→☯️)にもあるように、
どちらかだけってことはないのかなと。

もし、聖人を目指したとしても
聖人的要素だけを持って生きる、
というのは結構難しいこと
なんじゃないかと。

聖人として生きるなら、
いろいろな気持ちや欲望を持って
この世界に生まれた意味が
そもそもなくなってしまうのでは
ないかなと思うのです。

自分の感情を見て、
欲や浅はかさやずるさ…
そういうものを感じながらも
懸命に良くなろうともがいたり、
思うように生きられずに苦悩したりする。

その不器用な生き方こそが
人間が人間たる、滑稽な、
愛すべき姿じゃないのかなと思います。

イデア論

最近読んだ本の中に
「哲学」としての最初の説に
プラトンの「イデア論」という説が
ある、と書いてありました。
(「イデア」って聞いたことはあるけど、
なんだ?と思っていました。)

事物の本質とは何か
プラトンが考えたときに
その答えはイデア論で論じることができる、
と説いています。

全てが完璧なものとして存在する
「イデア界」というものがあり、
私達は生まれる前、そこで
全てが完璧なイデア(=事物の本質)
を見てきたと。

だから、「生まれ落ちたこの世が
全てがいろいろと不完全であっても
そこにイデアの面影を見て、
完璧さを補完して見ることができる」
というのです。

完璧さというのは理想のイデア界にしか
ないのかもしれないです。

(この後に弟子のアリストテレスが
また違う角度の説を唱えていますが
それはまた別記事で感想含め
書いていこうと思います。)

それでも、(いや、だからこそ?)
人は何か完璧さみたいなものを求め、
目指すようにプログラムされている
のかもしれないな。

最初の話に戻ると、
完璧な世界であるイデア界と
不完全な現世を
私達は意識の中で行き来して
敢えて楽しんでいるのかもしれませんね。
(プラトンのこのぶっとび説、結構好きです)

こうなりたいけど、なれない。
難しくても、求める。
そんな自分も一生懸命で愛おしい。

そうやって眺めると、
日々懸命に生きている
人間全体をも愛おしむ目で
見ることができるなと思いました。

「当たり前」を問い直すことが哲学だ


ここまでなんとなく
つらつらと書いてしまいました。


「哲学とは」という概念に
立ち戻ったときに、
「当たり前」を問い直すことが哲学だ
という説を読んで
素敵だなと思ったことを
書いておきます。

哲学とは、知を愛する営みだと。

そして、「世の中の当たり前や常識」
というのは強制されたものであり、
「その強制されてきた常識」に対して
問いを立てて、
自分自身の思考を自由に働かせる営み
哲学であるそうなのです。

知を愛し、自由を取り戻す営みが哲学だと。

それを読んで、とても素敵だと思いました。
私が日々やりたいことはそれだなと。

知を求めて知り、
世の中の当たり前を改めて問い直し、
強制された常識から限りなく自由になること。

それ自体が「哲学」だったのか、と
軽い感動を覚えています。

そんなわけで、哲学と名のつく本を
読みあさっている最近です。

いくつになっても
新たに何かを知ることは
とても刺激的でワクワクしますね!

社会生活を営む上で、
哲学がどれほどの現実的な役に立つかは
わかりませんが、
少なくとも人間として生きる時に
目の前の事物の存在そのものを問う、
という姿勢はあっても良いものでは
ないかと思います。

一つ一つの存在について
当たり前を外して問い直してみる。


それは自分を取り巻く事物を、
お仕着せの価値観ではなく
改めて自分の力で意味付けする
ことに
なるのではないかなと。

それをやることで、
目の前の事物を自分自身にとって
ちゃんと意味のあるものとして
輪郭を鮮やかに浮かび上がらせることに
なるのだと思います。

私を取り巻く世界は
私自身で意味付けしていったって
いいのだと。

長くなりましたので、今日はこの辺で!

今日も読んでくださって
ありがとうございます!

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