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無敵の人はとても道徳的である(エッセイ)

●怒りという道徳的感情
 


「すべての怒りは義憤である」と哲学者の永井均はいう。これは正しいことなのだと思う。「ほとんどの暴力は道徳的感情が動機となる」と人類学者のリチャード・ランガムがいうように、怒りはまず平等を破壊しようとする他者の行為が発端となる。

このとき用いられる平等の基準が道徳であり、道徳とは小集団内においての善悪の基準にほかならない。いわば普遍的なものではなく、その基準は共同体の外にでればすぐにひっくりかえってしまう。子供を大切に、ご老人を労わり、体の悪い人には親切に、という価値観ですら危うい集団はある。

道徳は共同体の基準であるともいえるし、個人の内部に芽生えた「良心」そのものであるともいえる。ここでの「良心」は、たとえばアリストテレスが唱えた「最高善」を目指すための中庸的な生き方を志向する徳の高さのことではない。「なにを良とし、なにを悪とするか」を決める、個人の基準である。だから、これが必ずしも「善」を目指さず、場合によっては大きな悪を生み出すこともある。
 

●無敵の人は道徳的である 



これは自分で言葉にしながら耳に逆らうことだ。それでもいってみる。

無敵の人と呼ばれる人たちは、非常に、とても、道徳的だ。

私はずっと、どうして彼らが道徳をスルーして残忍な行為ができてしまうのか不思議でならなかった。人を傷つけてはいけない、ということは誰しも学んできたり教えられたりしてきたことなのではないか、と。また、道徳をスルーできてしまうという点で「狂人」であるという烙印を押して、見ないようにしてきた部分もある。しかしそうではない。彼らこそ平等を重んじ、道徳の道に生きる人間はいない。
 
たとえば虐め、虐待、教育格差、就職難、低賃金、生まれもった性質、貧富などそういったものに虐げられてしまった人間の内部では、こんな思いが生じるのではないだろうか。

「この世の中はまったく平等ではない」

そしてそれは、道徳の規準に反する。道徳は平時は抑制のために働くが、いったん攻撃の方向へ向かうとアクセルの働きを持つ。

「社会は間違っている。だから正さなければいけない」

もしくは、

「他者を傷つけることで、バランスをとらなければいけない」

そう考えた結果が、無敵の人たちの行為なのではないだろうか。ここでの彼らの行動の動機は、やはり義憤=道徳的感情なのである。無敵の人にとって、社会全体はまさしく「不平等=非道徳的」なのだ。
 
道徳の発生は処刑から始まるとランガムはいう。平等主義を重んじる狩猟採集民族などの小集団内では、もっとも恐ろしいのは平等を破る暴君の存在である。他者の食糧や家族を平気で奪い、かといって無視や嘲笑などの効果がない無敵の暴君に対しては、処刑以外に黙らせる方法はなかった
そうやって、人間は暴力性を抑えた生物として進化してきたとランガムは述べる。その副産物として生まれたのが道徳と良心だ。小集団内の平等を守るためには善と悪の基準が必要となり、その基準を超えたものは処刑される。処刑を怖れる人々はどうにかして道徳を身に付けて生きようとする。そのとき生まれるのが良心である。常に他者の視線を気にかけ、道徳的でない生き方をしないように心がけるとき、良心は抑制の方向に働く。
しかし、ひとたび攻撃の正当性を求める方向に働くとき、道徳は攻撃性を後押しするアクセルとなる。

無敵の人とは、いわば道徳の暴走である。

●死刑という答え合わせ



無敵の人は処刑を望みながら(もしくは考えずに)行動する。そこには処刑されることを自己の中で半ば目的とする思考が働いているのではないだろうか。嫌いな相手にわざと関わりにいくことで、相手に嫌なことを言われ、「やっぱりあいつは嫌な奴だ。自分は正しかった」と再確認するのと同じことだ。道徳的に(社会/自己の平等の基準に照らし合わせて)正しいと思われる行為をして、それを「間違っている社会」に断罪されることは、ひとつの答え合わせなのだ。

「こんなに虐げられて苦しんでいる自分を殺すなんて、やっぱりこの社会は間違っていた」という考えが、少なからずあるのではないだろうか。
 

●ブレーキとしての倫理



しかし、そうはいっても、現代の社会を成り立たせているのも道徳だ。その発生がたとえ処刑を怖れるためという後ろ向きのものであったとしても、善い面をもつものであることに変わりはない。孔子の言葉にもあるように、自分のしてほしくないことを他人にしない、ということ。これは道徳から派生して、倫理の根幹を為す。

現代は道徳の限界なのかもしれない。今まではどんな犯罪でも道徳の名のもとに裁いてきたが、無敵の人に代表される人々はむしろ道徳的な考えで人を殺す。
だから今こそ、道徳の善悪そのものについて考え直すべきときが来ているのだと思う。価値多様性という価値観そのものが多様性により崩壊している現状、最低限のところで私たちは踏みとどまる必要がある。暴走しつつある道徳を見つめ直し、普遍的に手を取りあえる共通項を求める倫理へと、全体でステップアップしていくべきなのではないか。
小集団内や個人での善悪の基準はすぐに怒りのアクセルとなる。
こんな時代だからこそ、より広範な人間集団としての基準を作り上げていくべきなのだと思う。

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