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「価値観」の強さの話



「強い価値観をお持ちですね」

そんなことを言われた。


そもそも、価値観に強さとか、弱さとか、量的なものは存在するのだろうか。価値観、つまりは自分がどんなものに価値を認めるのか、また価値がないと判断したりする基準のようなもの。数字で表すことのできない基準値。


そんな曖昧な存在である価値観に対して向けられた「強い」とは何だったのだろうか。




そして同時に、「価値観を持っている」ということが会話に出てくることに疑問を覚えた。

簡単に言えば、「この時期にイチゴを買うと美味しくないから買わない」と言う人がいたり、「この時期のイチゴの方が甘すぎなくて好きだ」と言う人がいたりする、というのが所謂価値観を持っているということでもあり、両者の価値観の違いを表している。




皆が持っているだろう、価値観とやらを。

只、考えたことのない物事、出来事が多いだけなのだ。



私が人生について語れば、皆難しい顔をして、「価値観が凄い」と言う。問題は人が価値観を持っているのかいないかではなく、一つの話題に対しての考える時間が少ないということだと私は思っている。


考えてから、やっと、ここだけは譲れない想いとか、自分の中のぶれない確たるものを見つけることができる。



価値観を持っているから凄いのではなく、何かに触れて、考えて、自分の意見を言って、価値観が作られていくのだ。



何かについて饒舌に話す人を見て、なんとなく凄いと思うのはやめよう。


私は、凄いという言葉を向けられたら決まってこう返す。


「何が凄いと思いますか?」


そしたら大半の答えが、「俺/私そこまで考えたことないし」というものだった。考えたことがあるか、考えたことがないか、この差。自分たちで分かっていながらも、今日もまた、考えることを放棄しようとする人がいる。


考えるということは、色んなものを生み出す。

自分だけの意見も、

もっと知りたいという意欲も、

伝えたいという意思も、


しかし、考える前に、出来上がった他人の意見を聞いてしまうと、"なんとなく"その意見が正しく聞こえたり、"なんとなく"自分が間違っているように、思えてしまう仕組みというものが存在する。


相手が凄い訳でも、無知な自分がダメな訳でもい。



価値観というのは、評価される対象にはならないのではないか、私はそう思う。


価値観の共有も新しいことを生み出す過程で大事なことではある。だが、一人一人の価値観の量というのは計り知れないもので、比較対象にも評価対象にもならない。








私は、あれ、なんで今ここ歩いてるんだっけって、考えることがたまにあります。ただ、小説の読みすぎで空想と三次元を混合させてしまってるだけですが。






p.s


考えすぎもよくないんですけどね。

文字を書くことが生き甲斐です。此処に残す文字が誰かの居場所や希望になればいいなと思っています。心の底から応援してやりたい!と思った時にサポートしてもらえれば光栄です。from moyami.