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意味分節理論と空海(その三)

最近はいろいろと特異なことが起こります。先日、「千賀一生」氏の「ガイアの法則Ⅱ」を読み返していまして、感慨深いものを感じました。以下は、その部分からの抜粋です。

『「この節目に対外的に積極的になりすぎた場合、多くの摩擦を後々生ずることになる。その影響は多大なものとなる。今後も、この節目にはあなた方は気を配る必要がある。」

私は未来におけるこのタイミングがいつなのかを考えた。

1941(1940)年+72年、2012年から2013年だ。この時期に何かが起こるとしたら、このタイミングでも私たちは、あまり対外的に積極的になりすぎないほうがいいということになるはずだ。

「前文明から新文明への転換期と重なり合うこの節目においては、これらのタイミングは、前文明とあなた方との接点となりやすい節目なのだ」
たしかにそうだ。

明治維新はそれまで接点の薄かった欧米文明との接点を結び、それを取り入れてゆく最初であった。それから72年後の太平洋戦争はその欧米文明の頂点を極めた米英にたち向かおうとした開始点でもある。・・・』

たしか、東京オリンピックの招致が決まったのが、2012年~2013年だったと思います。これは、旧文明(欧米文化)との「交差」が発生しやすいサイクルにあたり、その積極的な行為自体が、後々日本に多大な影響を及ぼすのだそうです。

ウーム。。。。・た・し・か・に・。

これも共時的(意味共鳴的)な「場のエネルギー」の影響に思えますねえ。。。。。

それでは以下は、前回に引き続き、「井筒俊彦」先生の著作である「意味の深みへ」から、「意味分節理論と空海」の章のつづきです。

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『本論の表題そのものによって明示されているとおり、私がここで理論的にと言うのは、より具体的には、意味分節理論の観点から、ということである。すなわち、真言密教の言語哲学を、現代的な思惟の次元に移して展開するために、私はそれを意味分節理論的に基礎づけることから始める。

そして、この目的のために、その第一歩として、先ずコトバに関する真言密教の思想の中核を、「存在はコトバである」という一つの根源命題に還元する。

「存在はコトバである」。

あらゆる存在者、あらゆるものがコトバである、つまり存在は存在性そのものにおいて根源的にコトバ的である、ということをこの命題は意味する。

一見して明らかなように、こういう命題の形に還元された真言密教は、もはや密教的ではない。宗教的ですらない。

「真言」という観念を、一切の密教的、宗教的色づけを離れて、純粋に哲学的、あるいは存在論的な一般命題として提示するにすぎない。

そのような純粋に哲学的な思惟のレベルに移置しておいて、その上で「真言」(まことのコトバ)ということの意味を考えなおしてみようというのである。』

「存在はコトバである」。。。

この命題は、とても深い洞察を含んで見えます。

確かに「目に見える全ての存在」は、言葉で表現できます。

それは、人間の「表層的な意識」が対象として認知しているものだからとも言えます。

つまり、人間の「あらゆる関係性」は、必ずそれに対応する言葉があるのです。

これは、目に見えるか、見えないかに係わらず、存在していることが解ります。例えば、社会通念的な「資本主義」と言う言葉があります。

これはある意味で目に見えませんが存在しています。

これは人間が社会の中で創り出した制度としての概念です。

しごく自明のことですが、「存在はコトバである」との「反転した論旨(逆説的表現)」から言うと、コトバが「意味エネルギー」を帯びること自体が、存在であるとも言えそうです。

ですがよーく考えてみてください。

ここに関わる「反転」とは、いかなる「形態」なのかと。

そこに隠されている「次元的超越(奥行き)」に着目してみて下さい。

コトバを接点とした、「表層的な意味」の側と、「深層的な意味エネルギー」の側に、別れている事に気づくと思います。

もし仮に、今まで存在し得なかった「次元的な共鳴関係」が、存在しているとするなら、この新たなコトバが起点となって、意味化が始まっていることが考えられます。

始めて「バトカンケイ(場と関係)」のコトバが脳裏に浮かんで来た時には、そんな大それたことを、考えもしませんでしたが、埼玉県の深谷市のアパートから紆余曲折を経て、京都市にある秦氏の聖地(桂、太秦、嵯峨嵐山一帯)へと誘われた「奇跡的な偶然」の連続が、「ただの妄想以上の現実感」を伴って、私に向かって物語るのです。


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『だが、それにしても、「存在はコトバである」というこの命題は、具体的には一体どんな事態を言い表わそうとしているのだろうか。

始めから無意味な戯言として一笑に付してしまうなら話は別だが、いやしくもこの命題はなんらかの真理を言い表わしているはずだという有意味性の仮定の上に立って、それでは、その真理は何であろうかと考えようとすると、たちまち困難にぶつかってしまう。少なくとも常識的には、そういうことになるのだ。

元来、常識では、存在とコトバとの関係をこんなふうには考えていない。

コトバと存在とは、それぞれ独立の観念系統をなしているのであって、両者の間にはせいぜい相応関係が成立するにすぎない。

存在が、即、コトバである、つまり、この経験世界に存在するありとあらゆる事物事象、いわゆる森羅万象、がことごとく、本当はコトバなのであるなどと考えるのは、完全に非常識である。

そればかりではない。存在とコトバとの間に対応関係があるにしても、常識的存在論、 常識的認識論の立場から見るなら、両者の間には、順位上の・ずれ・がある。

というのは、存在、つまり・もの・が、どうしてもコトバに先行すると考えざるを得ないからだ。先ず・もの・がある、それをコトバが命名する、あるいは指示する、のであって、その逆ではない。

そう考えるのが、我々の常識としては、ごく自然な考え方なのである。

ところが、いま、「存在はコトバである」という命題の立場は、まさにこの常識的見解の逆を主張する。つまり、コトバが存在に先行し、そういう順位で存在とコトバとの間に同定関係が成立する、というのだ。』

時間に拘束されない「永遠の方向性」があったとします。

その方向は基本的に「因果関係」が成立していません。

そこには明確な「次元の壁」があるからです。

そういった意味での、「存在とコトバの間の同定関係」は、「時空を超えた共時的(共鳴的)な関係」として、成立しています。


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『我々の普通の経験的事実としては、事物事象の世界、いわゆる存在世界、は客観的にそれ自体で独立して、我々の目前にひろがっている。森羅万象は、第一次的には、コトバと関係なしに存立する。

それらを様々に名づけ、あるいは既成の名によって指示することは、事物事象の客観的存立そのものから見れば、人間の側の第二次的な操作にすぎない。常識的人間にとっては、それは疑いの余地のない事実である。

「存在はコトバである」という立場を取る非常識な人に言わせると、常識的人間のこのような「事実」は、存在の表層風景にすぎないのであって、事の真相(深層)はそれとは全く違う。

表層風景としては、たしかにそれ自体で自立的にそこにあるかのように存在世界が現象している。しかしそれは、実は、全体としても、またそれを構成する個々の事物としても、すべて根源的にコトバ的性質のもの、コトバを源泉とし、コトバによって喚起され定立されたもの、つまり簡単に言えば「コトバである」のだ、という。

明らかに常識に反するこのような主張を、どう了解したらいいのか。

この問題を考究することは、我々を意味分節理論の領域に導き入れる。

そして、それを通じて、真言密教の言語哲学の中核に、我々は近づく。

このように真言密教の言語哲学を、意味分節理論との関連において理解しようとするのであるからには、まず何を措いても意味分節理論なるものを略述するのが順序であろうが、しかしそれに先立って、真言密教そのものの側に、ちょっと考えておかなければならないことがある。

それは、真言密教が本来的、第一義的に問題とするコトバというものが、我々の普通に理解している言語とは違って、いわばそれを一段高いレベルに移したもの、つまり異次元の言語であるということである。』

確かに「事実」と「言葉」の間には、「因果的な連関」が成立している様に見えますが、「コトバ」と「事実」の間には、「因果的連関」が成立して見えません。

それは、事実を理解する上で、「共鳴的(共時的)」に成り立っています。

人が物語を読むとき、或いは、事実関係を他者から説明されるとき、その物語が、心を通して、脳裏に共鳴的(共感的)に響きます。

そして、「心」が「コトバ(音)」から感じ取るのは、事実と言うよりも、「意味そのもの」であるはずです。

そして更に、真言密教が指し示す「コトバ(真言)」というものは、「関係の意識」が交換する「言葉」ではなく、「場の意識」が感知する「コトバ」であるとも考えられます。

これらの観念と似たものとして、数学の「複素数」があります。

元来実在しない「<Xの二乗>=-1」を、虚数<i>として定義(想定)し、<*X=iX>と表現します。

そこに開けた概念(次元的な概念)は、物理(物質)の世界に、新たな可能性(核エネルギー技術への道)を開きました。


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