見出し画像

意味分節理論と空海(その十三)

私は現在、決して経済的に楽ではありませんが、家族にも、環境にも、職場にも恵まれ、そこそこ幸せに生活しています。

自分がなぜこんな「立ち位置」に至ることが出来たのか、未だに不思議に思っています。

「妄想」にしろ何にしろ、ここに書いて来たような「奇跡(思い込みにしろ)」を体験し、それは今も続いています。

たとえ「他人」からどの様に見られたとしても、「自分」の中では、明らかに「奇跡の実感」があるのです。

今思えば、「諦観」と思える体験がありました。

上司の執拗な嫌がらせに対して、諦めにも似た感情を抱いたのです。

人間は立場が作ると言いますが、そういった環境がそこにあったのです。

それは、嫌がらせをした上司にも言えて、組織に忠実であればあるほど、そのしわ寄せは、立場が弱い個人へと向かいます。

それは、致し方ないことだと思っても居ました。

ですが、そんな「理不尽」を受け入れることは、到底できなかったのです。

では一体どうしたのか、自分自身の中に籠城したのです。

ですが、ただ籠城するだけでは、単なる引き籠りです。

もう「完全に開き直って」外に向っては、後先を考えずに、出来る範囲で楽しく過ごしていたのです。

ですが、誰にも頼らずに、「心」は完全に籠城していたのです。

たとえ親が居ても役には立ちません。

親自体が、社会の構成員だからです。

一度相談した時などは、パワハラ上司の肩を持つ有様です。

理屈では解るので、諦めたのです。

ですが、納得はいきません。

「なぜ、個人が全ての不利益を背負わなければならないのか」納得がいかなかったのです。

この「矛盾した精神状態」は、いつしか「自分の心」を蝕んで行きました。

そして、激しい「心霊体験」を経て訪れたのが、「死の受け入れ」だったのです。ですがこれは、自殺を意味しませんでした。

何処かの誰かが喜ぶ「死の選択」なんて、自尊心が許しませんでした。

ただただ状況を冷静に観察し、諦めの境地で、「外からやって来る死」なら甘んじて受け入れる用意は出来ていたのです。

私は決して聖人君子ではありません。

どちらかと言うと、道徳心に欠けるかもしれません。

ですが自分で言うのもなんですが、何にでも真面目に取り組む性格も持っています。

今になって解るのですが、これらの「矛盾の問題」は、いくら「人間関係」にコミットしても、決して解決しないのです。

何らかの方法で、「場(意識エネルギー)」を変えて行くしかないのです。

そして、これらのジタバタを経て訪れたのが、地母神の「明晰夢体験」だったのです。

では、「死」とは何でしょうか。

多くの人々は、この設問を極端に嫌います。

私も決してこれを語るほど「死」を理解している訳ではありませんが、壮絶な「心霊現象」の体験は、僅かにその向こうの世界(ベールの向こうの世界)を思い起こさせました。

この体験は、ほぼ「睡眠」と「覚醒(起きているとの意味)」の狭間で起こります。

「霊的センス」のない私は、起きた状態で霊を見ることはありません(写真はたまに撮りますが)。

体験するのは、「半覚醒(変性意識ともいわれます)」の状態であり、「覚醒」の状態で見るそれは、「妖魔化した(正気をなくした)人間」だと思っています。

「物質」は「物質」以外の何物でもなく、「霊(意識)」は「霊」以外の何物でもありません。

それが「合理的」と言うものでしょう。

そこを橋渡しするのが「人間の心」の役割であり、そこに「人間の本質」である、「量や時間」を持たない「空間構造(量子<素粒子>の世界)」が、隠されているのです。

それでは引き続き、「井筒俊彦」先生の著作である「意味の深みへ」から、「意味分節理論と空海」の章のつづきです。


----↓
『ただ、ここで特に注意しなければならないのは、人が「口を開いて呼ぶ」ア字発声の構造的瞬間には、ア音はまだなんら特定の意味をもってはいないということ、言葉をかえていえば、まだ特定のシ二フィエと結ばれていない純粋シニフィアンだ、ということである。

この小論の始めの部分で私は、日常的言語の次元における人間の言語意識を表層領域と深層領域に分け、普通の人間の言語意識でも、深層領域ではシニフィアンとシニフィエ間の本来の均衡が破れてしまうということを指摘した。

すなわち、シニフィアンは表層領域で固定された元のままにとり残され、シニフイエだけが、独りで、どこまでも深くなり広くなっていく。』

そうですねえ、つまり意識の表層では、「関係の意識」が、「シニフィアン」を形作り、「場の意識」が、「意味エネルギー」の深層に向かって「シニフィエ」を形作ると言うことでしょうか。

「場の意識」は、人間の深層部分(高次元部分)に接続した意識ですから、直接的に自然とも結び付いています。

言葉をかえて言えば、人間が持っている意識の中で、「地球意識」と結びついた深層の部分とも言えます。

つまり「シニフイエだけが、独りで、どこまでも深くなり広くなって」行きます。


----↓
『もっとも、このレベルのコトバの深層でも、詩的言語の場合は、ローマン・ヤコブソンが強調しているように、シニフィアンが異常に突出するのが普通だけれど、より一般的には、シニフィアンが弱くシニフイエが強い。

ところが、現に話題としている異次元のコトバの極限状態においては、この関係が逆転して、シニフィエは稀薄化してゼロ度に達し、それに反比例して、シニフィアン、つまり音形象、の方が宇宙的な巨大なカ、となって現われてくる。

つまり、この極限的位層では、大日如来のコトバはアというただ一点に収約され、ただ一つの絶対シニフィアンになってしまうのである。』

私の「コトバ」の体験は、単音(ア音)にまでは根源(大日如来)的ではない「コトバ」なのではないのでしょうが。

つまり、何の意味だか解らない、「バ・ト・カ・ン・ケ・イ」がです。

私の「明晰夢」による感覚では、「胎蔵界曼荼羅」の「虚空蔵院」辺りではないかと推測しています。

まあ、これはあくまでも、その後に見た「夢のイメージ」に対する解釈です。

秦氏のお膝元の「嵐山法輪寺」は、「嵯峨の虚空蔵さん」と呼ばれ親しまれていますが、空海さんの弟子の道昌さんが、虚空蔵菩薩像を安置し、今の「法輪寺」と呼ばれる寺号を名乗るようになりました。

何のことだか解り難いでしょうが、これらの全てが「意味共鳴」しながら、不思議な「明晰夢のイメージ」とも繋がってきます。

これも後日、詳しく書きたいと思います。


----↓
『ア音に後からいろいろな意味をつけることは、勿論、できる。事実、真言密教の教学は、その史的発展のプロセスにおいて、度々そういう意味づけを試みてきた。例えば『大日経疏』(巻七)の一節は阿字に三義ありとしている。三義、すなわち、三つの根源的な意味がある、というのだ。

三つの根源的な意味とは、一に「(本)不生」、二に「空」、三に「有」。だが、この種の意味づけは、すべて後でなされた解釈学的テクスト「読み」であって、記号学のいうシニフィエとしての「意味」ではない。』

【記号学のいうシニフィエとしての「意味」】は、「関係の意識」による「正当な文脈」ですが、この【すべて後でなされた解釈学的テクスト「読み」】は、「場の意識」による「正当な文脈」に基づきます。つまり、日本的な真言密教の教学では、「場の意識」的な解釈が、正当な扱いを受けており、欧米的な記号学的な解釈は、文脈的にも邪道だったのです。

これが、「日本」と「欧米」それぞれの、大地が生み出す「文化的な位相の違い」なのです。


----↓
『「阿の声は阿の名を呼ぶ」。

いま私が問題としている極限的境位でのア音は、「阿の名」が呼び出される以前の純粋無雑な「阿の声」なのであって、この透明な自体性におけるア音は、既に「名」となったアとは、構造的に区別されなければならない。

アという「声」がアという「名」になってはじめて、そこに意味、すなわちシニフィエ考えることができるのである。

もっとも、密教的コンテクストにおけるア音は、それが「名」となってからでも、これがア音の意味であるという形で、一つの特定なシニフィエを指定することはできない。無限に解釈学的「読み」を許すような、不決定的なシニフィエがそこにあるというだけのことだ。』

ア音においては、「一つの特定なシニフィエを指定することはできない」が、「バトカンケイ」のコトバにおいては、「場と関係」と言う「名」の、一つの特定のシニフィエを指定することが出来ます。

つまり、極限的な「金剛界曼荼羅」の「大日如来」の次元では、【無限に解釈学的「読み」を許すような、不決定的なシニフィエ】しか存在していませんが、「胎蔵界曼荼羅」の「虚空蔵院」の次元では、「進化を指向するコトバ」として、機能するシニフィエが存在するのです。


----↓
『こうして真言密教の、あるいは空海の、構想する言語・存在論的世界展開のプロセスにおいては、未だなんらのシニフィエにも伴われない無辺無際の宇宙的ア音という絶対シニフイアンからすべてが始まる。

この絶対シニフイアンの出現とともにコトバが始まり、コトバが始まるまさにそのところに、意識と存在の原点が置かれる。

そして、この世界現出の末端的領域をなす人間の日常的言語意識は、それと同じプロセスを、人間的規模において繰り返す。すなわち、人がアーと発声する、その瞬間、まだ特定の意味は全然生起していない、しかし己れの口から出たこのア音を、己れの耳に聞くと同時に、そこに意識が起こり、それとともに存在が限りない可能的展開に向かって開けはじめるのだ。』

そう、「場の意識」のコトバである宇宙的ア音の始まりと共に、絶対シニフィアンのコトバが始まり、「意識と存在」の原点となります。

そして、「この世界現出の末端的領域をなす人間の日常的言語意識」は、「関係の意識」として、己れの耳に聞くと同時に、そこに「人間的な相対意識」が、芽生え始めたのです。

そしてその「可能的展開」は、「宇宙的な意識存在」エネルギーをして、聖書にある「地に満ちよ」といわしめたのだと思えてきています。


如何でしょうか。。。「量や時間」を持たない「空間構造」の世界が、垣間見えましたでしょうか。

それでは次回は、「井筒俊彦」先生の著作である「意味の深みへ」から、「意味分節理論と空海」の最終回です。

いいなと思ったら応援しよう!