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「禅」は、「思想」なのか?

「禅」は、「思想」なのでしょうか。「禅」に、「反禅」などというものは、あまり聞いたことがありません。いわゆる「イデオロギー」と呼ばれる「思想」には、必ず相反するものが存在します。以前ここでも書きましたが、「資本主義」には「共産主義」があり、「個人主義(自由主義)」には「全体主義」があります。
私にとって「思想」とは、未だ対立の次元を内包した「関係の意識」の境地を意味します。これらは、「神秀禅師」の北宗禅が標榜した、修行により払拭を目指す、「意識の境地(禅)」でもあります。そこには、物質的で肉体的な「二元性(相対性)」と呼ばれる、「対立の作用(物質宇宙の作用)」が存在しているのです。ひるがえって、「慧能禅師」が「南宗禅」として標榜したのが「思想」を超えた「意識の境地」、つまり「禅」です。「場の意識」方向性に、自身の「心の内宇宙」を発見する「自他不二」の世界でもあるのです。まさに純粋な「菩提心【さとり(菩提,bodhi)を求める心(citta)】」を招来する「明鏡」なる「心の世界」です。ですが、この世においてその表現は「方向」であって、「力」ではないことに注意する必要があります。「人間」は、各個人の「心」の中にその「方向」を良心として、内包しています。私の勝手な推測ですが、釈迦が悟りを開いた「菩提樹」とは、人間表現を「心象空間」の側に反転させた「心的内宇宙の存在」の象徴であり、「生命の樹」そのものだと考えます。この「樹木」としての人間表現には、自由な移動がありません。つまり、「心的内宇宙」から見た場合の人間は、動物ではなく植物として表現されているのです。言葉を変えると「高次元宇宙」から見た人間は、成長進化を繰り返す「樹木」と同義なのです。
さて、いろいろと勝手なことを書いてきましたが、「こんなことを考えることに何か意味があるのか」と問われれば、「明確な意味がある」と答えたいと思います。それは正に「方向」としての「意味」があるのです。その方向が、「意識の光の方向」となるのです。「樹木」にとって「光」とは、なくてはならない「成長進化のエネルギー」です。つまり、その「方向」を知ることは、なくてはならない「高次元の成長進化」の方向を希求することと同義なのです。その方向を的確に捉えることによって、「菩提樹(生命の樹)」としての人間は、その光に向けて成長進化を促進されるのです。
これを人間の「五感」で捉えようとしても無理なのです。「高次」へ向かって歩もうとしても無理なのです。「自力」で進化を果そうとしても無理なのです。私たちにできるのは、「関係の意識」の側から起こる「出来事」を方向付けて、諦観することぐらいなのです。「場の意識」で持って「場」そのものを認知し信頼することぐらいなのです。この「今」という時期に、これをすることが、とても重要なのです。そして「社会的圧力」に耐えて、「関係の意識(同次元内の争い)」に転嫁せず、ひたすら心の中心に向けて動かされることが必須となります。
さてさて、だいぶ横道に反れましたが、「禅」には、「対抗次元」を持たない境地が存在する点で、「思想」とは違うと述べました。そこには、潮流のように高次元へと向かう「意識の流れ」があり、その潮流が今まさに活性化しています。そして、その流れに身を任せることが、この「極限の時代」に「上位次元」へと人生を方向付ける潮目となります。
まあこれらの行為を「関係の意識」を通して「同一次元内」で捉えてしまうと、ある種の「身勝手」としか映らないのでしょうが。。。

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