見出し画像

意味分節理論と空海(その六)

前回「現実の身体を通した出来事に共鳴するかのように、空間全体から意味エネルギーが二重写しとなって、降り注いで(語り掛けて)きたのです。」と書きましたが、これらは、「ウエサク」のエネルギーを体現して感じられたのです。私はもともとスピリチュアルな人間ではなかったのですが、多くの偶然の出来事(嫁との出会いや職業の変遷、明晰夢の現実化など)を通して、ここ秦氏の聖地へと誘われ、すっかり感化されてしまいました。
さて、「井筒俊彦」先生の著作にも「現実は、人間の意識が妄想的に喚起し出した幻影」と書かれていましたが、これも誤解を招きやすい言い方に思います。私たちが住んでいるこの世界、つまり「関係の意識」で結び合う物質世界では、「事実」以外の何物でもないのですから。ただ闇雲に、「幻影なんだからこの世界はどうでも良い」と決め付けることも出来ないと思います。半面「欧米スピリチュアル」は、見た目の煌びやかさや崇高さを重視する傾向が強くあります。ある種「人間賛辞の華やかさ」に目が眩んで、本質を見失ってしまう可能性があるのです。一概に、これが悪いとは言いませんが、新たに始まる「文明の方向」とは、ズレてしまっている様に思えて仕方がないのです。これもまた「関係の意識」の文化である「欧米文化」の特質とも言えそうです。

それでは今回も引き続き、「井筒俊彦」先生の著作である「意味の深みへ」から、「意味分節理論と空海」の章のつづきです。

------↓
『このコンテクストで、特に「(妄想)分別」という表現が使われていることは注目に値する。「分別」----ふんべつ、ぶんべつ----は「分節」に通じる。つまり、今日我々が「分節」とか「意味分節」とか言っているものと、本質的にはまったく同じことを、この「分別」という言葉は意味しているのだ。しかも、仏教でも、「妄想分別」の源泉として、コトバの意味形象喚起作用を考えている。』

私が通っている天龍寺の座禅の会(龍門会)の講義でも、「妄想」と言うコトバを時おり耳にします。莫妄想(まくもうぞう)もその一つで、「妄想することなかれ」と説かれます。これは、その前提に「現実は、人間の意識が妄想的に喚起し出した幻影」と言う事があるようです。「妄想分別」における「コトバの意味形象喚起作用」を、「莫妄想」に当てはめて考察すると、多くの他者の言説による「意味喚起の幻影」に捕らわれて、思い悩むことは止めなさいと言われている様にも思えます。


------↓
『だが、一般に大乗仏教は、このような人間意識の意味分節的機能とそれの所産にたいして否定的態度をとる。「遍計所執」は勿論だが、「分別」にしても、ことさらに「妄想」の二字を付け加えて「妄想分別」などという表現を使うこと自体、否定的評価を露骨に表わしている。コトバの意味形象喚起作用に騙(たばか)られて、人間意識は様々な・もの・を作り出し、それらを客観的実在であると思いこむ。世のすべては、畢竟(ひっきょう)するに言語的妄想の所産、夢まぼろし、空しき虚構。それがすなわち、この世の儚さというものだ。』

「諸行無常」もそうですが、大乗仏教は何故、人間意識の意味分節的機能とそれの所産にたいして否定的態度をとるのでしょうか。おそらくここに、「関係の意識」と「場の意識」の間を変遷する「分離の作用(世俗化作用)」が働いているものと思われます。特に日本文化は、「場の意識」の文化である特質上、「自己否定的」に作用する事が考えられます。特にここ2000年間(20世紀以前)のパイシス(うお座)の時代の特質であると言えるのかも知れません。この「西洋占星術」と呼ばれる技術も、「意味エネルギー」と人間の「無意的な共鳴現象」と言えそうです。


------↓
『しかるに、同じ大乗仏教のなかにあって、真言密教だけは、例外的に、コトバの意味分節の所産である経験的世界の事物事象の実在性を、真正面から肯定する。なぜだろう。いうまでもなく、コトバにたいする見方が根本的に違うからだ。
真言密教は、顕教のように、コトバというものを、人間の社会生活的レベルで約定化した記号組織としての言語、すなわち、今日の言語学者が普通「言語」と呼んでいるものだけに限定しては考えない。前にも言ったように、それの彼方に、異次元のコトバの働きを見る。現象界の事物事象については、その現出の源泉がコトバの意味分節機能にあることを、真言密教も認めるのであって、この点に関するかぎり、顕教一般と変らない。しかし顕教と根本的に違うところは、現象界でそのように働くコトバの、そのまた源に、「法身説法」、すなわち形而上的次元に働く特殊な言語エネルギーとでもいうべきものを認めることだ。』

この「法身説法」は、空間そのものが、コトバ的な異次元の言語エネルギーを、発することを示します。これがまさしく、「空間共鳴現象」と呼んでいる出来事を指すと考えます。まさに、「場の意識」が意味共鳴的に感知する「本来の心の役割」であると思われます。これが空海さんが「明晰夢」を通して示してきた「真言の心柱」の正体であり、まさに、「消えてしまった心柱を取り戻す」ことを指すものと推察します。


------↓
『従って、密教的存在論では、我々の経験世界を構成する一切の事物事象は、いずれも経験的次元に働くコトバのなかに自己顕現する異次元のコトバ、絶対的根源語----宗教的用語で言えば大日如来のコトバ----の現象形態ということになる。
要するに、すべてのものは大日如来のコトバ、あるいは、根源的にコトバであるところの法身そのものの自己顕現、ということであって、そのかぎりにおいて現象的存在は最高度の実在性を保証されるのである。』

これらが、イデオロギーや宗教的教義と異なる点は、実際に体験して、誰にでも客観的に検証可能である点です。ただし注意すべきは、「出来事からの物語的な変換(解釈)」は、人それぞれ、千差万別であり、一つとして同じ体験ではないところです。やってくるのは、意味エネルギーであって、出来事への変換は、人それぞれの「場の意識」(意識の次元の到達点)に掛かっているからです。この「場の意識」に磨きをかければかけるほど、その変換の正確性が増すのですから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?