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「場の意識」と西田哲学の親和性

私は、科学者でも、思想家でも、小説家でも、ましてや宗教家でも哲学者でもありません。

単なる普通の会社員(技術者)です。

それに、どちらかと言うと、理解され難いタイプの人間かも知れません。ですからコンプレックスも人一倍あって、多くの人の前に出て話すのを苦手としています。当然技術者ですから、過去には講堂で発表する機会もありましたが、あまりいい思い出はありません。

さて、では何故こんな思想めいた、宗教めいた、文学めいた文章を書き続けるかと言いますと、これは何度も書いていますが、ある「特異な体験」の中に、幸運にも気付きを得られたことで、とうとうこんな場所(京都)にまで連れて来られてしまったのが、最も強い動機です。

いろいろな「コンステレーション」が、書籍やら、自然やら、文化やらからやって来て、書きたくて書きたくて仕方がない気持ちになるのです。

そこには「本願」と呼ばれる、ある種の「普遍的な欲望」が、働いている様に思うのです。

先日、京都イオンでの買い物のついでに立ち寄った「東本願寺」にて、観光客の殆どいない、巨大な畳の講堂に座っていると、伽藍の優美な彫刻と、「親鸞聖人」の彫像と対面した一時の中に、思考には登らない「沈黙の対話」の体験として、思い返されたのです。

こんな書き方をすると、多くの人が、「これは文学か?」と、誤解するかも知れません。

ですが、何気ない日常の現実の中に、この様なサインが、明確な手応えとなって、浮かび上がって来るのです。

さてさて、次の内容も、そういった類の体験のひとつです。ここで浮かび上がったのは、「場の意識」のコトバが持つ哲学的な背景です。

それでは以下は、秋月龍珉著「禅仏教とは何か(P.59〜)」からの抜粋です。この書籍との出会いは、ハッキリ言って、私の知識や記憶(「関係の意識」)のキャパを超えています。

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『四、初めに大悲があった

1「自己」からものを見ないで「世界」から見るということ

終戦直後の新聞に、「日本は今までの軍事国家から、これからは文化国家として生きていくのだ」という論が掲げられたとき、その「文化」の二字が懐しく、心から嬉しかった思い出がある。それから何年めであったろうか。西田幾多郎先生の「善の研究」が再版されたときに、神田の岩波書店の前にそれを買う人の列ができたという。それは、確か昭和二十二年か三年のことであった。その当時、西田門下の京都学派が戦時中の海軍協力のせいで、マッカーサー・パージで全滅状態であったなかで、ただ一人健在で、当時大いに西田哲学を挙揚(こよう)していた柳田謙十郎先生が、東大の学生たちに招かれて講演をしたことがあった。ある学生が、「西田哲学を一言で言うと、どうなるか」と質問した。そのとき、柳田先生が、「それは、自己からものを見ないで、世界からものを見る哲学である」と答えたのか、ひじょうに印象的であった。

突然こんなこと書き出したのには、理由がある。「四弘の誓願」などというと、皆さんはきっとそれを、個人の「意思」に関することだと考えられるであろう。しかし、私はそれを「個人の意思」でなく、まずそれは「世界の意思」であると言いたい。自己という「個」は、いわば「超個」なる世界の意志を、自らの意志として意志し、「個」として誓願するのだ、と言いたいからである。私はそういう「四弘の誓願」が、ほんとうの「菩薩の願」だと思うのである。
西田哲学に、「我々の自己(個)は、自己の底(脚下=場所)に、自己を超えたもの(超個)に於いて、自己をもつ」というテーゼがある。これを「個」は「超個」に於て真の「個」をもつ、と言い換えてもよい。またこれを「個」は「超個」という「場所」に「於てあるもの」であると言ってもよい。そこで、「自己」からものを見ないで「世界」からものを見るというのは、「於てあるもの」からものを見ないで、「場所」からものを見る、「場所の論理」だと言ってもよい。

話がかたくなった。話を具体的にしよう。「般若心経」に、「色即是空、空即是色」という有名な語がある。「色」は、周知のように、早く言えば"肉体"のことである。そして、少し先に「受想行識も、またかくのごとし」とあって、「色」で言ったことは、また「受(感覚)・想(表象)・行(意志)・識(知識)」すなわち"精神作用"で言っても同様だというのであるから、「色」の一語に「受想行識」も含めて、「色」の一語を"身心"すなわち"自我"と解してよい。すなわち「色即是空」は、"自我は空である"の意味である。
「色即是空、空即是色」とは、"自我は空で、空は自我である"ということである。それはどういうことか。「色」ないし「自我」は"於であるもの"であり、「空」は"場所"である。私は「心経」のこの句を、西田哲学の「場所の論理」で考えてみたい。
先に「色」は"肉体"のことだと言ったが、より厳密には、"眼の対象界"のことで、"色"があって"形"があって"連動するもの"をいう。それで、"物質現象"とか"肉体"とか訳されるのである。今それを文字どおりの"色"と"形"と解してみる。そうすると、「色は空だ」ということを、次のように考えることができる。"赤・橙・黄・緑・青・藍・菫"という虹の七色は、"空間"という「場所」に「於てあるもの」として、「空間の自己限定」として捉えることができる。虹の"七色"は「有」(存在)であるが、"空間"は七色と同じ次元で存在するものではない。それは「有」でなく「無」である。しかしこの「無」なる"空間"がなければ、"七色"は存在し得ない。円形・方形・菱形等の"形"もまた同様である。"空間"は"形"と同じ次元で「有」なのではないが、その「無」なる"空間"がなければ"形"は考えられない。有なる"形"は無なる"空間"の自己限定として成立する。

「場所的論理」というのは、ものを見、ものを考えるのに、こうして「於てあるもの」からでなく、その「於てあるもの」の於てある(置かれている)「場所」から見、考えるという見方、考え方のことである。今、"色"や"形"と言ったものを、もう少し具体的に"物質"と考えてみると、どうなるか。そこで「物理学的空間」というものが成立する。
そして、一切の"物理現象"は、そうした"物理的世界"なる「場所」の自己限定として捉えることができる。さらに、「於てあるもの」を、より具体的に"生物"と考えてみると、どうなるか。そこで「生物学的空間」というものが成立する。そして、一切の"生物現象"は、そうした"生物的世界"なる「場所」の自己限定として捉えることができる。
ただし、「物理学的空間」は、空間の自己限定として片づくが、「生物学的空間」は、そういう一元的自己限定では片づかぬ。「生物」は「世界」ならぬ生物自体が「個物」的自己限定をするからである。そして、さらに"生物"がより具体的に"人間"になると、より複雑になってくる。そして、そこに「歴史的空間」という「歴史的現実」に於てある「個物」(真の「個」、人間実存)が考えられなければならない。
こうして「空間」が、"色"や"形"の於てある単なる「空間」から、「物理的空間」ないし「生物的空間」、さらに「歴史的空間」へと具体化する。そこでそうした「世界」(空間)に於てある「個」(人間実存)が考えられる。しかし、その世界はまだ「無」と言っても、「相対無」的空間であって、どこかに「有」的性格をもつが、それがさらに「宗教的世界」となると、その「無」は「絶対無」となり、そこに、「絶対無」的空間に於である「個」、すなわち宗教的実存的、単独者的「個」(真の実存)が考えられる。
私は、そうした「歴史的現実」(西田哲学では「現実は根源をもつ」という)の根源なる「場所」、すなわち「絶対無的世界」から、大乗の菩薩の「四弘誓願」を考え直してみたいと思うのである。

摩訶般若波羅蜜多!』
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私に訪れた「見性体験」後、「コトバ」→「コトバの体験」→「コトバの思想的な背景」の順に、出会いが訪れます。

それはまるで、新入生にレクチャーを施す様な過程なのです。

これらは、以前ここでも紹介した、「井筒俊彦」先生の著作(意味の深みへ)の中でも、「真言」の意味への誘いとして思い返されたのです。
「意味分節理論と空海(その一)~(その十三)(最終回)」
https://note.com/mr_mu/n/n4058a8ef959b

とは言っても、ここに書かれた内容は、「大多数の人々」にとって、あくまでも「思想や信仰の次元」に留まります。

そこには、誰にでも再現ができる「体験」が欠落しているからです。

ここに書かれた内容の次元に意識を上げるには、言葉を変えると、ここに書かれた内容を現実と結びつけて味わうには、「覚醒(意識進化)」が不可欠だからです。

さて、この書籍の内容では、「世界からものを見る」視点が強調されますが、これもまだ「関係の意識」の次元から一歩も出ておらず、「場の意識」の入り口に過ぎないと、私は考えます。

確かに「場の意識」は、高次元へ向って重なり合っていて、その延長線上に「覚醒(意識進化)」があるのですが、科学的理性(唯物的思考)が邪魔をして、「関係の意識(相対意識)」の次元(思考)に戻されてしまうのです。

話がだいぶ飛びますが、その結果起こったのが、「全体主義」や「共産主義」と呼ばれる「唯物的思想運動」だと私は考えています。

さらに、こういった「見性体験」は、「大多数の人々」の現実の位相(クロックサイクル)とは、少しズレた位置にある様です。そして、このズレを、人為的に引き起こそうとする行為が、「ヨーガ」や「座禅」等の「仏道修行」にあるです。

図らずも私は、これを「暗黒期の会社員生活」の中で、実現してしまった様なのですが、その後にやって来た「関係の意識」と「場の意識」の対比のコトバは、現実の中に重なり合っている、異なる「意識の次元」の体験を、見分けるのに役立っています。

それでは次回からは、このコトバで見分ける、異なる次元の重なり合った現実について、自身の体験に、解説を加えながら、書いてゆきたいと思います。

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