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ありもしない「学校」とありもしない「社会」の間に渦巻く不信感に関して。

こんばんは、しめじです。
今夜は、この仕事について、少し真面目な話を。

決してネガティブな意図で書く話ではないですし、何かを責めようとか、何かを悪ものにしようとか、そういう意図ではありません。
ただ単に、私(達)の目の前に横たわる、結構根本的な問題について書こうと思います。

これを言葉にしてみようと思ったきっかけは他の方の記事です。

↑この方の記事です。

先生の経験も、外部からの視点も、どちらもお持ちの上で記事をお書きになっています。
この方のこの記事を読んで、以前から感じていたことを少し言葉にしてみようかな、という気持ちになりました。

というわけで、本題。

学校がそんなに頑張らなくても、大抵の人は困らない。

ええ、困りません。

昨日も書いた通りです。

もちろん私が知っているのは高校の範囲ですから、高校だけに絞ってお話をすると(ですから、小学校や中学校は別の話です)。
そんなにぎちぎちに校則で固めなくたって、ほとんどの人は世間一般が「まっとう」と判断するだろう範囲のファッションで登校すると思いますし、「ちょっとやんちゃだけど18歳くらいの若者ならこんなものじゃない?」と思われそうな範囲の髪型をキープすると思いますし、授業中にずっと机の下で携帯弄っている生徒もほとんどいないと思います。
入試の面接や就職試験がーと言っても、学校が何も言わなければ親に聞くなり本屋で就活の本を探すなり、「面接 服装」で調べるなりするでしょう。

がちがちに課題と補習で勉強漬けにせずとも、目標があれば多分勝手に勉強します。もちろん、こちらが追い立てて勉強させて、学力が多少伸びることによって、それまで目標にすらしなかったレベルのものごとを目標に出来るようになる可能性はありますが、誰がそうなって誰がそうならないかはわかりません。
当然、ストレスで潰れる子が出てきてしまうのは事実です。

だから、犯罪行為に対して毅然とした態度をとって、残りはほったらかしておいても、「ほとんどの子」は困りません。そういう「ほとんどの子」にとって、無論学校のやることなすことは全てお節介ですし、全て妨げです。
こっちだってそんなこと知っています。

でも、こちらからそれを与えて、どういう枠組み内で行動すればいいのかを示してあげないと、身動きが取れない子、大きく外れて本人が望まないほど遠くまで行ってしまう子も、中には存在するんです。
(これは、この仕事でもしていないとわからないままだと思います。だって、学校がこれだけ口出ししても遠くへ行ってしまう子は、他の子たちに気づかれない内に、気づかれないほど遠くへ行くんです。だから、ほとんどの人の記憶の中にその子はいません。だから、そんな奴おらんやろ、と思ってしまうのは仕方がないことです)

そして、私たちは「それ」が誰かわかりません。何人いるかもわかりません。今は「ほとんどの子」側にいる人が、来週も、来月も、来年も「ほとんどの子」側にいるかもわかりません。人間、誰でも変わります。そして自分は変わった自覚がないことがほとんどです。

私たちは、それを取りこぼしたくない。校則やら勉強の追い込みやらで、「被害」にあっている人がいるのは知っています。その人たちの「被害」を取り除いたときに、代わりに気づかぬうちに別の「被害」が発生するだろうことは、こちらは容易に予想できます。
私たちが探るべきことは、それぞれの学校の実情に応じて、どこが一番「(どちらともの)被害」を少なくできるか、です。
だから、「校則」と一括りにして語られる言説はごく一部を除き全て無駄です。
ちなみに、具体的に私が見たものについては、一切語る気はありません。それは、実際に今でもどこかで生きている(はず)の人の話です。ここで公に書いていい物事ではないです。

モンスターと呼ばれる人は、確かに少ない。

圧倒的にマイノリティです。
いないわけではないですが。
10年やってきて、「あー、これがニュースでやってるやつかあ」と思ったのは一回だけです。
でも、その人に振り回されて具体的に何か起きたということはありませんでした。毅然と、それは無茶です、というだけです。
教育委員会にも連絡されて、事情を問う電話がかかってきましたが、ちゃんと説明したら「それは大変でしたね」で終わりです。
実際は、私がお会いした限り「いつもお世話になっています」と言ってくださる方がほぼすべてです。お客様気分でふんぞり返る人もほとんどいません。
こちらが、「おたくのお子さんのことを学校なりに一生懸命考えています」ということがちゃんと伝われば(で、考えていますしね)、基本的には共同戦線です。

教育委員会って学校の敵ではないですからね。

モンスターと言わないまでも、「教育委員会に相談させていただきます」と言えば何でもこっちが言うこと聞くと思っている保護者の方は、一学年に一人くらいはいたりします。
が、どうも誤解されているみたいですが、教育委員会は基本的に学校の敵ではありません。
教育委員会に言えば、すぐに思い通りに教育委員会が強制力を発揮してくれると思っている人がいるみたいですが、そんなことはありません。
どっちかというと、「あー、教育委員会に言うぞっていうのが未だに脅し文句になると思ってるんだなー」と思いながら聞いています。
こちらに非が無ければ無論何も起きません。
こちらに非があれば詫びて是正していくだけのこと。

だったらこの息苦しさはなんだ。

だから、実際はそんな敵だらけではないんです。この仕事。
確かに勤務時間はえぐいです。ただ働きもたくさん。サービス残業にあたる部分も全部含めて時給換算すれば学生の時のバイトの時給の方が…という金額の月も結構あります。
やることは増える一方、無論減りません。プログラミング学習はじめます、英語学習はじめます。探求的な活動増やします。授業時数は少しだけ増やします。従来の科目の時間は減ることになりますが、それは授業の質を上げて学力はキープさせてください。
部活頑張りましょう。みんな顧問してください。運動部はケガすると困るので付き添ってください。でも面談もしてください。補習もしてください。保護者から電話かかってきたら丁寧な対応をしましょう。でも顧問の監督責任が果たされていない場合の事故は顧問は裁判で負けますよ。
簡単にいうとこんな感じです。どうやら我々も目玉は最大二個、手足は最大二本ずつ、体はぴったり一つしか無いことをご存じないようです。

でもこの仕事を続けているのは、私が関わる生徒って、やっぱり良い人がほとんどだからです。色んな壁にぶち当たり、悩んだり怒ったりしながら、でもこれから続く人生を少しでも良くしようとみんな真剣です。それを少しでも手助け出来たらと思うんです。その前を向いて一歩ずつ進む姿が私たちには尊いんです。
私が関わる保護者の方も、ほとんどいい人です。本当に励まされます。当然人間がやることですから至らないところは多々あれど、それでも信じて預けていただけるのはありがたいし、身の引き締まる思いでいるんです。

なのに、どうしてこんなにこの仕事は息苦しいんですかね。

一番大きいのは、いつからか生まれた「不信感」だと思います。
漠然とした、目の前の人ではない人たちによって構成された「社会」と、漠然とした、どんな学力層、生活力層、自我層の生徒で構成されたかわからない「生徒たち」によって構成された「学校」の間に循環する不信感です。
そして、これは鶏と卵の関係です。どっちが先なのかもはや分からないくらいの周期に入っていると思います。そして、どっちも「実態」は持たないので、互いに歩み寄れない。

確かに、原因の一端には「学校」というクソ雑な主語を設定して煽ったメディアの存在はあると思います。
(まあでも、仕方が無いことですけどね。特定の学校だけ取り上げて報道するとか土台無理な話です。とりあげるとしても、それを具体例として「学校」に落とし込まざるを得ないですから)
「生徒」という「生徒」はいないのと同様、「学校」という「学校」は無いのですが、マスメディアや、マスメディア化したマルチメディアの中には「学校」という場所が存在しているんです。

私たちはそれぞれの自分の生活からその「学校」という場所に引きずり込まれ、その「学校」という場所から、個人ではなく「社会」に反論することを余儀なくされています。そんな「社会」なんて無いにも関わらず。
そして外側の人たちは、その「学校」の像しか与えられない。子どもが学校に通っている、という人であれば他の学校像を持ちえますが、他の学校像を持たない人はその「学校」しか怒りをぶつける場所が無い。

ありもしない「学校」とありもしない「社会」の間の不信感は、実際の私と実際の生徒、実際の私と実際の保護者の間にある感情とは全く別のものです。
特にコロナ禍以降、ネットと距離を置きました。もともとテレビとは遠い人間です。私たちが奉仕するべきは、目の前の実際の生徒であり、その保護者であり、その生徒が将来巣立って向かうであろう社会です。
「どこかの誰か」の集合体である「社会」じゃない。

と思うようになってからは、ちょっとだけ気は楽です。
それでもたまにイラっとして昨日みたいなことも書いちゃいますが。

少しでも、この無益な不信感のサイクルから、抜け出せる人が多ければいいなと思います。

では、今夜はこの辺で。






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