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「意味の深みへ7」

こんなことを書くと不謹慎に映るかも知れませんが、新型コロナウィルスの災禍は、私たち人類一人一人の心に、新たな覚醒を促して見えます。誰から。。。もちろん大地(地球意識)からです。

「井筒俊彦」先生とのご縁は、空海さんのHPである「エンサイクロメディア空海」から始まっています。そして、そこに至る偶然には、「真言の心柱」の「明晰夢」が関わっています。さらにそこのページの「空海の目利き人」の欄の筆頭にあったのが先生でした。そして時を一にして京都駅地下街(ポルタ)の「くまざわ書店」で、入店直後に目に飛び込んで来たのが「言語の根源と哲学の発生」です。そこを契機に「井筒俊彦」先生の著作に興味を持っていろいろ読み始めたのですが、内容があまりに難解なため、暫く敬遠していました。そこに半年程前に絡んできたのが、「意味の深みへ」です。でですねえ。。。では、「イスラーム文化」とのご縁は何処だろうと考えたのです。「井筒俊彦」先生つながり、と言えばそうなのですが直接的ではありません。ここまで深い「意味のシンクロ」は、もっと直接的な何かがなければ、と言うところで「ペルシャ絨毯かあ」と思い至ったのです。じつは、我が家には二種類の手織りの絨毯があります。両方とも東京の小平市に住んでいたころに買いました。最初の絨毯は、子供が生まれる少し前に買った、「マヒ柄のペルシャ絨毯」です。もう一枚は、子供が生まれたすぐ後に買った、「ギャッベ」です。どちらも9~11年くらい前に購入しました。その絨毯に「薫修」した「意味エネルギー」が、今日につながっているのかと納得いった次第です。

それでは、「井筒俊彦」先生の「意味の深みへ」から「スーフィズムと言語哲学」の章の最終です。。。


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『この人たちは不思議な目で不思議な世界を見ている、異常な主体性をもって、存在を異常な形で体験している。そして彼らにとっては、そのような次元に成立する意識のあり方こそ、本当の主体性のあり方であり、そのような目で見られた世界こそ、存在の真相であって、もし、たまたまそのスーフィーが哲学的思考への傾向を持っている場合には、それが新しい哲学への力強い出発点となるのは当然であります。
初めにお話しました「イルファーン」とか「ヒクマット」とかいうイスラーム哲学は、 まさしくこの種の発言の源になった実在体験を意識論として、また存在論として哲学的 に展開したものであります。
そして意識論にせよ、存在論にせよ、この種の哲学が、言語哲学、特に意味の形而上学として展開された場合、きわめて興味ある一種独特の思想になるであろうことは、今までお話してまいりましたことからも容易にお察しがつくところであろうと思います。
今、私はこの種のスーフィー的言語理論の一例といたしまして、「イルファーン」の歴史的最初期を代表する一人の傑出したスーフィー、アイヌ・ル・コザート・ハマダーニー(Ain al-Qudat Hamadani)の意味多層構造理論について簡単にお話してみたいと存じます。
このスーフィーは、在世一〇九八年から一一三一年までのイラン人であります。前に名を挙げましたハッラージ、「我こそは絶対者」という言葉を吐いたハッラージと同じく神に対する冒涜の罪を問われまして、三十三歳の若さで故郷ハマダーンの刑場で想像を絶する拷問を受けたのちに殺害された悲劇の主人公であります。
ハマダーニーの思想について、先ず注目しなければならないことは、彼が人間の意識に二つの本質的に違う次元を区別するということであります。そしてこの意識の二階層構造モデルに従って、彼は存在世界にも二つの異なる次元を認めます。
と申しましても、この問題についてのハマダーニーの思想はなかなか複雑でありますし、まだ彼の著書が全部出版されておりませんような次第で、あまり詳しいことは申し上げられません。とにかく説明の都合上、極端に単純化して、この二つの区別を意識・存在の構造モデルに仕立ててみますと、意識に表層と深層とがある。それに応じて存在にも表層と深層があるということであります。』

まさにこの二つの次元が、「関係の意識」と「場の意識」になります。「表層の意識」は、社会と直接に結びついている意識です。つまりこれが人間が関係性を作り出す意識であり、文字通りの「関係の意識」となります。そして「深層の意識」は、人間の集合的な無意識へとつながる意識であり、地域ちいきの「大地の場」が保持している「意味エネルギー」とつながる意識であり、文字通りの「場の意識」となります。ですが、これらのコトバは、「二元相対」の概念ではなく、「超えて含む」概念であることに注意が必要です。つまり、「場の意識」は、「関係の意識」を「超えて含む」意識であります。


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『意識、存在の両方を通じて、彼はこのモデルの第一層、つまり表層のほうを「理性の領域」(taur al-'aql)と呼びます。理性といいましても、われわれのいわゆる理性だけでなくて、合理的、論理的思惟の基礎となる感覚、知覚の認識領域も含むのであります。
これに対して、第二層を彼は「理性の向う側の領域」(al taur wara'a al-'aql)と呼びます。理性の向う側、理性の彼方、というのは、要するに存在の形而上的秩序のことでありまして、イスラーム哲学のいわゆる「マラクート」(malakut)「天使的世界」に当ります。
ィスラーム哲学、特に「イルファーン」ではよく「天使的世界」を云々いたしますが、これは存在論的には日常的現象的事物の構成するエンピリカルな存在秩序の向う側、あるいはその根砥、に想定される根源的存在分節の秩序のことでありまして、意識静的にはそういう特殊な現象的存在秩序の世界に向かって、小の窓の開けた状態を意味します。
もっとも、こういう二つの領域を区別すること自体は、多くの人がやることでありまして、そこにさしたる独自性も認められませんが、この区別がハマダーニの言語理論にとって決定的な重要性を帯びてくるのは、哲学者たるものは、意識のこの二次元を・同・時・に・働かせていなければならない、したがって、二つの存在次元を・同・時・に・見ていなければならない、ということにハマダーニが思いいたる時点からであります。』

この文を読んだときに思ったのは、「二重写しの現実」に対する私の考え方に、酷似しているところです。これは以前ヌーソロジーの考え方に出会った時の印象とも似ています。世界を二重写しに同時に見る。まさに、併存する「二つの意味体系」を、同時に使って、現実を見ようと試みる極意でもあります。人生に置ける「理性(物質)的な部分」と、「感性(意味)的な部分」を、全く別の「二つの物語」として、並行に見るのです。
そこに「開ける空間」は、とても楽しい現実を創り出してくれるのです。
これらは、ポケモンGOの様な、「無意味(人工的)」な、「虚無の二重写し」ではなく、「実在としての意味(大自然)」につながる、「進化の二重写し」なのです。


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『スーフィズム一般の術語で申しますと、哲学者は「複眼の士」(dhu 'aynayn)でなくてはならない。二つの目の人間。仏教では、例えば『般若心経』で「空即是色」などといいますが、要するに、「空」と「色」とを同時に見なければいけないということです。どちらか一方だけではない。「空」だけでもだめ。「色」だけでもない。また両方を一つずつ順々に、今は「空」を見ている、次は「色」を見るというのでも困る。両方同時に、---「空」を見ることが、そのまま「色」を見ることであり、「色」を見ることが、そのまま「空」を見るような仕方で、「空」と「色」とを一緒に---見るということなのでありまして、今問題にしているスーフィズムの「複眼の士」も、まさにそういうことです。』

まさにこれらの文章は、私の通っている「座禅の会(龍門会)」の講義とも重ねて、嵐山一帯の空間全体から、ワタシに向って「空間共鳴」してくる、「虚空蔵のエネルギー」の発現をも感じさせます。そうそう、嵐山には、「法輪寺」と呼ばれる、「虚空蔵菩薩」を祭ったお寺もありましたね。この般若心経の「色即是空」「空即是色」の言葉には、この本に込められたイスラームの意識(意味)エネルギーが共鳴しています。これらの現象の発現の真実も、「複眼の士」としての生き方の上に成り立っているのです。


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『もちろんスーフィーにとって存在の根源的あり方は、メタフィジカルな次元にあるのでありまして、エンピリカルな現象的次元はそれが著しく歪んだ、変形した姿でしか現われておりません。それはたしかにそうですけれども、歪んだ形も要するにメタフィジカルな実在そのものの一つの必然的な現象形態なのであって、それを切り捨ててしまっては、存在の深層は捉えられない。二つの意味分節の次元が重なって二重写しになってはじめて存在の深層が如実に捉えられるという考え方であります。』

このメタフィジカルな次元とは、「場」と呼ばれる空間の方向性が指し示す、「文化」と呼ばれる表現形態の「意味的深域(神域)」であると私は考えています。これらは、現実と呼ばれる領域にあっては、二重写し(意識と無意識)となって反映されています。


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『ですから、ハマダーニーにとって哲学者は常に必ずあらゆるもの、あらゆる事態、つまり全存在世界、を二重に、あるいはもっと正確には多重的に見ていくということにな ります。そしてこのことが、ハマダーニーの場合、一つのきわめて特徴ある言語哲学の成立に導いていくのです。
元来、ハマダーニーは言語を非常に重要視する思想家であります。二つの存在次元の区別などと申しましても、彼の考えでは、コトバを離れて存在次元が成立するわけではない。要するに二つの存在次元、二つの存在領域とは、二つの意味次元、二つの意味の世界なのであります。』

つまり、「二つの意味の世界」とは、「二つの意識世界」であって、それぞれの世界は、それぞれの法則性で完結していると考えるのです。


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『スーフィーは、前に申しましたように、特殊な実存体験によって、己れの意識に二つの異なる機能次元があり、それに応じて存在が二つの本源的に異なる次元として現われてくるということを親しく知っております。そしてその全体に言語が密接にかかわっている。とすれば、言語が意味論的に非常に特殊な、特異な構造を持つと考えるのは当然でなければなりません。』

つまり、いわゆる「密教の真言」や「ヌーソロジーのシリウス言語」もそうなのですが、本源的に異なる次元で機能する表現なのだと思うのです。「関係の意識」と「場の意識」の言葉も、それぞれが、人間の表層次元の表現と、次元の階層を包含する表現を表したコトバなのだと思います。


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『その構造をアイヌ・ル・コザート・ハマダニーは「タシャープフ」(tashabuh)という言葉で表わします。「タシャープフ」というのは、字義どおりには「不定性、不安定性、不決定性、曖昧性、動揺性」などを意味します。術語としては要するに「多義性」ということですが、それが非常に特殊な意味での多義性なのです。
普通、常識的にコトバの多義性と申しますと、例えばアラビア語の「アイン」(ain)という語には驚くほどたくさんの違った意味がある。いちばん初めに出てくるのは「目」という意味。それから「泉」、「水源」、それから「金貨」。次に母だけ同じで父が違う「兄弟」。さらに哲学では、「本質」、「リアリティ」、「具体性」など、いろいろ違った意
味を表わす。そういうのを多義性といいます。
ところが、ハマダーニーの考えている多義性はこれとは全然性質を異にする多義性です。「アイン」のような場合は、今申しましたようなたくさんの意味がありますが、それは、これらの多数の意味が、いわば同一平面上に水平に並んでいるということに過ぎません。ハマダーニー的にいいますと、これは意識と存在の第一層。つまり「理性の領域」に成立する多義性であります。』

まさにこれが、「関係の意識」の意味となります。


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『これに反してハマダーニーが構想している多義性は垂直的多義性です。つまり同じ一つの語が「理性の領域」と「理性の向う側の領域」という二つの存在次元、あるいは意味次元---本当はもっとたくさんの次元があるのですが、仮に便宜上二つとしますと---をタテに貫くことによって成立する二層的多義性なのです。もちろん、二つ以上の意味次元を認めるなら、多層的多義性ということになります。』

これが、そう、この「方向性」が、「場の意識」となるのです。


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『いずれにしても、このように垂直的な重層構造をもっていますので、一つ一つの語の意味は、ハマダーニーにとっては、常識では考えられないような深みを示します。しかもこの場合、深みとは広さでもあるのです。なぜならば、スーフィーの内的体験の示唆する方向にコトバの喚起する意味の重層性を、いわば深みへ、深みへと追っていきますと、それにつれて、日常的、あるいは概念的にコード化されて成立している意味の限界線が次第に薄れ消えて、最後には茫洋たる無限定性の極限にかぎりなく近づいていくからであります。
こうして開けてくる無限化された、あるいはかぎりなく無限化に近づいていく、意味の世界が、あまりにも深く、あまりにも広いので、もともとそれを表わすはずだった記号の手に負えなくなってしまう。つまり語と意味とのあいだのプロポーションが壊れてしう。
現代の記号論者たちが好んで使うソシュール言語学の術語で申しますと、ソシュールにおいては、元来、一枚の紙の裏表のように密接不離と考えられていた「シニフイアン」(signifiant)と「シニフイエ」(signifie)、「能記」と「所記」、つまり言語記号の音声聴覚的側面と意味表象的側面とが分離して、両者のあいだに大きなギャップが現われてくるとでも言ったらいいだろうと思います。』

「場の意識」とは、これら次元水平的な関係性を超えて、意味の深みへと、多層的な共鳴関係を創り出す、意識と言えると思います。そして「関係の意識」とのギャップが、深まれば深まるほど、「言葉の形骸化」が進んでゆくのです。今日でも、多くの仏教用語が、日常生活の中にありますが、その殆どが、「関係の意識」に還元された抜け殻の言葉となってしまっています。
その一つの例として、「妄想」という言葉があります。「関係の意識」から見た「妄想」は、現実から逃避する、個人の空想物語を意味します。ですが、「場の意識」の「妄想」は、もっと普遍的な、「意味エネルギー」の「場」を意味します。


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『つまり、スーフィー的体験の深まりとともに、意味のほうがいわば勝手にずんずん広がり深まっていってしまうので、音声的記号のほうはそれについていけない。音声的記号は社会的にコード化された表面の意味、表層的意味と結びついたままあとに取り残されてしまうというわけであります。
このように「シニフイアン」と「シニフイエ」のあいだに大きな裂け目を開いた上で、ハマダーニーは「シニフイアン」に対する「シニフイエ」の圧倒的な優越性を説くのです。』

つまりこの、「シニフイアン」と「シニフイエ」の関係が、「関係の意識」と「場の意識」の関係となるのです。


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『 つまり、「シーニュ」 のソシュール的記号式に即していうなら、小文字のs、つまり「シニフィエ」が無限に深まり、無限大に拡がってくる。だから大文字のS、「シニフィアン」 のほうは取り残されてしまう。そこでバランスがとれなくなってバラバラになってしまうということです。
とにかくハマダーニーのようなスーフィーの意識においては、「シニフィアン」と 「シニフィエ」、簡単にいえば音と意味、とのあいだには決定的なアンバランスがあるのでありまして、一方に音声表象があり、他方にはそれに対応する意味表象があって、つまり音と意味があって、二つがまるで、さっき言いました一枚の紙の裏表のようにぴったり重なり合い、照合しているというような状態ではありえない。そうではなくて、言語記号の「シニフィアン」的側面、音的側面、の向う側には、「シニフィエ」が、つまり意味が、不断に流動するーつの広大で深遠な意味世界、立体的多層的意味空間として拡がっていると考えるのであります。』

そう、この広大な空間を意識化(概念化)することで、「場の意識」がそれ自体として、活動を開始するのです。そしてその覚醒のキーとなるのが、「関係の意識」と「場の意識」なるコトバであると考えます。まさに、イスラームの知恵の顕在化でもあります。地球の要所ようしょには「言語文化」と呼ばれる「意識エネルギー」の発露があります。これら全ての文化(人間の外面)性を、自国の言語に外来語(音声表象)として統括し、人類に「覚醒進化(真実の意味表象への統合)」を生み出す役割が「日本語文化」にあると考えています。

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