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パン屋再襲撃 再

村上春樹は映画化もされ話題となった「ノルウェーの森」や「海辺のカフカ」など、長編で大きく話題になることが多い小説家である。もちろん国内外での多彩な文芸賞の受賞や、さらにはノーベル文学賞の候補者としても話題に事欠かない。そのような彼の作品は長編にとどまらず、短編小説においても優れた印象に残る作品を多く書いている。その作品の特徴として独自の比喩表現がある。ここでは筆者の比喩表現が鋭く冴える「パン屋再襲撃」という短編小説について考えてみたい。この小説で、物語の面白さを作り上げるために、作者がいかに自在にストーリーである空間や時間を編み込んでいるかということ。そしてその中心にあるプロットは、いかなる葛藤から湧き出るのかということを比喩的表現の読み解きも含めて見ていきたい。主人公である夫は、以前、独身時代にパン屋を襲撃したことを妻に話す。小説のタイトルにあるように「再襲撃」というところがミソである。以前の「襲撃」により、夫婦である現在の二人に「呪い」が続いている。実際に最初の小説「パン屋襲撃」では、「これは呪いである」とパン屋の主人からはっきり言い渡されている。襲撃が一方的なものに関わらずワグナーを聴いてもらえるならという予期せぬ交換の場になってしまったという事、これを主人公は「誤謬」という言い方で重大な間違い、暗い影、そして「呪い」と語っている。言い方を変えれば「正しく襲撃」が出来ずにいてそのことが結婚後少しずつ相棒である夫婦の関係にも影響を及ぼしてくる。この「不完全な襲撃」がくすぶり続けて葛藤となったのである。最初の襲撃はこれ以前の短編「パン屋襲撃」として実際に発表されている。この葛藤、物語の中心となるプロットを核に、過去の襲撃は今回の「再襲撃」に繋がり、新たなストーリーを綴っていく。主人公は結婚する以前にパン屋を襲撃したことを妻に話すまで全く忘れていたと語る。そのきっかけとなったのが「オズの魔法使いに出てくる竜巻のような理不尽と言っていいほどの圧倒的な空腹感」である。村上春樹の小説にはこのような隠喩表現が頻繁に使われる。また、同じ葛藤を表現するときでも後半では「洗っていないカーテンのような」空腹感とも表現している。ストーリーの中には共働きの若い夫婦の生活感のなさを表現するところがあるが、そこでは空っぽの冷蔵庫の中の様子をしつこいほど描写している。それはお互いに共有してしまっている心の渇き、行き場のなさを表現している。この比喩的表現は「現代人の乾き」と考える。この「乾き」はこの小説のテーマでありプロットとして根底に流れるものである。二人のこのどうにも埋められない空腹感を「便宜的に満たされるべきではない特殊な飢餓」と表現している。つまり以前の襲撃は便宜的に満たされてしまったために「呪い」を受け続けている、ということなのだ。パートナーとの間に以前とは違う新たに沸き起こっている「呪い」を解きほぐすためにするべきことは「もう一度パン屋を襲うのよ」と妻側からきっぱり提案される。この小説の根底に流れる現代人の心の「乾き」についてこのような比喩、隠喩を使い、独自の物語性が発揮されている。もう一つの、この小説の大事な比喩的表現となっているのは、海底火山の上に、小さなボートに乗って浮かぶ主人公の姿を表現しているところである。海底火山という不安な要素、さらにそれを助長するのが、その上の海水の透明さで、海底火山までの距離感がつかめないこと。主人公はこれを啓示的なイメージであると感じている。頭痛がするほどの飢餓的空腹感はさらにそのイメージを強め、主人公は「海水は透明感を増し、ボートはなんの支えもなく空中に浮かんで」しまうという比喩を使って事態の悪化を表現する。そしてその後二人はパン屋を探すが真夜中にパンを焼く店はなく、パン屋のようなマクドナルドに的を絞る。マクドナルドに行って「親切」な「痛くない」襲撃を決行する。ビッグマックを三十こテイクアウトでという筋書きだ。襲撃後、二人はビッグマックを食べ、コカコーラを飲み、一本のタバコを二人で吸い、飢餓状態は解消される。主人公は妻に「本当にこんなことをする必要があったのか」と聞く。妻は主人公の肩に頭をもたげ「もちろんよ」と答え、心地よい眠りに入る。最後に海底火山は見えなくなり、主人公はボートに身を横たえ満ち潮が「然るべきところ」へ運んでくれるのを待つという隠喩表現で幕引きをされるのである。襲撃は成功し、人生の相棒と感じていた呪い、飢餓感、乾きは癒され、運命共同体を意識することにより二人は満たされ物語は閉じるのである。

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