最近、優しくされていますか?

みなさん、最近、優しくされていますか?

ちなみに、僕は優しくされていません。

そもそも、オジサンというものは、人に優しくされません。

まあ、今の世代はどうか知りませんけれども、僕は、幼い頃から、「男のくせに」「そのくらいの熱で休むだと、学校に行け!」とか言われて育ちましたから、そもそも、あまり優しさに触れたことはなかったのかもしれません。

成人すれば、そして、社会人になれば、より一層そうですし、悪いことに僕は体格がいいので、そういった面からも、優しさからは遠ざかる一方でした。

さらに、社長という立場もそれに拍車をかけました。

社外からはもちろん、社内からもされるのは、要求や批判ばかり。優しさとはまったく縁のない立場です。

こうなると、もはや、優しさとは何なのかも分からなくなります。

存在しないものは知りようがない。
そういう感じです。

あっ、もちろん、妻は優しいです。
でも、妻はちょっとズレているので、その優しさは、結果として、ほとんどの場合、優しくないどころか、嫌がらせの類に属することすらあります。

このように優しさは、僕の人生にほとんど登場しないのですから、僕はその存在すら分からなくなっていたのです。

沖縄での優しい出来事

ある時、沖縄に出張に行った時のことです。

僕はいきなりの高熱に苦しんでいました。

「これは普通の風邪じゃないぞ」と感じた僕は、ホテルの「体調を崩した時は、どうぞご遠慮なくフロントまでご連絡ください」という言葉を信じ、連絡をしてみました。

何やら、修飾していましたが、要するに、「夜でもやっている病院あるよ。場所は今、分からないから、自分で調べてね」という話。

ほら、もう、優しくない。

僕は、一緒に来ていた妻に、調査と運転を頼んだのだが、妻はこのミッションを果たすことができず、僕が自分で調べ、運転して、病院まで行きました。
※ この辺りのことは思い出して書きたくなったので、後日書きます。

知らない県の知らない病院にたどり着いた僕は、荒ぶる神のような、憤怒の表情であったと思う。

時系列は前後するが、血圧を測る時に、なぜか、締め付けられた反動で、筋肉で機器を跳ね返してしまい、200という数値を叩き出したほど、荒ぶっていました。

だが、病院も、オジサンには優しくない。
それは織り込み済みです。

「俺のことは誰も助けてくれない。自分のことはすべて自分で解決するんだ」

そう人生から叩き込まれた僕は、まずは病院の受付に向かいました。

病院は受付がまず冷たい。
それが普通だし、僕はそれに何の不満もない。

「やっとたどり着いた。ああ、まずは受付か。まだ、診察までは長いな」と思いつつ、意識をしっかり保つために、憤怒の表情を保つ。

だが、この病院は最初から違いました。

「今日はどうされたんですか?」
「(くそ、受付でも説明すんのかよ。また医者にも説明するんだろうが・・・)えーと、熱が」
「ああ、いいですいいです。見れば、おつらそうなのが分かりますから」

おやっ?
なんだこれは?
まあ、そういう人もいるだろう。
たまたまだ。聞き間違えかもしれない。

熱ゾーンに隔離された僕は、診察を待ち、やがて呼ばれた。

ここは一番大事なところだ。
意識をしっかりもって、病状を伝えるのだ。
でなければ、誤診される恐れだってある。

僕は具合が悪くても、表情が変わらないタイプの人間だから、より注意が必要。

ツライ中、病院に行ったら、「君は大丈夫だね。見たら分かるよ。あはは」などと言われたことすらありましたからね。

気合を入れて、血走った眼で入ってきた僕を見た瞬間、そのドクターは開口一番、こう言いました。

「あー、つらかったでしょう?何も言わなくていいからね。ちょっとインフルエンザの検査をしましょうね」

おやおや?
なにこれ。
でも、僕ぐらいになると、これは「営業(接客)トーク」「社交辞令」の一種であることは知っている。

「ほう、患者あしらいの上手なお医者さんだな」

くらいである。

だいたい、甘い言葉というものは、裏に何かあるものだ。
僕は気を引き締めた。

だが、そのお医者さんは、僕に追い打ちをかけ続けました。

「あー、沖縄まで来て熱か・・・。本当にかわいそうだったね。つらかったら、横になっていいからね。」

うっ、これはなんだろうか?
接客トークにしては、必要のないくらいの優しさだ。
理屈に合わない。

俺は子供じゃないんだぞ。
だから、そんなに子供扱いする必要はないぞ。

普段、接することのない優しさを浴びせかけた僕は、「気をつけろ!」「お前は大人だ!」と警戒を呼びかける僕の理性をよそに、どんどんと小さい頃に親に甘えるような子供に、おっさんのカタチをした大きな子供に変わっていきました。

「ダメだ、いけない。」
そう何度、自分を取り戻しても、「ほら、タオルとかかけてあげて」というような追い打ちの優しさが、何度も、僕を追い詰め、圧倒してきました。

ついには、うっすらと涙を目に浮かべながら、自分の子供が表に出ることだけを必死に抑えるために黙りこくってうなづくだけになった僕は、すべてをお医者さんや看護師さんに委ね、言われるがままに、病院を移動し続けました。

インフルエンザの陽性が出て、最後に薬をもらったときも、その病院では、「ここでお薬の吸引をやってあげますからね」とやってもらい、僕はホテルに「自分で運転して」戻り、やっとベッドに入りました。

薬は劇的に効き、少しラクになった僕のそばで、妻はホカホカのたこ焼きを頬張っていました。

そのにおいは、具合の悪い人間にはきついものでした。

おじさんに優しさを提供するとどうなるか?

「優しさは素晴らしい」
僕はつくづく実感しました。

正直、それ以来、また何年も優しさには触れていないのですが、

「もっと、おじさんにも優しくすべきだ。世の中、もっと優しくなるべきだ。僕も優しくしよう!」

と考えてみると、「いや、それも違うな」と思います。

なぜなら、上で述べた通り、おじさんは優しくされていませんから、優しくされると、きっとそこに集まってしまうからです。

僕だって、自分が沖縄に住んでいたら、その病院に通い続けてしまったと思います。

みんながおじさんに優しいならともかく、一部だけが優しいと、そこに集まってしまいますからね。

そして、もし、みんなが優しくなって、世の中全体がやさしさに溢れてしまうと、今度は「やさしい」ことが素晴らしいと言われるよりも、「やさしくない」ことを批判されることになるでしょう。

ということで、今のこのくらいの温度でいいなと思います。

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