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you and me


僕がひとりでいる時は誰かとふたりでいる時のためにある、いつでも。僕は誰かと一緒にいるとき、その人に合う僕を演じる。先輩の前だったら可愛がられる後輩の僕、面白い友人を引き立てるツッコミの僕、積極的にボケて空気を作る僕。恋人の前で甘える僕。僕はカメレオンのようにその場に擬態する。そうして生きてきた。僕以外本当の僕を知らない。知らなくていいと思っていた。知らなければ、僕はただ人当たりのいい柔軟な人間でいられる。

僕が本当の僕でいられるのはいつなのかわからない。文章を書いているときの僕が本当の僕であるとして、それだけが僕だとして、僕は生きていられない。僕はそんな風に悩みながら、また今日も違う僕を演じていく。僕という人間の複数性はそんな気持ち悪い恣意性の上に立つ。

出したい自分を出さずに演じることはクールでかっこいい。僕は正直にそう思う。べつにマウントを取っているわけではないけれど、目の前にいるその人へ適応できる人は文字通り大人だと思う。人としての深みというか、「こいつは底が知れないな」と思わせることは僕という人間を重厚に見せる。しかし、僕は演じることを知っていながら演じている。そのメタ認知が僕は嫌いだ。その瞬間、僕は僕を嫌う。仮面をつけながら、その後ろでニヤついている自分の顔が頭に浮かんで、どうしようもない嫌悪感に包まれる。そして、この文章はその次元の上がりきったメタ認知をさらにメタ認知する。僕は生きている限りそれを繰り返す。

映画を見ているときにエンドロールのことを想像するときがある。この役は演じている俳優の名前を知りたい、この映画を作った監督を知りたいと。その映画の中の本当の世界を僕は享受できない。演じているその人を知りたい。本当の人を知りたい。このリアリズムはまた僕を刺し続ける。

そして、僕はまたこうやってひとりでパソコンの前に座る。ひとりで現実と向き合う。本当にひとりなのか、そうでないのかはわからない。ただ、心はつながってるなんて言葉は聞きたくない。隣にいるおまえだけが僕を変えていいし、僕だけがおまえを変えられる。僕が演じることのない本当の声で歌を詠んだとき、おまえは立ち止まってもいいし、聞き流してもいい。歌を介してつながろうとする僕を拒絶してもいい。互いにいつでもふたりであり、ひとりである。

僕は僕の複数性を愛しながら、歌になら溶け込んでいける。

おまえとふたりでいるために、僕はひとりで歌を詠んだ。

カンタービレ 星を数えて僕たちは和音のように抱き合っている 

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