見出し画像

かつて人類には…


 一つ思考実験をしましょう。
「快適で,健康で,倫理的な,幸福な社会を実現しようとしたときに最後に邪魔になるものは何か?」
 自然災害か?そんな社会を良しとしない者たちの反抗か?あるいは地球外からの干渉か?

 その答えの一つは伊藤計劃の「<harmony/>」にある。
 ちなみにタイトルは<harmony/>中にある名フレーズの一節から。

 ここから先は感想話に必要なところだけ本書の内容をかいつまんで書いてあるが,ネタバレあり。気になる方は本書を読んでから…。

<harmony/>の世界観

 時は21世紀後半。全世界で戦争が巻き起こった<大災禍>の反省から,世界は「生府」と呼ばれる機関による高度な医療福祉社会が築かれた。人々は”Watch Me”というナノマシンを体内に入れることで常に体内の状態を監視し,”メディケア”(各個人が持つ製薬システムの通称)による早期治療を徹底することで病気を駆逐した。

 その世界では生命至上主義ともいえるほど,命は社会で最も重要なリソースとして扱われ,それゆえ健康・幸福であることが半ば義務として扱われる。人々は自らが社会的リソースとして優れていること――あるいは社会の一員として義務を果たしていること――を証明するために,”Watch Me”を通して健康状態すら開示している。不摂生は社会的意識の欠如,もちろんアルコールや煙草などもってのほかである。

 そんな社会の中,あるきっかけで世界は混乱に陥る。健康,生命至上主義が浸透している故に大規模な暴動などには至らないが,かえって燻ぶった火種がどこに飛び火するかが読めない。最悪の場合は<大災禍>の再来だ。

 少し時間軸が戻って,”Watch Me”の開発にあたり生府のひと握りの人間がアクセス可能なバックドア――全人類に干渉可能な裏口――を設定していた。そのバックドアは世間では不可能というのが常識だった脳への干渉も可能としていた。

 生府は<大災禍>の再来を止めるためにバックドアを通て人々の脳に干渉することを決断する。人々の意識を制御して互いが協調して調和するように――完璧な人間による完璧な社会の運営が実現するように――すべての人間が完璧にハーモニーを描く世界になるように。

 結果,人類は”意識”を手放すことになった。

 人類全員が完璧な行動をすると決めてしまえば,そこに葛藤も,迷いも,判断も必要ない。ただ,社会の継続のためとるべき行動を遂行するだけだ。

現代SFの金字塔,あるいは

 私は<harmony/>が大好きで日本現代SFの金字塔の一つだと思っている。技術が進歩し生命至上主義が広まった世界を緻密に,骨太に描いているところが結末の説得力を増している。これの初出が2008年だというのだから恐れ入る。現代SF,ディストピアもの,あらゆる断面で切り取っても上位に入るような金字塔だと思う。実際SNSの「#絶対に読んどけっていうSF小説」ランキングでもしっかり上位に入ってくるほどだ。

 一方で本書は「預言書,というかごくごく近い未来を示唆するものなんじゃないか…。」とも思うようになった。
 数年間パンデミックで混乱をきたし,その残り香を今でも引きずっているほどにはまだ健康からほど遠い社会ではあるが,なんでそんなことを思ったのか。
 それは「健康のために自由を手放す」という行為を世間が肯定的に捉えるようになってきたからだ。

翻って,2020年代

 ご存じのパンデミックの初期,まだ未知のウイルスがどれだけの危険性を持っているか分かりかねているころ,一部の人々は外出や移動の規制を声高に訴えた。中には県外から来たと思しき人に妨害やある種の嫌がらせをしている者までいたことはまだ記憶に残っていると思う。

 もし感染が爆発的に広まったら限られた医療リソースを圧迫してしまい,通常の診療・治療もままならなくなり病院から患者が溢れる医療崩壊になる――。最終的には社会そのものに大きなダメージを与えて,生活そのものが様変わりする――。そんな不安が世間を覆いつくしていた。

 そこで世間は移動の自由や人と会う自由を返上して感染症のリスク,もっと正確に表現すると不安を,減らすことを望んだ。あわよくばその自由を行使する者は取り締まりったり,社会に仇成す者として扱ったりすることを望んだ。そのことに肯定的に頷く人ばかりではないが,確実に世間としてはそういった雰囲気に包まれていた。

 健康に生きたい,死にたくないという根底の動機は共通しているが,2020年代は医療リソースのひっ迫とそれに伴う社会的な不安,一方で<harmony/>の世界では医療リソースが充実した結果から発生した生命至上主義の結果と,真逆の動機ではあるものの健康のために自由を手放すという構造自体は似通っている。

そこにラインはなく地続きで

 一時的な移動の自由の剥奪と意識・思考の自由を永遠に手放すということの間にはかなりのギャップがあるように感じるが,決して遠い世界でなく地続きになっている。延長線上には<harmony/>の世界がある。

 実際にニュージーランドでは2009年以降に生まれた人は紙煙草の購入を生涯にわたって禁止される。ニュージーランドの子供には将来にわたって煙草を吸う自由を持てない。

 これを「いいことじゃないか」と思ったあなた一度立ち止まって欲しい。SDGsやなんだと健康や社会的にただしい姿を求めるロジックには困らない現代で,あなたの好物が禁止の対象にならない理由は何もない。
 アルコール,カフェイン,果ては肉食までが煙草と同じ「進んで不健康になるようなものを摂取して医療リソースや社会の持続可能性を阻害するな」というロジックで論議の俎上に上がる。

 ヴィーガンなんかは今は白い目で見られているかもしれないが,肉食の健康被害,家畜に対する倫理,穀物で家畜を育てることの効率の悪さ,等々と持続可能性の問題点を並べられたときそれに対抗するだけのロジックを持てるだろうか?「おいしいものを食べたい」という個人の幸福を求める行為は社会の持続可能性に対してどこまで力を持てるのか?現に2,30年前までは何処でも煙草を吸ってよかったが,今は喫煙者は肩身の狭い思いをしている。

 そうやって社会として「ただしい」,「あるべき」方向に進んで個人としての自由を徐々に返上していった先にあるのが<harmony/>の世界だ。そこには明確なラインなんてない。しかも,パンデミックで移動の自由を一時的に返上したように,<大災禍>の反動で生府が生命至上主義の社会を作り上げたように,きっかけがあれば雰囲気で簡単にそちら側に倒れる。

 少なくとも世界は意識を手放すまでのレールには確実に乗っている。

 ということで以上が読書の秋に<harmony/>を読み直した思想強めの感想文でした。
お納めください。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?