復興は明るいばかりではない

長かった自粛生活が一先ず明けようとしている。
終わりの見えない真っ暗なトンネルを四か月も走り続けて、ようやく前方に光の点が見えてきた、といったところか。

新型コロナウィルスは私たちの生活様式を大きく変えるだろう、と言われている。
惰性で続いていた数々の出勤、会合、移動が本当は必要ではなかったことが浮き彫りになり、これからの働き方、暮らし方はコロナ以前とは違ったものになる。
それを、能動的ではなかったものの間違いなく社会の進歩であると言う人もいる。

本当にそう呼んでいいのだろうか?
私たちの多くは、少なくとも私は、この四か月の間、他人との接触を大幅に減らして過ごしていた。
独り暮らしをする者はこういう時に孤独だ。両親から電車で二時間半の距離を隔てた場所に暮らす私は、この間ほとんど誰とも会うことができなかった。
こうなる前に実家に帰ればよかったのだ、という声が聞こえる。私に向けられたものではない。誰もが自由に行き交う大広場で、不特定多数の目に晒されているただの個人の感想だ。
その貼り紙を見て私は内心で問う。全ての学生が家族と良好な関係を築けているとでも思っているのか、と。
自分の健康と自己肯定感を維持するために、どうしても血縁以外の関係を必要としている人が、この社会にはきっと多くいる。
しかし、友人との会合は所詮は娯楽、「不要不急」だという言葉が流行るとともに、目に見えない弱者たちの微かな生命線は倫理の名の下に踏みにじられてしまった。
繋がりを失った彼らの姿は目撃されることさえなくなった。
彼らは今、どう過ごしているだろうか。

リモートでの飲み会が頻繁に行われるようになり、私も古い友人グループを掘り起こして幾つか企画したのだが、どのコミュニティを見ても必ず一人は音信の絶えた者がいた。
暗闇を走るトロッコから弾き出された者がいることに気づくのは難しい。
いよいよ明るい出口が近づいてきたとき、見渡してみると乗組員の数が減っていた、などということが有り得ないと言えるだろうか。
私は、トロッコが走り続けたことも、そこにトンネルがあったことも罪であるとは思わない。
しかし、もし仮に、線路の上に投げ出された者がいたことがわかったとして、果たしてトロッコは彼らのために道を引き返すだろうか?
トロッコから振り落とされたことが罪だと言うのだろうか。そうでなければ、置き去りにされるというその罰は、一体何に対して与えられたものなのだろうか。
明るい陽射しの中でもトロッコは走り続ける。願わくば振り落とされないようにと、私たちは必死の思いでしがみつくしかないのだ。

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