ハンナ・アーレント 「人間の条件」③ 不死と永遠
前回どこまでまとめたのか忘れたけど重なる部分が合ったらごめんなさい。
みなさんは不死身の身体を手に入れたいと思ったことがあるだろうか。もしくは永遠の命を手に入れたいと思ったことはあるだろうか。
不老不死はおそらく人類共通の希求するものだろうと思われる。
しかしもちろん人間は死んでしまう。
最近ではプラスティネーションなどよく聞くが、もちろん遺体保存のための技術であって、生体には実用化されていない。
攻殻機動隊などの世界では当然になっている義体化などの技術もまだまだ先のようだ。
では、人間はどうやって不死という強い願いを叶えようとしてきたのだろうか?
■【活動的生活】と【観照的生活】の中心的関心
たしか前回は【観照的生活】と【活動的生活】に上下関係は存在せず、それぞれがそれぞれの中心的関心を持つ、という話をまとまた。
今回はその続きである。
ひとつずつハンナ・アーレントの意見を見ていく。
しかし、ハンナ・アーレントは人間を「この宇宙で唯一死ぬべき存在」であるとし、これを不死性の対義として「可死性」と述べている。
そのうえで、こうも述べる。
人間はいつか必ず死ぬ。
しかしその人間が残した物は残り続け、その物のなかで人は不死を得る。
法律、建築物、絵画、調度品、小説、詩歌、評論、もっといえば教育という仕事の対象である後継の人々もその人が残した物であると言えるだろう。
このことが神の性格を人間が持つことの証であると古代の人々は考えていた。
しかしこのことが信じられていたのは、ソクラテス以前のことであるとアーレントは断言する。
では、ソクラテス以後、人間の関心はどこへ移っていったのか?
前回書いたと思うが、ポリスでの生活をより良いものに(ある種のユートピア=理想上の生活環境)しようと考えた哲学者たちは真理の探究を第一とする脱政治的な生活――【観照的生活】を考え始める。そして【活動的生活】――労働、仕事、活動――は必要のための行いとして下位のものに置かれ始める。
つまり、これまで不死を得るための仕事とされてきた【活動的生活】は人間の(哲学者たちの)関心の範囲からは外れてしまったのだ。
それには不死への疑いがあった。
あれほどギリシアの哲学者たちが求めてきたポリスを維持するための政治活動すらも不死とは程遠い、と彼らは疑いを深める。形あるものいつか崩れる。一切は空の空。色即是空。ポリスもいつかは崩れ去ってしまうものであり、不変のものとはいいがたい。
そのことに気付いたとき、彼らの関心は不死(活動的生活)ではなく永遠(観照的生活)のほうに向かった。
永遠とはなにか。
それは発生も終わりもない事象のことだ。不死のように、途中から生まれたものがある程度まで長く残り続けることではない。
宇宙の始まりの前からあり、宇宙の終わりのあともまた存在し続け、次の始まりを作る存在=神の視点を得て永遠に触れること(=永遠なるものの経験)こそ観照的生活の中心的関心であり目標だ。
そして、それに触れることは即ち死を意味する、とアーレントは言う。
たとえばプラトンはこの永遠なるものの経験を
と呼び、アリストテレスは
と呼ぶ。アーレント曰く、
最初にアーレントが提示した古代ギリシアの言葉でいえば、
であり、永遠なるものの経験=一人になること=死となる。
ただしアーレントは本当の死とこの死との違いを「永遠なるものの経験に触れるための死は、本当の死と違って最終的なものではない」とする。
生きているものの多くはその経験に長くは触れていられないのだという。
たとえば神と同様に、すべての人類に愛を注ごうと考えたとしよう。
歴史の中でそれを行った人間は何人かいる。
そしてその多くが普通の生涯を送っていない。神と異なり、人には限界がある。その限界を越えて神に近づき、神と同じようにすべての人類を愛そうとするのであれば、自己犠牲の道しか残されていない。
アーレントが言わんとするところはこういうことなのかもしれない。
そして古代の哲学者たちは限界のあるもの(不死)に見切りをつけ、永遠のほうへ舵を切る。
これには2つの事件が関わっているとアーレントは言う。
ひとつは、ローマ帝国の没落。不死なるものが永遠ではないと実証された瞬間だっただろう。
もうひとつは、キリスト教の福音。布教の成功。永遠なる個体の生命を説くキリスト教の福音に多くの人が魅了され、プラトンやアリストテレスの思想がキリスト教に持ち込まれることになった。
はーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー真面目に書いたらめちゃんこ疲れた。
妻が風花雪月無双をやっている。おもしろそーーーーーーーーーーー。
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