日記 和訳と翻訳
「英文が読める」「和訳できる」「翻訳ができる」この3つには大きな隔たりがある。読もうと思えばなんとなく「読める」が、実際に「和訳」しようとすると思った以上に単語や関係代名詞節を理解していなかったことに気づかされる。そして「翻訳」をしようとするときには、英文の理解も、英単語や文法の理解も超えた「著者の意図」への理解が必要になる。
たとえば、
とてもぎこちない訳だと自分で読んでいて思う。なんというか、文と文が繋がっていない。これでは翻訳ではなく「和訳」である。かろうじて。私にはまだ翻訳は難しい。などと鬱々と考えながら村上春樹の原作にあたると、この箇所はこう書かれている。
日→英の時点でけっこう大胆な(小説を書いてきた私としては少なくともそう思われる)意訳が行われている。
そもそもセリフのなかったところに"Hey,I know"と置いているし、後半の部分では「トニーという名前はどう考えても日本の子供の名前としてはふさわしいものではなかった」の部分は"'Tony' was no name for a Japanese child,obviously"とまとめられている。
以前、柴田元幸の講演を聞いた際に、「英語圏の文芸誌は独特のハウスルールが設定されていて、作者の意図は気にせずに内容をばっさりとカットしたりする」という話を聞いていた(うろ覚え)。アメリカでいえば作家レイモンド・カーヴァーと編集者ゴードン・リッシュの関係からも、なんとなくそういうものかとも思う。
ただ、この箇所に関しては、Jay Rubinは非常にわかりやすくまとめたのだと思う。そこには明らかに技術と経験がある。
この前後でも村上春樹らしい言い回しは多く出てくるのだけど、Jay Rubinはそれに真摯に向き合い、そのままの意味で訳している箇所が多い。
ここは原作者の意図を汲み取って、かつ無視して、すっきりと訳したのだろう。その方が文章としてはすっきりとまとまるし、意図しているところも無理なく伝わる。
そういう逐語訳からは遠く離れたところに翻訳というものはあるのだと思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?