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意味分節理論と空海(その五)

5月7日(木)の晩は、ウエサクでした。松尾大社近くの桂川から河川越しに見る満月はとても素晴らしく、その空間に漂う、そこはかとない情緒を堪能しました。そのあとで、家の窓からベランダ越しに満月を眺めながら瞑想していますと、月下を飛行機が通り過ぎる姿を目撃したのです。ところがそれが、龍神のように感じられてきたのです。飛行機の後方へ無音で延びる排気の帯が、まるで絡みあう銀糸のように、月明かりに浮かび上がり煌めいていて、それはそれは、幻想的な光景でした。そして、現実の身体を通した出来事に共鳴するかのように、空間全体から意味のエネルギーが、二重写しとなって、降り注いで(語り掛けて)きたのです。
さて、以前に「諦観(全てを見極め尽くした上での諦め)」について、ここでも書いたと思いますが、「9次元アクトゥリアン評議会」から、とても癒されるメッセージが来ていましたので紹介します。いやー、ウエサクのエネルギーとも「意味共鳴」しています。

https://www.youtube.com/watch?v=_LiHZFNvEOQ

それでは前回に引き続き、「井筒俊彦」先生の著作である「意味の深みへ」から、「意味分節理論と空海」の章のつづきです。

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『「果分可説」と空海が言う、その「果分」に対立するものは「因分」である。「因分」とは、すなわち、我々普通の人間の普通の経験的現実の世界。我々が通常「コトバ」とか「言語」とかいう語で意味するものは、「因分」のコトバであって、「果分」のコトバではない。両者は、同じくコトバであるにしても、それぞれ成立の場と機能のレベルとを異にする。「果分」的コトバの異次元性の事実については、もはや繰り返し強調するにはおよぶまい。』

「因分」のコトバと「果分」のコトバ、まさに「関係の意識」と「場の意識」が担当する、コトバの違いを意味します。


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『しかし、他面、「果分」と「因分」とが、まったく別々に存立していて、両者の間になんのつながりもない、というわけでもない。「果分」のコトバは、たしかに異次元のコトバではあるけれど、それだからといって、普通の人間言語とは似ても似つかぬ記号組織であるのではない。それどころか、普通の人間言語が、そこから自然に展開して来るような根源言語として、空海はそれを構想しているのだ。
「果分」の絶対超越的領域に成立し、そこに働くコトバの異次元性を、空海は「法身説法」という世に有名なテーゼによって形象的に提示する。「法身説法」-----大日如来そのものの語るコトバ。人間の語るコトバと根本的に違うものであろうことは想像するに難くない。ちょうど、大日如来が普通の人間とはまったく次元を異にする存在であるように。
しかし、それと同時に空海は、法身の語るコトバと人間の語るコトバとの内面的連関性を指摘することを忘れない。「コトバの根本は法身を源泉とする。この絶対的原点から流出し、展じ展じて遂に世流布(セルフ)のコトバ(世間一般に流通している普通の人間のコトバ)となるのだ」と『声宇実相義(しょうじじっそうぎ)』の一節で彼は言っている。つまり、我々が常識的にコトバと呼び、コトバとして日々使っているものも、根源まで遡ってみれば、大日如来の真言であり、要するに、真言の世俗的展開形態にすぎない、というのだ。』

私たちが、無造作に使っているコトバの中にも「仏教用語」がありますが、その本質的な意味(「場の意識」としての意味)は既になく、抜け殻となった多くの言葉を耳にします。「宇宙(異次元の空間としての)」しかり「妄想(意味の枠組みとしての)」しかりです。


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『「果分」のコトバが、その異次元性にもかかわらず、「因分」のコトバの究極的原点であり、この意味で「因分」のコトバに直結しているとすれば、「果分」において絶対無条件的に成立する「存在はコトバである」という命題は、「因分」においても、たとえへ条件的、類比的にではあれ、成立するであろうことが、当然、予測される。
それでは、「存在はコトバである」というこの命題は、「因分」、すなわち人間の日常的言語の通用する領域において、どのようにして理論的に正当化され、根拠づけられるであろうか。それが当面の問題である。そして、この問題を解決するために、私はここに、意味分節理論を導入する。』

「関係の意識」と「場の意識」の場合もそうですが、「因分」と「果分」の場合でも、その意味するところが、「ネガティブ」から「ポジティブ」へと反転していることが解ると思います。「存在はコトバである」の命題的な意義も、「ネガティブ」から「ポジティブ」へと反転します。


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『とはいえ、分節理論については、既にいろいろな機会に、いろいろな形で述べ続けてきたので、今またここでその詳細を繰り返すつもりはない。結局、この理論の要旨は、我々人間の言語には、哲学的に最も重要な機能として、現実を意味的に分節していく働きがあるということ----あるいは、より正確には、いわゆる「現実」、我々が普通、第一次的経験所与として受けとめている「現実」は、本当は我々の意識が、言語的意味分節という第二次的操作を通じて創り出したものにすぎない----ということである。』

そう、この「意味分節」をそれぞれに担当する「意識」を、「場の意識」と「関係の意識」と称するのです。


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『「分節」(articulation)とは、文字通り、例えば竹の節が一本の竹を幾つもの部分に分けていく、区分けしていくということ。もともと素朴実在論的性格をもつ常識的な考え方によると、先ずものがある、様々な事物事象が始めから区分けされて存在している、それをコトバが後から追いかけていく、ということになるのだが、分節理論はそれとは逆に、始めにはなんの区分けもない、ただあるものは渾沌としてどこにも本当の境界のない原体験のカオスだけ、と考える。のっぺりと、どこにも節目のないその感覚の原初的素材を、コトバの意味の網目構造によって深く染め分けられた人間の意識が、ごく自然に区切り、節をつけていく。そして、それらの区切りの一つ一つが、「名」によって固定され、存在の有意味的凝結点となり、あたかも始めから自立自存していた・もの・であるかのごとく、人間意識の向う側に客観性を帯びて現象する。たんに・もの・ばかりではなく、いろいろな・もの・の複雑な多層的相互連関の仕方まで、すべてその背後にひそむ意味と意味連関構造によって根本的に規定される。それがすなわち存在の地平を決定すかものであり、存在そのものである。と、大体、このように考えるのである。』

そう、この「コトバの意味の網目構造」が、誰もが知っている動揺にある「カゴメカゴメ」の籠目でもあります。


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『以上は、意味分節理論の要点の簡略な叙述であるが、こういう考え方が西洋の思想史で起こってくるのは、それほど古いことではない。たかだか十八世紀後半から十九世紀にかけて、大体フンボルトあたりから現われはじめる比較的新しい思想動向であるにすぎない。これに反して、東洋では、この考え方の歴史は長い。一例をあげると、大乗仏教では、人間の日常的経験世界、いわゆる現象界の事物の本性を説明して、すべては「妄想分別」の所産であるという。唯識系の術語には、「遍計所執(へんげしょしゅう)」という表現もある。つまり、我々普通の人間は、現象的世界を「現実」と呼び、そこに見出される事物を、我々の意識から独立して客観的に実在するものと思いこんでいるけれども、実はそれらは、すべて人間の意識が妄想的に喚起し出した幻影である、というのである。』

そう、この幻想自体が、「妄想」の本質的な意味(「場の意識」による意味)なのです。そしてその「人間の意識が妄想的に喚起し出した幻影」は、「関係性を結ぶ場」によって異なるのです。「場の意識」は、これらを俯瞰する意識でもある訳です。

長くなりましたので、次回も「意味分節理論と空海」の章のつづきです。

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