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変化

 ぼく自身はずっと変わっていないつもりだが、年をとっていく中で見た目を含め、おそらく何年、何十年も前の自分と比べてみれば大きく変わっている面は多々あると思う。

 いままで生きてきた中で、何度か周囲の環境が物理的に大きく変わったことがあるのだけれど、その度に交友関係が変化してきた。そういうこともあって、学生の頃からといった何十年も付き合いのある友人はいない。
 そんな中、以前付き合いのあった人が今のぼくやぼくの生活などを見たとき、果たしてどう感じるのだろうかと、ふと頭をよぎることがある。

 同窓会というものに行ったことがない上、卒業してから遠く離れた土地で生活してきたので、学生の頃の友人たちが今どうしているのか全く知らない。周囲に対し劣等感を感じそうだから知りたくないのかもしれない。むしろ「知られたくない」という気持ちの方が強いかもしれない。

 こうしてみると、ぼくは自分が思っている以上にプライドが高いのだなと気づく。
 常に清廉潔白で品行方正、達観した考えを持つ聖人君子として振る舞おうとしているのかもしれない。それが古い知り合いに会ってしまうと過去の事実を突きつけられ崩されてしまう。
 今現在の自分の記憶をたどっても、とてもじゃないが品行方正とは言えない。思えば、たまに交友関係が大きく変わることはそれをリセットして隠すことにもなっていた。

 この文章を書いていて、ふと「これはまるで太宰治『人間失格』の主人公みたいだな」と思い久々にさらっと読み直してみた。読んでいて主人公と自分には似たところがあるなと思った。ぼくは決して美男子ではないが、周囲の求める自分を自分で演じていたような面には心当たりがある。
 昔は太宰治より芥川龍之介のほうが好きで読んでいたが、もしかしたらそれは「恥の多い人生を送ってきた」自分に似た人物たちを見ることが怖かったからかもしれない。

 芥川龍之介も太宰治も根本的には同じようなテーマを描いている気はするけれども、芥川の話は表現が多彩でどこか絵物語のように距離を置いて楽しめる。だが太宰は心理描写が生々しく感じられ、読んだ後でなんとも表現のしようのない感情が残る。昔はそれを「ウジウジしている」と感じて避けていた。

 友人または知り合いとして、同年代よりは年上か年下、それも10才近く離れた人が多いのもプライドの高さに関係しているのかもしれない。
 自分に同年代の友人が少ないことの理由として「興味関心の方向性が合わない」というのが1番だと思っていたし実際合う人はほとんどいなかったのだが、もしかすると違う土俵に立つことで他者と比較されないようにして自分を守ろうとしていた側面もある気がする。

 何だかこう書いていると自分をとてもつまらないやつだと感じてしまうのだけれども。

 こうした「深い人付き合いを避けているような生き方」なりにも、今まで様々な人と出会ってきた中で、いろんな人の生き方や考えに触れてきた。衝突も多かったし、今思うと謝りたいこともいくらかある。
 そんないろんな人との関わりの中で「正しさは普遍的なものではない」「相手と自分の考えが違うことと相手が自分を攻撃していることは違う」ということにふと気づけたことは、自分としては成長できたところかなと思う。(心理学で言うところの「自他境界」みたいなものと後で知った)
 そして、今までの自分の行動自体がそれに気づくことを避けていた面もあることもわかった。

 今まで仕事をしてきた中で、以前は外部の人とのやり取りというものがとても苦手だった。特に電話。
 自分は人間を相手にしたやり取りは向いてないとずっと思っており、それが苦痛で辞めた仕事もあるくらいだったのが、今やっている仕事では全く気にならなくなった。
 業種が全く違い、立場も内容も違うため単純には比較できないものの、お互いに話しやすい関係性を構築することがそれほど苦痛では無くなった。むしろ楽しいと思える時さえある。(電話自体はいまだにあまり好きではない)とはいえこれも自分が成長できたと思える点。
 苦手な人は相変わらずいるし、頭にくることも多々ある。それでもあとで「まーしょうがないか」と思えるようになってきた。

 こういう変化というのは、自分の努力というよりは周囲のサポートの中でうまく個性を引き出してもらえたからなのかなと思う。(もちろん努力も自分なりにしてはいる)

 まとめると、
「プライドが高すぎると考えが硬直して結果辛くなる」
「人と話していろんな考えを知ることは重要」
「自分はこういう人だと決めつけない方が自分の幅が広がるし気楽」
というのが今のところのぼくの考え。

今後またどうなっていくのかはわからないけれども。

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