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久しぶりのnote ”今こんな気分”を綴ってみる

11月に3週間、日本へ一時帰国した。そしてこちらロンドンに戻ってきてからもうすぐ3週間。気がつけば来週はクリスマス。
しばらくnoteからも遠ざかってしまった。

こちらに戻った翌日から、仕事には復帰していた(在宅だが)。けれど仕事以外では、一時帰国前の日常生活を取り戻せずにいた。時差ぼけのせい、疲れのせい、その言い訳は1週間経過すると使いづらい。冬のヨーロッパは日照時間が短く、夕方4時には暗くなるからなかなか体がついていかないよ、そう言ってくれる人もいた。確かにそれもあるだろう。でも、やっぱりそれだけではない。

今回の帰国は、私にとって忘れることのできない、大きな意味を持つ帰国だったために、気持ちの切り替えが追いつかない、そんな感じなのだ。

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先週ロンドンに雪が降った。それから気温もマイナスの日々が続き、白く積もった雪景色を見ながら生活していた。
白い世界は美しい。家のテラスから眺める川沿いの景色、寒くても変わらず元気に泳いでいる水鳥の姿を見ていると心の安らぎを感じる。日の入りは早いが、穏やかな時間が流れている。

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一時帰国中、横浜のみなとみらいを歩いた。
大学4年生の就職活動が終了した夏から、大きな観覧車が有名な遊園地「コスモワールド」のチケット売り場でバイトをしていた。チケット売り場は3つあった。観覧車の近くは3人が同時に入ってチケットを売る大きなブース、他の2箇所は小さなブースで、一人ずつで担当した。
大晦日から新年にかけては、カウントダウンを挟み夜通し営業された。そして、私は狭いチケット売り場のブースの中で、一人で年を越した。今となっては良い思い出だ。遊園地という賑やかな場所で、孤独にカウントダウンを迎えた私はその時、何を思っていたのだろうか。


桜木町の駅からランドマークタワーへと向かう途中の、動く歩道から撮影

「桜木町に東横線が通っていたの?」

大学4年生の姪が言った。当時の私と同じ年齢の彼女もまた、みなとみらいでバイトをしている。しかし、彼女のバイト先は私が初めて聞く名前のビルの中にあった。

私が知っているみなとみらいは、ランドマークタワーの先にあるビル、クイーンズスクエアまでだった。それは、私が日本を出る少し前に新しくできた商業施設だった。クイーンズスクエアの中に飾られたクリスマスツリーには、25周年の文字があった。あれからもう25年の月日が経ったのだ。

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姉夫婦と一緒に、横浜駅から歩いて晴天のみなとみらいを散歩した。
「アンパンマンミュージアム」ができていた。子供連れの家族で賑わっている。

立派なホテル、カハラ・リゾートが眩しい。

臨港パークの遊歩道を歩けばその先には海が広がり、ベイブリッジとつばさ橋が見渡せる。この2つの橋が見えること、横浜に住んでいる時はとても自慢に思っていたものだ。

4月から就職をする姪は、もしかしたら自宅から通えない場所に勤務する可能性もあるという。

「私は横浜が一番好きなんだ。都会での生活がとても便利なだけじゃなくて、公園や海まであって、自然も楽しめる場所がすぐ近くにあるなんて、とても良いところだと思う」

姪は言った。横浜駅からみなとみらいの散歩を堪能した私も、この意見には納得する。でもかつての私は、姪が今満喫しているみなとみらいを知らなかった。
そして、海外への憧れを募らせ、ヨーロッパへと旅立った。

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私が住むロンドン郊外のこのエリアに、先日丸亀製麺がオープンした。日本から帰ったばかりだというのに、さっそく足を運んでみた。店内はほぼ満席だった。温かいうどんは寒さで冷えた体をほかほかにしてくれた。大きなかき揚げのトッピングがまたうれしい。ヨーロッパにいても、日本食はいつでも美味しい。
やっぱり私は日本人なんだなと実感する。

かけうどんに大きなかき揚げのトッピング!

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20代半ばで日本を出て、私が向かった地はオーストリアのウィーンだった。海外で働くという夢が叶ったのだ。旅立ちの日、義兄が運転する車で両親・姉たちが成田空港まで送ってくれた。寂しさと不安、そして希望と挑戦の気持ちに満ち溢れていた。

「あの時のお義父さんの言葉はすごいなと思って、今でも覚えているんだ」

先日義兄が言った。

「寂しくなりますね、って言ったら『本人がやりたいことをやることが一番だから』って言ったんだよね」

父はそんな気持ちで私を見送ってくれたのだ。

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父は退職してから、祖母と一緒に暮らすと言って愛媛のしまなみへ移住した。その時、私はもう日本にいなかった。そして、祖母が亡くなった後もそのまま愛媛に住んでいた。今回の一時帰国では、愛媛の父のところへ行き、家族4人一緒にしまなみで数日を過ごす予定だった。

しまなみを走るバスの車窓

父が住むエリアに一人バスで到着した私。バス停を降りたところで、いつも迎えてくれる父を探した。しかし、父の姿はなかった。

父はその数時間前に、習慣にしているお墓参りに行き、足を滑らせ転び、そのまま崖から落ちて救急車で運ばれたと、その時初めて知った。

空路で愛媛へ向かい、レンタカーでしまなみに向かっていた母と姉はそのまま病院へ向かった。
翌日、集中治療室から検査のために運ばれていく父と、束の間対面することができた。私のことはわかってくれた。しかし記憶は曖昧だった。

今でもコロナ禍である日本では、病院を訪れても面会はできない。大きな葛藤の後、私たち家族3人は父を病院へ残し横浜へ戻った。そして、私はその後予定通りロンドンへ帰ってきた。父は今一般病棟に移動し、年内にはリハビリ病院へ転院する予定だ。

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ようやく今、私はまた以前の生活を取り戻し始めた。1週間後はクリスマスだが、例年この時期家の中を彩るクリスマスデコレーションが、今年はまだ出ていない。クリスマスツリーを出そう。そして、クリスマス休暇には美味しい食事を作ろう(こういうイベント時のうちのシェフは、通常夫が担当しているのだが)。

私は今ロンドンに住み、ここに私の生活がある。父と再び対面して話をすることができる日を待ち望みながら、しっかり自分の人生の時を刻んでいきたい。
今はここロンドンで。

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ご訪問いただきありがとうございました。
前回の記事から5週間も時間があいてしまいました。またこれから少しずつ、以前のように記事を更新して、皆さまとの交流も続けていきたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願いします。

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