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ほどけた靴紐をむすんで

仕事で出会う人って、友人と違って共通点がほぼ無いに等しいせいか「ちょっと何言ってるかわかんない」率が高い。
分かんないからどうにか分かろうと頑張ってみると多少わかった気もしてくるんだけど、何かの拍子に「えっ!?」ってことが起きる。想定外みたいな。何でそういう考えになるんだ?って。

それまでの経験やベースになる哲学が共有されているわけでもないし、趣味も何もかも違う。あと、だいたい同い年ではないことの方が多いから共通の話題もなかなか難しかったりする。仮に同い年でも生まれ育った地域で流行も違ったりするし。忙しい職場だとそんな話をする時間もタイミングも無いし、仕事上の話だけではその人の思考の一端しか見えない。
そんなわけで本当にその人の考えを理解するってなかなか難しい。むしろ「理解できた」なんて思ってる時点でそれ自体、理解できてない証拠かもしれない。無知の知、的な。

最近はあまり行われない(と伝え聞く)、いわゆる昭和的な「飲み会」てのはそういう中で各人の考えなんかを知る機会として機能していたんだろうなと思う。
いつのまにかそれが形骸化していき、ただのマウント合戦であったり権力を誇示する場みたいになっちゃうことが多くなり廃れてしまったんだろうな。

ぼく自身、楽しいなと思えた会社の飲み会ってのはあまり経験が無い。お酌とか乾杯のビール強要されたりね。それがすごく嫌で意地になって断りまくってわざと険悪な雰囲気にした時もあった(意地になっただけで何の意図もなかったんだけど、あの時の周囲の人には申し訳ないことをした)。そういう会社では最初からどこか違和感があって馴染めず、結局辞めてしまった。
逆に、楽しめる飲み会のあった会社はいい会社だった。気のせいかもしれないけど、結構飲み会に会社の雰囲気は表れる気はする。

ぼく自身は酒を全く飲まないのだけれど(数年に一回くらいいい酒なら飲むが、めちゃくちゃ弱いしすぐ戻す)、酒の席自体を嫌いだと思ったことはない。今のパートナーとの出会いもバーだし(ぼくはその店ではウーロン茶とトマトジュースしか飲まない客だった。バーなのにっ)。
酒飲みは飲めれば何でもいいみたいなので分かんないけど(←すごい偏見)、飲めない人間であっても居心地が悪くない飲みの席が成り立つ集まりは良い集まりだと思っている。

最近の若い世代の人は、SNSなどでのやり取りの中で互いの考えを知ったり、気を遣ったりしていることが多いのかなと思う。そして、もしかしたらそれはSNSなどなかった時代の飲み会と同じなんじゃないかなと。
たとえば出会いの場って昔は同窓会であったり会社絡みのつながりってことが結構多かったように感じるけど、今ではSNS経由のような出会いもザラにある。そして飲み会離れと同じようにSNS疲れなんてことも取り沙汰されたりする。
人との関わりにはどういう形であれエネルギーを使う。1人になりたいと言いながら周囲の評価を気にしてたり、人と繋がりたいけどなかなか思うように繋がれなかったり、うまく自分を表現できなかったり相手のことがわからないと悩んだり。
そうした思考や意識を解放する場としての飲み会の精神(?)というのは形を変えながらずっと続いているのではないか。

人って、あの手この手でいかに自分を知ってもらうか、相手を知るかを模索し続けるものなのかもしれない。頭では分かっていても他者と相対的にしか自分を評価できず、人との繋がりを意識せずにはいられない。
でも、簡単に相手のことがわからないから人と関わるのっておもしろいし、自分のこともわからないから夢や希望だって持てるんじゃなかろうか。

とか考えながら今日も「えー意味わかんねー」「何て言ったらいいかなー」とあれこれ試行錯誤している。あぁめんどくさい。

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