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「場の意識」の体験について7

先週末は、仕事上の大きな出張を控えていたり、少々思いに反した出来事があったりして余裕がなく、書き込むことが出来ませんでした。
以下は、この本(秋月龍珉氏著「禅仏教とは何か」)の情報補完の最終回となります。

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『道元禅師は、「[仏法は]瑞坐参禅を正門となす」と言うのである。しかし「坐禅」は何も、脚を組んで坐ることだけを意味しない。そういう「する時の坐禅」のほかに、いわゆる「せぬ時の坐禅」(至道無難禅師の語)が大切である。白隠のいう「静中の工夫」に対する「動中の工夫」である。後者は前者に百千万倍する。これは白隠禅師が常に強く主張したところである。』

「静中の工夫」が「座禅」だとすると、「動中の工夫」とは一体何でしょうか。一般に「合気の業(合気道)」のことを「動く禅」と言いますが、この事なのでしょうか。

私が目の前に見た「合気の技」は、確かに素晴らしいものでした。まさに「気」を操って、丹田を落とすことで繰り出される技の数々は、目を見張るものがありました。

高齢で華奢な達人の足の指一本で、巨漢の動きが封じられる様子を目前にしました。

この様に、「自他不二の境地」の技に達した人間の現実を、実際に見ることが可能です。

現に私の横で、この「合気の技」を見て居たのは、若き禅僧らしき人物だったのを今でも思い出します。


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『「因果一如」というのは、ここでは”原因”である「衆生」と”結果”である「仏」が「一如」だということである。これを「生仏一如」という。道元のいわゆる「修証一等」である。そこから「一」に対して、「無二無三」の道が真っ直だという。歌人斎藤茂吉のいう「あかあかと一本の道通りたりたまきわるわがいのちなりけり」である。』

「因果一如」の因果とは、原因と結果の法則、つまり因果律の事なのでしょうか。

ここでは、「衆生」が原因で「仏」が結果とありますが、そうなのでしょうか。

私にはそこに、「原因と結果の関係」があるとは、到底思えないのです。

もちろんこれは、日本語が持つ特質であり、「関係の意識」の因果と「場の意識」の因果が、違う意味の言葉であることを前提とします。

「生仏一如」も「場の意識」から見た、永遠性を希求する境地であって、「修証一等」と同様に、「分離」を「一如」と断じる「意識の境地」なのです。

「心」を「肉体(脳)」の産物とする意識からは、とうてい見えない位置にあるのです。

「因果一如」とは、まさに「あかあかと一本の道通りたりたまきわるわがいのちなりけり」、則ち、”一本の道が、あかあかとほとばしる自らの魂の光に照らし出されて極り、眼前に浮かび上がる様”を示しているのです。


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『「生仏一如」は、また道元の強い主張とも一つである。衆生が修行して悟って仏に成るのではなく、本来仏として凡夫の思議を絶した「妙」なる修行を生きる(威儀即仏法、作法是れ宗旨)のである。仏であることである。盤珪禅師もまた言う、「仏に成ろうとしようより、仏でおるが近道でござるわいの」。』

まさに、「仏様」になろうとしても、「一生」無理なのです。「多生」でも無理なのです。

逆説的ですが、「気付き」が得られた「今」だからこそ可能なのです。まさに、「分離」された「原因」も「結果」もない、永遠へと繋がった「場の意識」の「シンギュラーポイント」、つまり、唯一「我を思う心」を通して、可能なのです。

本来仏として凡夫の思議を絶した「妙」なる修行を生きる(威儀即仏法、作法是れ宗旨)なのです。

盤珪禅師の言う、「仏に成ろうとしようより、仏でおるが近道でござるわいの」なのです。

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『ただ道元禅師と白隠禅師の違いは、白隠が「因果一如の門ひらけ」と言っているところにある。白隠のばあいは、「直に自性を証して」「因果一如の門」が「ひらけ」るのだと、あくまで「直証自性」を強調するのである。いわゆる「見性」の強調である。これに対して、道元禅師は「見性」という語があるだけで、『六祖壇経』は「偽書だと言うほどに「見性」ということを嫌った。』

道元禅師と白隠禅師の違いは、白隠が「直証自性」、つまりは「直に自性(我思うゆえに我あり)を証して」「場の意識」が「ひらけ」るのだと、あくまで「直証自性」を強調するのに対して、道元禅師は「見性」という状態があるだけで、『六祖壇経』は「偽書だと言うほどに「見性」という言葉を嫌ったという事です。

つまりは、白隠禅師が「場の意識」の事象を何とか「関係の意識」の言葉で語ろうとしているのに対して、道元禅師は、それを率直に、「関係の意識」の言葉では表現しきれないと強調しているに過ぎないのです。

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『それはいわば「悟る」という動詞的表現の否定である。しかし、道元禅師は、けっして「悟り」という名詞的表現を否定したのではない。このことは禅師が「般若を尊重するが故に」という経典の語を重視して、何度も引用していることでも分かる。道元禅師は、けっして「悟り」という名詞的表現を否定したのではない。このことは禅師が「般若を尊重するが故に」という経典の語を重視して、何度も引用していることでも分かる。』

つまりそこに、「場の意識」の「シンギュラーポイント」の「矛盾」が隠れているのです。

「悟る」という動詞的表現は、「因果」を「時間の概念」で表現した、「関係の意識」の観点なのです。

「悟り」という名詞的表現は、「因果」の概念が持つ「分離」を超えた、「状態(場)」自体の表現、つまりは「場の意識」の観点なのです。


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『道元禅師は「衆生が悟って仏に成る」という言い方をせず、「本来仏として妙修する」という、いわば「仏である」あり方を強調したのである。』

つまりそういう訳です。

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『そこで本来仏として、「只管打坐」と言う。しかし、いくら「坐禅は身心脱落だ」「只管だ」と言っても、それは観念だけで、現実には「衆生が」妄想煩悩で坐禅しているのでは、何もならない。だから、やはり「直に自性を証して」「自性即無性」と自覚しなければ、ほんとうの「只管」行にはならない、「仏作仏行」にはならないというのが、白隠禅師の主張である。』

つまり白隠禅師の主張は、デカルトの「我思うゆえに我あり」と同じことを語っているのです。

時期的には90年ほどデカルトの方が先ですが、情報交流があった訳でもなく、共通の文脈の中から同じ結論に至った、「合理精神の人」であったのでしょう。もちろん、仏教とキリスト教では、越えがたい文化の違いがありますが、その究極には、共通の文脈があるのです。

現実には、観念だけの妄想煩悩の坐禅では到達できず、やはり「直に自性を証して」「自性即無性」と自覚しなければ、ほんとうの「只管」行にはならないのです。

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『だから、私は、道元禅師の主張が「正伝の仏法」そのものの道破であることを疑わないものであるが、にもかかわらず現実の修行の上では、やはり白隠禅師の「直証自性」の主張が大切だと信じている。』

私も、道元禅師の主張が「正伝の仏法」そのものの道破であることを疑いません。

それは、「場の意識」の立場を強調するか、「関係の意識」の立場を強調するかの違いであって、この世界そのものの「分離の性質」を無意識に代弁してるのに過ぎないのです。

話は大きくとびますが、アメリカの二大政党制(コンサバ/リベラル)の「分離(「場の意識(無意識主体)」と「関係の意識(意識主体)」)」と同じ理由によるのです。

にもかかわらず、現実の上では、やはり白隠禅師の「直証自性」の主張が大切だと、私も考えます。

大切なのは、「希求する真摯な心」による「方向性の維持」と、この世界の合理的思考の極りが、「臨界点にまで力動」することが肝要なのです。

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『白隠は歌う、「無相の相」を「相」として、「無念の念」を「念」として、「そこからそこへ」と「本証の妙修」を現実に生きるのだと。そのとき、「無我の我」の、「無心の心」の「仏」(本来の自己)が「本証」を「妙修し」、そこに「三昧無基礎」の広い空に「四智円明」の月が冴え輝くと。』

まさに、私の体験からも、この矛盾した「意識の自覚」から始まるのです。つまりこれが、「場の意識」と「関係の意識」のコトバで代弁されるのです。

「ほんとうのわたし」への目覚めとは、「本証」を「妙修し」、そこに「三昧無基礎」の広い空に「四智円明」の月が冴え輝く様な、明確な「分離の意識化」にあるのです。

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如何でしょうか。

この「境地の感覚」を言葉だけでお伝えすることは出来ませんが、「出来事の意味」を「意識エネルギー」として捉えなおすことで、見えて来る「新たな世界」があるのです。

この世界は逆さまで、「意識エネルギー」こそが主体であって、「出来事への意味解釈」は、創造的な副産物に過ぎないのです。

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