是非も無し

人生とは苦難の連続で、私の場合はまず十五歳の時に高校受験という苦難があった。周りには十二歳や六歳で受験を迎えたという人もそれなりにいるから驚きだ。
日常に潜む苦難の数は限りないが、目立つものだけを取り出してみても受験、就活、と、まるで若者の希望を打ち砕きたいかのように障壁は連続して襲い掛かってくる。まるで休みがないのだ。
こうした苦難の何が悪いかというと、成否がはっきりしてしまうことだ。もちろんそうでない性質のものもあるが、私たちは時として、残酷にも失敗者の烙印を押されてしまう。

そうした時に、こう言う人がいる。
「君は努力が足りなかったのだ」と。
面と向かって言わないまでも、結構な割合の人が心の中ではそう思っているに違いない。
「もっと努力をしておけば、こうはならなかったのにね」。

人生において、そうした経験は挫折と言われる。挫折は成長の糧だという言葉も、何度か聞いたことがある。
「人は失敗から学ぶ」。挫折した経験をもとに、人は自分の努力が足りなかったことを自覚し、次からはもっと努力するようになる。
高校受験で失敗したら、大学受験で。大学受験で失敗したら、就職活動で。少なくともそれがあるべき姿だと規定されている。
そのせいか、年齢を重ねるにつれて、周りには万全を期するように準備を固める人が増えてきたような気がする。
全力で事に当たれば、失敗したとしても後悔することはない。その気持ちはよくわかる。確かにその主張には筋が通っていると思う。

話は変わるが、最近は各種メディアで有名人の不倫の報道が多い気がする。
それに対する巷の声で「ああ、あの人も他人を見る目がなかったのね。あんなにモテそうなのに」といった類のものを見かけた。
私はその言葉に少し残虐なものを感じた。ああ、そんなところまでも、実力神話は浸透しているのだ。

旦那が不倫をしたということは、その女性は男を見る目がなかったということ。その不幸は、もちろん旦那が一番悪いけれども、女性がもっと「賢かったら」、そんな風にはならなかった。
それを言う者は、自分の「人を見る目」に、絶対の自信があるということなのだろうか。自分の配偶者が不倫をすることは絶対にないと断言できるのだろうか。
他人が本当のところどういう人かなど、当の本人にさえ分からないだろう。数年にわたって頻繁に連絡を取っていた間柄でさえ、一つ屋根の下で暮らして家計を共にすればあっという間に綻んでしまうかもしれない。ましてや人など絶えず変わっていくもので、十年後の相手が今と同じ考え方をしていると思う方が無理があるのではないだろうか。
一人の他者を自分がコントロールすることなどできはしない。環境は複合的なものなのだ。自分の手の届かない場所で相手の人格は勝手に変わってしまう。それはどちらかというと運と呼ぶべきものだ。
もちろん、人事を尽くすことに意味などないと言うのではない。努力はそれでも結果を大きく変えることができるし、決して放棄してはならないものだ。
しかし最後に全てを決めるのは、やはり天命の方ではないかと思う。
そして、そう思っておいた方が、ずっと他人に寛容な世界になりはしないかと思うのだ。

こう思うようになったのは、私もある意味「挫折」したということかもしれない。
しかし、なんのなんの、挫折上等。挫折が成長の糧とは言い得て妙かもしれない。確かにかくいう私も、経験から学ぶところは大いにあったのだ。

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