ポジティブということ

オリンピックの開会式を観ながらツイートしたものだ。オリンピックには、色々と思うことはあった。でもその全てが嫌いなわけではなかった。ドローンの演出は、僕が好きなもののひとつだった。

最近は、今すぐに死にたいと思うことが減った。
なくなったとは、書かない。長生きも別にしたくはない。それでも、今はまだ死ななくていい気がしている。

正直、それすらも本当は書きたくはないのだ。
死にたいと毎日思う人間だったからこそ、今そうである人に、ニュアンスとしてすら背中を向けたくはない。僕が生きたいと書けば、僕の書くことに苛立ちを覚える人がいると思う。

言葉で人に寄り添うとき、刺し返されて消えてもなお、感触としてその肩に残るものを、僕は多分まだ書くことができない。書けたらいいなぁと思う。誰かを傷つけることからは、多分最後まで逃げ続けることができない。そういうことがやっとわかるようになった。

毎日が楽しいとまでは言わない。
それでも、正直やりたいことは尽きない。

ずっとネガティブな人間だと言われて来た。けれども、実は僕はそうではないと思っている。僕はネガティブではなく、むしろポジティブな人間である気すらしている。死にたいと思うことを含めてもなお。

これは攻撃性を持った主張だから書くべきではないかもしれないけれども、ポジティブであることとは、ネガティブであることから目を背けたり、隠したりすることではないと思っている。

人生は寂しく、悲しいという嘆きを僕も抱えて来たし、人がそう思うことも否定しない。なぜならそれは事実でしかない。誰もが人生を嘆いているわけではないかもしれないけれども、ある場所にはどうしたってそういう悲しみがある。そこでたしかに生きている人がいる。

それと、多分全ての人が、その人なりの悲しみを負っている。だから本当は敵なんてどこにもいない。ただ悲しい生き物がここにはたくさんいるだけだ。

だから、ネガティブな言葉を遠ざけ、ポジティブな言葉ばかりを並べることを、僕はポジティブな態度だとは思っていない。悲しみの中にいる人を引きずり出すことが、正しいとは思わない。そういうことをしていては、多分僕は幸せになることができない。

勿論そういった姿勢を僕は否定しない。人によって、在り方は違っていい。

ただ単純に、坂道で車同士がすれ違う時、坂を降っている側の車が、止まってやればいい。そんな大したことのない話だと思う。

悲しみを知る人間にしか得られない苦しみがあると信じている。それはただ悲しいだけの苦しみではないと信じている。

僕は自分に期待していたような人間にはなれないかもしれないということ。僕には誰も救えないかもしれないということ。僕が生きていることに意味はないかもしれないということ。僕は思っていた通りの幸せを得られないかもしれないということ。

本当はそれらを覆せればよかった。とりあえず誰かにとっての何者かになりたかった。でもそれがわりと難しいことにも、とっくに気がついてしまった。

だから、それらを覆すことだけがポジティブな態度ではないと思うようにしている。それらの悲しみに対して、それを否定するのでもなく、抗うのでもなく、「だけれども」をやることだ。それでも多分僕は生きていける。それを許すのに、まだまだ長い時間がいる。そしてその答えを探すのにも、まだまだ長い時間がいる。

それは、ある一つを諦めることだ。しかし、そうでない無数を許したい。

僕なりの楽しみ方を探している。
人生のレビューに星5はつけられない。
どうせそんな制度も用意されていない。

それでも最後、「わりとおもしろかった」ぐらいの感想は書いて終わりたい。多分、そう思って目を閉じる時、僕はわりと幸せでいるような気がしている。

2021.07.24 靄篠

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?