見出し画像

与謝野晶子とスペイン風邪

はじめに

与謝野晶子(1878〜1942)はスペイン風邪が日本で流行している時期(1918~1921/大正7年〜10年)に新聞紙上で歌人としてだけではなく12人の子供を持つ母として時の政府を批判する評論を書いています。
しかし、不思議な事に晶子の作った短歌の中ではスペイン風邪とそれにまつわる言葉は一切出てきていないようです。

「感冒の床から」

スペイン風邪の第1波が猛威を振るう中書かれた評論は今の状況ととても重なっています。
以下、全文ではありませんが引用します。

今度の風邪は世界全体に流行つて居るのだと云ひます。
風邪までが交通機關の發達に伴れて世界的になりました。
この風邪の傳染性の急劇なのには實に驚かれます。
私の宅などでも一人の子供が小學から傳染して來ると、家内全体が順々に傳染して仕舞ひました。
唯だ此夏備前の海岸へ行つて居た二人の男の子だけがまだ今日まで煩はずに居るのは、海水浴の効驗がこんなに著しいものかと感心されます。
東京でも大阪でもこの風邪から急性肺炎を起して死ぬ人の多いのは、新聞に死亡廣告が殖えたのでも想像することが出來ます。
文壇から俄に島村抱月さんを亡つたのも、この風邪の與へた大きな損害の一つです。
盗人を見てから繩を綯ふと云ふやうな日本人の便宜主義がかう云ふ場合にも目に附きます。
どの幼稚園も、どの小學や女學校も、
生徒が七八部通り風邪に罹つて仕舞つて後に、漸く相談會などを開いて幾日かの休校を決しました。
どの學校にも學校醫と云ふ者がありながら、衛生上の豫防や應急手段に就て不親切も甚だしいと思ひます。
米騒動が起らねば物價暴騰の苦痛が有産階級に解らず、學生の凍死を見ねば
非科學的な登山旅行の危険が敎育界に解らないのと同じく、日本人に共通した目前主義や便宜主義の性癖の致す所だと思ひます。
米騒動の時には重立つた都市で五人以上集まつて歩くことを禁じました。
傳染性の急劇な風邪の害は米騒動の一時的局部的の害とは異ひ、直ちに大多数の人間の健康と勞働力とを奪ふものです。
政府はなぜ逸早くこの危險を防止する爲に、大呉服店、學校、與行物、大工場、大展覧會等、多くの人間の密集する場所の一時的休業を命じなかつたのでせうか。
そのくせ警視廳の衛生係は新聞を介して、成るべく此際多人數の集まる場所へ行かぬがよいと警告し、學校醫もまた同様の事を子供達に注意して居るのです。
社會的施設に統一と徹底との缼けて居る爲に、國民はどんなに多くの避らるべき、禍を避けずに居るか知れません。
今度の風邪は高度の熱を起し易く、熱を放任して置くと肺炎をも誘發しますから、解熱劑を服して熱の進行を頓挫させる必要があると云ひます。
然るに大抵の町醫師は藥價の關係から、最上の解熱劑であるミグレニンを初めピラミドンをも呑ませません。
胃を害し易い和製のアスピリンを投藥するのが關の山です。
一般の下層階級にあつては賣藥の解熱劑を以て間に合せて居ります。
かう云ふ狀態ですから患者も早く癒らず、風邪の流行も一層烈しいのでは無いでせうか。
官公私の衛生機關と富豪とが協力して、ミグレニンやピラミドンを中流以下の患者に廉賣するやうな應急手段が、米の廉賣と同じ意味から行はれたら宜しからうと思ひます。
平等はルツソオを始まつたとは限らず、孔子も『貧しきを憂ひず、均しからざるを憂ふ』と云ひ、列子も『均しきは天下の至理なり』と云ひました。
同じ時に團体生活を共にして居る人間でありながら、貧民であると云ふ物質的の理由だけで、最も有効な第一位の解熱劑を服すことが出來ず他の人よりも餘計に苦しみ、餘計に危險を感じると云ふ事は、今日の新しい倫理意識に考へて確に不合理であると思ひます。
(以下略)
(「横濱貿易新報」1918(大正7)年11月10日)

「死の恐怖」

スペイン風邪の第2波の只中に書かれた評論では、内省的、哲学的な思索に入ります。

惡性の感冒が近頃のやうに劇しく流行して、健康であつた人が發病後五日や七日で亡くなるのを見ると、平生唯だ『如何に生くべきか』と云ふ意識を先にして日を送つて居る私達も、佛敎信者のやうに無常を感じて、俄に死の恐怖を意識しないで居られません。
物價の暴騰に由つて、私達精神勞働者はこの四五年來、食物に就て常に營養の缼乏を苦にし、辛うじて飢餓線を守ることに努力して居るのですが、今は其れ以上に危險な死の脅威に迫られて居るのを實感します。
死は大なる疑問です。
その前に一切は空になります。
紛々たる人間の盛衰是非も死の前には全く價値を失ひます。
人生の價値は私達が死の手に引渡されない以内の問題です。
かう考へると、私達は死に就て全く知らず、全く一辭も着けることの出來ないことを思はずに居られません。
死は茫々たる天空の彼方のやうに、私達の思慮の及ばない他界の秘密です。
或はまた、善惡、正邪、悲痛、歡樂の相對が『生』であるとするなら、其等の差別を超越した絶對一如の世界が『死』であるとも云はれるでせう。
此の意味から『死』を絶對の安靜と解することも出來ます。
また萬法は流轉して止まらず、一物として變化しないものは無いと共に、一物として滅するものは無いと考へる時、生も死も、要するに一つの物が示す二様の變化に過ぎないことが直感されます。
この意味から云へば、絶對は相對の中にあり、差別が卽ち平等であることを思はずに居られません。
生にして樂しくば死も樂しく、死にして悲しくば生も悲しく、否寧ろ苦樂悲喜の交錯が絶對の存在其物であると思はれます。
私の體驗を云ふと、この第三の自覺が私の現在の死の恐怖を非常に緩和して居るのを發見します。
私は死を怖れて居るに違ひありませんが、個體の私の滅亡が惜しいからでは無く、私の死に由つて起る子供の不幸を豫想することの爲めに、出來る限り生きて居たいと云ふ欲望の前で死を拒んで居るのです。
絶對の世界に於て死は少しも理由がありません。
生の欲望と相對して初めて死が恐ろしくなります。
死を怖れるのも『如何に生くべきか』を目的として居るからです。
生の欲望を放棄するならば、其處には絶對の安靜な世界が現はれて來るでせう。
絶對の死は恐れるに足らない。
唯だ相對の死を恐れるのです。
私は今、この生命の不安な流行病の時節に、何よりも人事を盡して天命を待たうと思ひます。
『人事を盡す』ことが人生の目的でなければなりません。
例へば、流行感冒に對するあらゆる豫防と抵抗とを盡さないで、むざむざと病毒に感染して死の手に攫手されるやうな事は、魯鈍とも、怠惰とも、卑怯とも、云ひやうのない遺憾な事だと思ひます。
豫防と治療とに人爲の可能を用ひないで流行感冒に暗殺的の死を強制されてはなりません。
今は死が私達を包圍して居ます。
東京と横濱とだけでも日毎に四百人の死者を出して居ます。
明日は私達がその不幸な番に當るかも知れませんが、
私達は飽迄も『生』の旗を押立てながら、この不自然な死に對して自己を衛ることに聰明でありたいと思ひます。
世間には豫防注射をしないと云ふ人達を多數に見受けますが、私はその人達の生命の疎略な待遇に戰慄します。
自己の生命を輕んじるほど野蠻な生活はありません。
私は家族と共に幾囘も豫防注射を實行し、其外常に含嗽藥を用ひ、また子供達の或者には學校を休ませる等、私達の境遇で出來るだけの方法を試みて居ます。
かうした上で病氣に罹つて死ぬならば、幾分其れまでの運命と諦めることが出來るでせう。
幸ひに私の宅では、まだ今日まで一人も患者も出して居ませんが、明日にも私自身を初め誰がどうなるかも解りません。
死に對する人間の弱さが今更の如くに思はれます。
人間の威張り得るのは『生』の世界に於てだけの事です。
私は近年の産褥に於て死を怖れた時も、今日の流行感冒に就ても、自分一個のためと云ふよりは、子供達の扶養のために餘計に生の欲望が深まつて居ることを實感して、人間は親となると否とで生の愛執の密度または色合に相違のある事を思はずに居られません。
人間の愛が自己と云ふ個體の愛に止まつて居る間は、單純で且つ幾分か無責任を免れませんが、子孫の愛より引いて全人類の愛に及ぶので、愛が複雑になると共に社會聯帯の責任を生じて來るのだと思ひます。
感冒の流行期が早く過ぎて、各人が昨今のやうな肉體の不安無しに思想し勞働し得ることを祈ります。
(「横浜貿易新報」1920(大正9)年1月25日)

おわりに

与謝野晶子さん、日本は100年前も今も、状況は変わっていないように思えます。
当時のスペイン風邪(新型インフルエンザ)も手洗い、うがいを励行していたのですね。
一日も早く今の状況が収束しますように。

この記事が参加している募集

おうち時間を工夫で楽しく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?