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ノブタパワ~~ッ注入ッ!

「信じる」とは根拠のない(五感に訴えかけない)ことをそう「思う」こと。視覚にある白いものを白いと100%そう「思う」ように、神様を、他人を、言葉を、未来を100%「信じる」。「思う」も「信じる」も世界、現象への100%の心象。世界はほとんど現象でしかない。風景も、ノイズも、匂いも、痛みも現象で、それをキャッチする意思主体=自分の、世界。

現象があって、それを「思う」ことはpassiveだけど、「信じる」はactive。五感に拠らない「信じる」という行為がどうしても苦手で、他人の言葉でも、未来でも、そんな根拠のない、記号でしかないノイズ、現象をそう思い込む、「信じる」ことが出来ない。それでも「信じる」しかない対象がひとつあるとすれば、それはその現象に対峙する意思主体=自分。自分には「思う」ことはできない、しかし、「信じる」ことはできる。

自分は「信じる」しかない。でも「信じる」がactiveである手前、それは自ら一歩踏み出さなければ成せない。しかも根拠がない、なににもよりかかれない。言い訳ができない。「信じる」は自分が主体のactiveな行為。それはなかなか難しいことかもしれない。現実にはほとんど不可能かもしれない。

いまから15年前に、『野ブタ。をプロデュース』という迷信や幽霊が横行するオカルトドラマがあった。主人公の2人組、修二と彰がいじめられっ子の高校生(小谷信子=コタニノブコ、原作小説は男の子で信太=シンタ)を成長させる(プロデュース)させる青春学園ドラマ。劇中、信子がいじめっ子に立ち向かう場面がある。しかし足が竦む。そこで信子は修二に相談する「力って、どうやったら出るのかな」「(ヒーローのポーズで)ノブタパワ~~ッ注入ッ!ハイ、これで、あなたに、力がみなぎりましたっと」

ドラマはフィクションだけど、ノブタパワーは自分を「信じる」ことができる、この世界にもある魔法ないんじゃないかって今でも信じてる。