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意味分節理論と空海(その十一)

私は何でこんなことを書き綴っているのでしょうか。自身の人生の中で多くの「意味共鳴」を体験して、「生死を超えた世界」に付いての感覚が、実感されるからです。多くの人はこの感覚を、「頭がおかしい」とか「子供っぽい」とかで片付けようとします。これらは、「人間とは何か」と言った命題を、私を含む多くの人々の「真面目な心」に突き付けます。
基よりこれらは「思想」や「信仰」とは違います。極論するならば、「意識とは何か」に突き当ります。これらは、現実の中に垣間見える「意味連関(エネルギー)の作用」なのです。「意識(意味の場)」と「物質(因果関係)」。私には、今体験しているこの現実世界が、「二つ重なっている」様に思えるのです。

それでは引き続き、「井筒俊彦」先生の著作である「意味の深みへ」から、「意味分節理論と空海」の章のつづきです。


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『ファズル・ッ・ラーの構想する「神のコトバ」の観念は、その内的構造において、真言密教の言語哲学に驚くほど似ている。要約すれば彼は次のように説く。我々が生きているこの経験的世界の事物は無常で儚い。あらゆるものが、一瞬一瞬、変化しつつ流れて行く。本質的に無常なこの世界が、それ自体で自立的に存在できるはずがない。そのような存在世界が、それでも現実に存在性を保っているのは、背後に巨大な力が働いていることを物語る。あらゆる存在者を存在させ、それらを存在性において把持する無始無終の力、存在の永遠のエネルギー、それこそ世人が呼んで「神」となすところのものにはかならない。』

これは、「意味連関のエネルギー」を「神」と表現したものに思えます。物理学の用語で言えば、「エントロピーの減少」に当たりますが、「一瞬一瞬、変化しつつ流れて行く、本質的に無常なこの世界」は、物理学で言う「エントロピー増大の法則」で支配されています。この「エントロピー増大の法則」とは、「自然は、秩序から無秩序へという方向に進む」と言う「物質の法則」です。この「法則」に反する、巨大な力が働いていることを物語っているのです。


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『とは言え、この神は、それ自体としては不可視、不可触、その本体は知る由もない。
しかしそれにもかかわらず、我々は、神、すなわち宇宙的存在エネルギーの本体がコトバであることを、それの自己顕現の姿である万物の「声」によって察知する。すなわち、その自体性においては人間にとって無にひとしい神は、その自己顕現の位層において、コトバ性を露呈する、とファズル・ッ・ラーは言うのである。』

確かに「意味連関のエネルギー」は、不可視、不可触です。科学でいう「量」という性質を持ちません。ですが、「意識」は存在しますし、「意味」も存在しています。そしてこの「意味連関のエネルギー」自体が、「コトバ性を露呈する」と言っているのです。


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『神が、わずかに、自己顕現的に動くとき、そこにコトバが現われる。但し、コトバとはいっても、神の自己顕現のこの初段階では、我々が知っているような普通のコトバではない。一種の根源言語、つまりまだなんの限定も受けていない、まったく無記的なコトバ、無相のコトバ。それが、次の第二段で、はじめてアラビア文字、三十二個のアルファベットに分岐する。(アラビア語本来のアルファベットは二十八文字だが、ペルシャ語に入ると四文字加わって三十二文字となるのである。)もっとも、そのアラビア文字も、この段階では、まだ純粋に神的事態であり、神の内部に現われる根源文字なのであって、人間はこれを目で見ることはできないし、その字音は人間の耳には聞えない。』

そう、深谷のアパートの駐車場で体験したのは、どんな意味だか解らない、うわ言の様な呟きでした。それは私の心の底から込み上げてきて、「バトカンケイ」の「音」となったのです。それが「思考」を経て、文字があてがわれ、コトバとなったのが、「場と関係」だったのです。このコトバは、物事の根源の「裏(場)と表(関係)」を表していますが、まさに量子力学の「位置(確率波)と運動量(運動力学)」を彷彿とさせます。正直言って当初は、単なる思い付きだと思っていましたが、考察を進める中で、意外にも深い意味を含んでいることが解ってきたのです。


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『人間の耳に聞えないままに、このアルファベットは全宇宙に遍満し、あらゆる存在者の存在の第一原理として機能する。
ところで、この宇宙的根源アルファベットは、それ自体では、まだなんの意味も表わさない、つまり、無意味である。無意味であるということは、具体的存在性のレベルには達していないということだ。有意味的なもののみが存在であり得るのだから。コトバが有意味的であるためには、なんらかのものの名でなくてはならない。「声発って虚しからず、必ず物の名を表わすを号して字というなり」という空海の言葉が憶い合わされる。』

そして得られた「場と関係」のコトバを、自身の知識と経験と疑問点で考察を進める中で、生まれたのが、「場の意識」と「関係の意識」のコトバだったのです。これらのコトバが、空海さんの「真言の心柱」のメッセージ(明晰夢)の中に、符合を始めたのです。


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『そのようなことが起こるのは、根源的アルファベットの段階ではなくて、次の段階、すなわち、アルファベットの組合せの段階である。前の段階では、文字は、ファズル・ッ・ラーの用語を使って言うなら、「対象認知的」(mudrik)ではなかった。それが、この段階に来てはじめて「対象認知的」になる。なぜなら、この段階で、文字はいろいろに組み合わされ、結合して語(あるいは名)となり、それによって意味が現われ、意味は、それぞれ己れに応じたものの姿を、存在的に喚起するからである。「対象認知的」とは、このコンテクストでは、存在喚起的ということにはかならない。根源アルファベットの段階では、未分の流動的存在エネルギーであったものが、文字結合の段階では、その流れのところどころに特にエネルギーの集中する個所が出来て、仮の結節を作る。その結節の一つ一つがものとして現象する、というのた。』

まさに、コトバの単語の段階(「バトカンケイ」)から始まって、単語の組合せの段階(「場と関係」)へと移ってきたのです。そして「この段階で、文字はいろいろに組み合わされ、結合して語(あるいは名)となり、それによって意味が現われ、意味は、それぞれ己れに応じたものの姿を、存在的に喚起する」ことで、「場の意識」と「関係の意識」のコトバが、実存的エネルギーを帯び始めたと考えるのです。


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『こうしてファズル・ッ・ラーの文字神秘主義的世界像においでは、すべては文字であり、文字の組合せである。この広い世界、隅から隅まで、どこを見ても、人はただアラビア文字アルファベットの様々な組合せを見る。それ以外には何もない。存在世界は一つの巨大な神的エクリチュールの拡がりなのである。
要するに、ファズル・ッ・ラーは、アルファベットを、絶対的コトバ、宇宙的根源語としての神の創造的エネルギーが、四方八方に溢出しつつ、至るところに存在形象を呼び出してくる呼び声と見るのだ。この神的コトバの呼び声の力は、その源泉から遥か遠くに距って、かすかに暫くにすぎない周辺地帯、すなわち我々の日常的現実の世界、にも波及して、そこに見出されるすべての事物事象の末端にまで行きわたっている。』

こうして生まれた、「場の意識」と「関係の意識」のコトバは、「我々の日常的現実の世界にも波及して、そこに見出されるすべての事物事象の末端にまで」その普遍性を広げるのです。これはある意味で、人類全体にまで波及し、「新しい世界認識の方法」として、機能し始めることを指していると考えます。


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『このような存在感覚に基づくファズル・ッ・ラーの存在論は、すべての存在者において、その外面(ザーヒル)と内面(バーティン)、表層と深層、を区別する。普通の人間の五官は、ものの「外面」のみを認識する。「内面」は、我々の感覚・知覚を超えていて、ただ生れつき特異な感受性をもつ者、およびそのための特殊な修鎌を経た者だけが、それを識る。この「内面」こそ、絶対的コトバそれ自体としての神の存在喚起的エネルギーなのであり、アルファベット三十二文字は、このエネルギーの第一次的変容である。しかし、神的エネルギーの第一次的変容がアルファベットであり、それが個々のものの「内面」を構成しているということは、すなわちすべての存在者、そしてそれらからなる全存在世界が、根本的にコトバ的であるということにほかならないであろう。こうして、アルファベット三十二文字の描き出すエクリチュール空間としての存在世界は、神のコトバに満ちあふれ、神の声に鳴り響く、神的響きの空間でもあるのだ。』

これらの「意味連関のエネルギー」は、意識の表層と深層で、異なった物語を奏でます。ですが、その方向性は明らかで、深層→表層の順番で起こりますが、基よりその深層には時間はなく、永遠性の中に存在しています。すなわち、ものの「内面(ミクロ)」から湧出する「意味連関のエネルギー」は、ものの「外面(マクロ)」に至って、時間と呼ばれるサイクルを刻み始めます。それは、ある種の「回転(スピン)」を伴って、時節の移り変わりとして、その表現を変えるのです。日本語の五十音が奏でるパロール空間としての存在世界は、その音的な響きを使って「万象の声」を奏でます。それは明らかに、日本語が持つ「意味連関のエネルギー」に対する表現であり、「場の意識」の目覚め、そのものだと思えるのです。


だいぶ詩的な「泥酔妄語」となりましたが、まさに今回の「夏至(新月・日食・第十二宮)」にピッタリですね。「新しい時代」が始まる予感に、うずうずしています。子供っぽいですよねえ。。。これからもこの「意味共鳴」を楽しみながら、書き綴って行きます。
「井筒俊彦」先生の著作である「意味の深みへ」から、「意味分節理論と空海」の章は、まだまだつづきます。

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