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意味分節理論と空海(その七)

ここ日本には、「文科系」と呼ばれる価値観がありますが、私はむかし、この価値観を、全く理解できませんでした。「客観的事実ではない人間が気まぐれに作った価値観」を、真実として認められなかったのです。よって、得意な勉強は科学や数学であり、大学も、コテコテの物理学を専攻したのです。ですが、ある時そこに疑問が生じました。科学とは、決まった出来事を決まった様に理解するだけで、「それ以上でも、それ以下でもない」のではないかと。のちにそれが、「決定論」と呼ばれる考え方であることを知りましたが、その当時の私の理解では、認識しきれなかったのです。専門科目で「量子力学」を学び、そうでない世界があることも知りましたが、数学でしか記述できない内容のあまりの難解さに、挫折することとなります。ですが、「文科系」の価値観を認めることにもならず、どんどんと追い詰められて行ったのです。そんな具合ですから就職も真剣にはなれません。とある製造業の会社に就職し、特技の「論理的思考」を生かした、機械制御のソフト業務をないりわいとするようになったのです。
さて、それでは何故、今こんなことを書いているのか。。。

それでは引き続き、「井筒俊彦」先生の著作である「意味の深みへ」から、「意味分節理論と空海」の章のつづきです。

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『とまれ、「法身説法」の言語哲学的解明はこの小論の最終的主題であって、後に詳説することになるので、さしあたりここでは、日常的言語のレベルにおける意味分節理論の、もうひとつの重要な側面に触れておきたい。』

「法身説法」は、コトバが自らを展開させるコミュニケーションのスタイルですが、今風に言えば、チャネリングと呼ばれる現象でしょうか。これらは、空間との対話を意味し、欧米的にはアカシックエネルギーとも呼ばれています。日本の歴史を振り返ると、「秦氏」と呼ばれる氏族が信仰していたエネルギーでもあります。秦氏の聖地である「嵐山」にも、法輪寺と呼ばれる仏閣がありますが、「虚空蔵菩薩(胎蔵界曼荼羅)」を祭っています。日本的には、虚空蔵菩薩と呼ばれる「存在者」として、欧米的には、アカシックレコード(虚空蔵院)と呼ばれる「空間構造」として受け入れられているのが面白いですね。
これらも、日本的な「場の意識」の文化からは「関係(存在者)」として受け入れられ、欧米的な「関係の意識」の文化からは「場(空間構造)」として受け入れられたと言うことでしょうか。


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『西洋の言語学の意味論的発展過程において、意味分節理論がそれほど長い歴史をもたないということは前に書いた。長い歴史をもたないばかりではない。あまり有力な思想潮流でもないのだ。この理論が少し極端な形で主張されるたびに、学界はそれに疑いの目を向けてきた。ということは、つまり、「存在はコトバである」という命題を無条件で真理と認めるのに、大抵の人は躊躇するということだ。なぜそうなのか。
いろいろな原因が考えられるだろうが、なんといっても決定的な原因は、従来の言語学が一般的に、コトバの表層領域を考察の主たる対象としてきたというところにあると思う。コトバの表層領域とは、言語の社会約定的記号コードとしての側面----無論、それに基づいてなされる人間相互間のコミュニケーション、つまり発話行為も含めて----ということ。このような偏向性における言語論は、必然的に、コトバにたいする水平的なアプローチとなり、人間の言語意識を、いわば深みに向かって掘り下げていく垂直的なアプローチはほとんど完全に無視される。フロイト派の深層心理学の特殊分野におけるラカンの言語論とか、近年のクリステーヴァの「ル・セミオティーク」の如き注目すべき例外はあるにしても、西洋の言語学の圧倒的大勢は、言語にたいして、いま言ったような意味でのホリゾンタルなアプローチによって特徴づけられる。チョムスキーの語る「深層構造」にしても、深層とはいうものの、それは実はデカルト的な普遍的理念構造を指定するだけであって、依然としてホリゾンタルなアプローチであることに変りはない。』

これこそが、無意識の中に生ずる「関係の意識」のエネルギー作用であって、それ以外の何物でもないと考えるのです。よって、欧米的文化は、「関係の意識」文化であり、その優位性自体が、現実主義的(ホリゾンタル)なアプローチに終始してしまうのです。科学的合理性は、まさに「関係の意識」の文化の金字塔ともいえる「文化的表現」であるともいえます。


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『およそこのような立場を取る人たちにとっては、コトバがものを生み出す、コトバから存在世界が現出する、存在はもともとコトバなのである、というようなことはとうてい考えられない。やはり、なんといっても、先ず世界があり、世界のなかにいろいろなものがあり、それらのものが互いに関係し合い、互いに働きかけ働きかけられる、それをコトバが外側から・な・ぞ・っ・て・い・く・、ということになってしまう。コトバが意味を通じて存在世界を生み出すということ、すなわち語的意味の存在喚起機能などというものは、この立場では考えようがない。コトバの存在生産機能の真相を理解するためには、どうしても、コトバが人間の深層意識、あるいは下意識的領域に根源的な形で関わってくるところまで、いわば垂直に降りていって、そこに働く意味生成のエネルギーの現場を捉える、そういうところから考えなおさなくてほならないのである。』

まさに、この「コトバが人間の深層意識、あるいは下意識的領域に根源的な形で関わってくるところまで、いわば垂直に降りていって、そこに働く意味生成のエネルギーの現場」というのが、「人間存在から見た存在の場」と呼ばれる領域であって、「場の意識」は、まさにそこに意識のフォーカスを合わせるのです。


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『現代の言語学者は、社会的記号コードとしての言語の対立項というと、すぐ発話行為(パロール)を考えるのを常とする。ラングとパロールとは相関的、相補的概念だ。しかし本当は、ラングとパロールとをそのまま表面的に並べる前に、ラングの底に伏在する深層意味領域というものを考えなければならない。そうしてこそ、はじめて、いわゆる意識の「太古」の薄くらがりのなかから立ち現われてくるパロールの創造性の秘密も理解できるのではないか、と私は思う。』

まったくもって同感です。ラングとパロールとは相関的、相補的概念に違いないのですが、それぞれの中にそれぞれを含む、「場」と「関係」の「関係の意識」の中の「場」となってしまい、本当の意味での「場」つまり、「場の意識」による「場」と「関係」からは、反れてしまっているのです。


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『ソシュール以来の言語学----より一般的には記号学----では、すべて記号なるものは、音声表象(シニフイアン、能記)と意味表象(シニフイエ、所記)の二面統合体として措定される。この学問では、これはごく初歩的な常識だが、深層的意味エネルギーの問題に関連して私が特に、ここで指摘しておきたいことは、シニフイアンとシニフイエとの間に、時として著しい形で看取される不均衡性である。事実、古来多くの人々----わけても人いちばい感受性の鋭敏な詩人、宗教家、神秘家など----が、この不均衡性を実体験してきた。さし当って、本論のこの個所で、いま問題になるのは、シニフィアンの側に起こる異常体験(それについては後述)ではなくて、シニフィエの側に起こる異常事態、すなわち、人がよく、コトバの意味的側面に感知する底知れぬ深淵のごときもののことである。ルドルフ・オットーなら、きっと「ヌミノーゼ的なもの」と言うだろう。身の毛もよだつばかり恐ろしく、しかも抗い難いカで人を魅惑するもの、要するに、意味体験のかぎりなき深み、ということだ。このような意味体験が生起する、あるいは生起し得る内的な場所を、構造モデル的に、言語意識の深層領域として措定するのである。』

この「身の毛もよだつばかり恐ろしく、しかも抗い難いカで人を魅惑するもの」は、ある種、「性的エネルギー」もその一種ではないかと思います。これは、「言語意識の深層領域」からは、少しずれていると思われるかも知れませんが、「森羅万象」と呼ばれる言語意識の深層には、これがあるように思えるのです。


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『勿論、いま言ったような事態は、深層意味体験としても極端な場合だが、これほど特殊でない形でならば、本当は誰の言語意識にも起こっている。ただ、違いは、それをはっきり自覚しているか、気づかずにいるか、それとも、気づいてもさして重要なこととは感じないか、というだけのことだ。
もともと我々の言語意識の表層領域は、いわば社会的に登録ずみの既成のコトバの完全な支配下にある。そして既成のコトバには既成の意味が結びついている。既成の意味によって分節された意識に映る世界が、すなわち我々の「現実」であり、我々はそういう「現実」の只中に、すこぶる散文的な生を生きている。』

まさに「森羅万象」と呼ばれるコトバにも、「場の意識」の神域があるのです。日本文化が育んだ、「南方熊楠」と呼ばれる逸材も「南方曼荼羅」と呼ばれる思想概念を通して、それを表現した一人だと思います。


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『しかし、いったん言語意識の深みに目がひらけて見ると、存在秩序は一変し、世界はまるで違った様相を示しはじめる。言語意識の深層領域には、既成の意味というようなものは一つもない。時々刻々に新しい世界がそこに開ける。言語意識の表面では、惰性的に固定されて動きのとれない既成の意味であったものでさえ、ここでは概念性の留金を抜かれて浮遊状態となり、まるで一瞬一瞬に形姿を変えるアミーバーのように伸び縮みして、境界線の大きさと形を変えながら微妙に移り動く意味エネルギーの力動的ゲシュタルトとして現われてくる。』

まさに、「南方曼荼羅」を生み出した、「南方熊楠」の粘菌研究は、「意味エネルギーの力動的ゲシュタルト」を意識し出した切っ掛けを作ったのかも知れません。彼が提唱する「物不思議」「心不思議」「事不思議」「理不思議」そして「大日如来の大不思議」は、それぞれが、「物質科学」「心理学」「関係の意識」「場の意識」「森羅万象」の意味エネルギーを、指している様にも思えてきます。


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『言語意識の表層領域で、例えば、「山」といえば、ごく普通の、平均的な、ありきたりの山しか意味しない。それは概念的輪郭線のなかに惰性的に固定されていて、なかなか動こうとはしない。強いて動かすためには、何か特別の修辞学的操作を必要とするほどだ。ところが深層領域では、それはもう山という固定したものではない。そこには、遊動的で、不断に姿を変えてやまぬダイナミックな意味エネルギーの流れが、なんとなく山という意味、あるいは漫然と山的なもの、山らしきものに向かって焦点をきめようとしている、とでもいうような意味生成の過程的状態が見られるだけである。』

そう、先ほど触れた「人間存在から見た存在の場」こそが、この「山らしきものに向かって焦点をきめようとしている」「場の意識」自体の営みの場所だと考えるのです。これらは、「文科系」的思考の産物でもあり、「理科系」的思考の産物でもあります。ですが、これらの「言葉の概念」のない欧米では、深めることが難しい領域とも言えそうです。

さてさて、またまた長くなりましたので。続きは次回に。。。

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