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意味分節理論と空海(最終回)

この世界には、「次元水平軸」と「次元垂直軸」があります。私たちが一般に宇宙と呼んでいるのは、「次元水平軸」の空間です。宇宙の果てまで行ってもそれは変わりません。一般に「次元垂直軸」の空間は、「素粒子(原子)」と呼ばれる「境界」の内側に存在しています。そこには、「部分」と「全体」と呼ばれる物質的な区別はなく、全てが公平に存在しています。例えば、原子内の電子は、いろいろな原子核の周回軌道に存在しますが、スピンの方向(3次元とは別)以外の区別はなく、「上か下か」の2つしか存在しません。そして、これらの方向が同じなら、全てが「同一の粒子」と見なされます。ですがこれらは「見なされる」と言った程度の問題ではなく、本質的に「同一の粒子」として振る舞うのです。この様に、存在する場所は違っていても、同一の存在であると言う、奇妙な状態が成立ちます。さらにこれら「素粒子」と呼ばれる「空間構造」の組合せで、全ての物質は出来上がっているのです。


それでは引き続き、「井筒俊彦」先生の著作である「意味の深みへ」から、「意味分節理論と空海」の章の最終回です。

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『自分の口から発する言葉を間髪をいれず自分の耳に聞きとめ、そこに直接無媒介的な「意味」の現前を捉えるというコトバの現象学的事態が、現代哲学でも重要なテーマのーつになっている。例えば、パロールにおける「意味」の現前性に関するフッサールの所説を批判するに際して、ジャック・デリダの使うs'entendre parlerの概念。しかし批判されるフッサールの「ロゴス中心主義」も、批判するデリダの「解体」も、真言密教の見地からすれば、畢竟するに「浅略釈」的論義なのであって、「深秘釈」には程遠い。』

そうなのです。言葉は、理性が介在する前に、意味が直接的に脳裏に喚起されます。どんな言葉(自国語であれば)でも、「どんな発音だ」とか、「どんな意味だ」とか思考する以前に脳裏から意味が湧き上がってきます。それは鼓膜からの音とも関係なく、「言葉の発音」を脳裏にイメージするだけで、意味が浮かんでくるのです。「思考」とは、こういった「音的脳への入力」と「意味」の連関的操作で成り立っていることが解ります。真言密教の「深秘釈」は、本来は、主義や思想を超えた場所に、その根源があるのだと思います。


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『真言密教の見所によれば、個人的人間意識のレベルに生起する意味現象は、宇宙的レベルにおける意味現象の、ほとんど取るにも足らぬミニアチュアにすぎないのだ。宇宙的「阿字真言」のレベルでは、ア音の発出を機として自己分節の動きを起こした根源語が、「ア」から「ハ」に至る梵語アルファベットの発散するエクリチュール的エネルギーの波に乗って、次第に自己分節を重ね、それとともに、シニフィエに伴われたシニフィアンが数かぎりなく出現し、それらがあらゆる方向に拡散しつつ、至るところに「響」を起こし、「名」を呼び、「もの」を生み、天地万物を生み出していく。』

まさに「大地の特性」に乗っ取って、「響」が生まれ、「名」を呼び、「もの」を生みだすのだと。「井筒俊彦」先生の言説を裏返してとれば、この人間意識のレベルに生起する意味現象は、宇宙的レベルにおけるエネルギー的な意味現象の、ミニチュアだと言うことです。


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『『声字実相義』に、「五大に響きあり」と言い、かつ空海自らそれに註して「内外の五大に、ことごとく声響を具す。一切の音声は五大を離れず。五大はすなわち声の本体、音響はすなわち用なり。かかるが故に、五大皆有響という」と言っているように、それは地・水・火・風・空の五大ことごとくを挙げての全宇宙的言語活動であり、「六塵悉く文字なり」というように、いわゆる外的世界、内的世界に我々が認知する一切の認識対象(もの)はことごとく「文字」なのである。』

あーーー、すごいです。まさにこれが「虚空蔵(アカシック)」の意味エネルギーなのでしょうか。神奈川県の秦野の田舎町から、京都嵐山の「秦氏の聖地」への誘いに始まり、空海さんの「真言の心柱」の明晰夢。さらに「嵐山天龍寺の座禅の会(龍門会)」の講義の中の「慧能禅師の逸話」。そして「京都御所の近くの合心館道場」で眼前に拝見した「自他不二の真実」。そして更にもう一つ、自宅近くを流れる「西芳寺川の上流」で体験した、「岩蔵、清流、森林、風」が生み出す「聖なるエネルギー」との出会い。これらの全てが、「五大皆有響」を物語って来るのです。まさにこれらは、「地・水・火・風・空の五大ことごとくを挙げての全宇宙的言語活動」に、間違いないと確信を深めています。これら全てとの「偶然の出会い」は、「大いなる意味エネルギー(アカシック)」が創り出した、「必然の作用」なのだと。。。


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『全存在世界をコトバの世界とし、声と響の世界、文字の世界とする真言密教的世界像は、このようにして成立する。イスラームの文字神秘主義やユダヤ教のカッバーラーの場合と同じく、真言密教においてもまた、存在世界は根源的にエクリチュール空間であり、そしてそのエクリチュール空間は、万物の声に鳴り響く空間だったのである。』

エクリチュール空間とは、意味エネルギーの空間であり、「場」そのものを意味します。そして、そこで繰り広げられる「物語」は、これら目に見えない「場の文脈」に則って、「必然としての人間関係」を創り出すのです。


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『「存在はコトバである」という一般的命題を出発点として、私は本論を始めた。この命題は、それ自体としては、なんらコトバの異次元性を含意しない。普通の人間の言語意識を、構造モデル的に深層・表層に二分する操作を通して、この命題が、日常的コトバの次元においても、意味分節理論的に、真であることを、我々は知った。そしてさらに、真言密教やそれと同型の東洋哲学諸潮流の思想を検討することによって、我々は、日常的コトバの彼方の異次元のコトバにおいても、この同じ命題が、強力にその真理性を主張していることを見た。「存在はコトバである」という言語・存在論的命題の絶対的真理性の確信において、真言密教は、東洋哲学全体のなかで、ただひとり孤立した立場ではなかったのである。』

そうなのです。すべてが地球規模の意味エネルギーの中に存在していたのです。あなたも、あなたも、あなたもです。それは、東洋哲学だけに言えることではなく、西洋哲学の中にも流れています。聖書にある「地に満ちよ」と言う神の命令は、「関係の意識」特有の「聖なる文化」を表します。翻って、真言密教は、東洋哲学全体のなかで、「場の意識」特有の「聖なる文化」表現します。真言密教が指し示す文化性は、欧米文化が表現する、「次元水平的」な意味の文脈とは異なった、「次元垂直的」な意味の文脈を表現します。「万能の矛」と「万能の盾」は、よく矛盾の象徴として語られますが、それぞれの聖性(万能性)が、この世界の場の全体を、相補的(裏表の関係)に表しています。そしてさらに、「場の文化」指し示す方向性と、「関係の文化」が作り出す力動は、この世界全体の「アセンション(次元上昇)」を象徴的に表している様に思えるのです。昨今の「量子現象」の技術への応用は、その物質世界への影響を、端的に物語っています。「量子現象」の一般への理解の普及は、その(大乗仏教的)機運を飛躍的に高めるのに役立つでしょう。

如何でしょうか。次回からは書籍を離れて、自分が過去に体験して来た出来事の意味や、今、目の前の社会で起きている事象の意味を、「場の意識」と「関係の意識」のコトバを使いながら、探ってゆきたいと思います。

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