【配給会社ムヴィオラの映画1本語り】『春江水暖〜しゅんこうすいだん』⑤「これは驚いた」「これは映画史に残る」。10分53秒の自由。
リュミエール兄弟によって、パリのグラン・カフェ地階の「インドの間」で、『工場の出口』を含む10本の短編が上映された1895年12月28日。この日を「映画が誕生した日」と呼んだりもするが、それから125年。それだけ経てば、映画の撮り方・作り方はセオリーだらけで、もう「映画の表現」は出尽くしたろう、新しいことなんかないだろうと思う人がいるかもしれない。映画に愛着のない人だと「映画はもう古いメディアですね」なんて、しれっと言ったりもする(「映画?コンテンツでしょ?」なんて殴りたくなるようなことを言う輩も!)。
*これは2017年の記事。
とんでもない!125年経っても、やっぱり新しいものは生まれるんですよ。不思議なもので、音楽でも小説でも絵画でも、スポーツの世界でも将棋の世界でも、もうこれ以上はないだろうと思っても、またそれを更新するようなもの(「それ以上」とは言わないけど)が生まれてくる。羽生さんと藤井くんみたいに。例えが違う気もするが、とにかく人間というのはすごいものだと思う。
『春江水暖〜しゅんこうすいだん』には、映画を山ほど見ているプロたちが「あのシーンには驚いた!」「これは映画史に残る!」と興奮するシーンがある。
映画が始まって30分ほど。顧(グー)家の孫娘グーシーと恋人のジャンが大河・富春江沿いでデートしている場面だ。「競争しないか?僕は泳いで君は歩く」なんて言って、ジャンは川を泳ぎ始め、グーシーは川に沿った道を歩き始める。そこからずーっと、カメラは泳ぐジャンと時折チラチラ木陰から姿が見える歩くグーシーを映し、横に移動していく。ずーっと。え、まだ続くの?まだ?まだ?
泳ぎ切ったジャンが川から上がり、二人が一緒に歩き始めても、まだカメラは二人を追い続ける。え、まだ続くの?やがて二人はジャンの父親が操っている船に乗り込み……。
なんとこのシーンは10分53秒も続くのだ。
*泳いでいるのがジャン。街の人たちも遊んでますね。
長回しと言えば、古くはアンゲロプロス、タルコフスキー、相米慎二などなど、きら星の如き監督たちの名前が浮かぶが、映画がフィルムからデジタルに変わって、フィルムのワン・リール10分の制約がなくなって、10分を超える長回しをする映画も見受けられるようになった。ソクーロフは2002年に『エルミタージュ幻想』を世界で初めて長編映画(90分)をワンカットで撮影したし、最近もサム・メンデスの『1917 命をかけた伝令』が全編ワンカット撮影で話題になっていたから、10分越えは確かに長いが、だからと言ってただ長いと言う理由だけで皆が驚いているわけじゃないと思う。
私も驚いた。もちろん長いからだけじゃない。何という自由がここにあるんだろう、と思ったのだ。いくら長回しが増えていると言っても、最近の大方の映画では、カメラは大勢の人々の中を動き回ったり、何か事件がおこったりするるわけで、それをワンカットで撮るから凄いだろ、となるわけだが、『春江水暖〜しゅんこうすいだん』はだいぶ違う。誰がこんなシーンを10分以上にわたって撮ろうなんて思いつくんだろう。
特別なことは何も起きない。ここではただ、グーシーとジャンの関係がゆったりと大河に祝福されているようだった。ちらりと聞こえるグーシーのハミングや、川から上がって歩き始めると聞こえるジャンの濡れた靴のキュッキュという音、昔お芝居でやったのよとグーシーが誦んじる舞台の長台詞や、さらには二人の周りにいる富陽の人々の様子にこの街の呼吸が聞こえるようで、最後二人が船の上から眺める富陽の空にいたく感動した。
二人が一緒にいる時間、二人が一緒にいる街の息遣いの美しいこと。それを10分以上にわたって映し続けること。
よくもまぁ現場のスタッフが誰も反対しなかったな、よくもまぁ出資者が「切れ!」と青筋立てなかったな(諦めただけかもしれないけど)。
これは映画の自由だと思った。映画に自由の風が吹いている。グー・シャオガン監督の自由はとてもしなやかで強い。若い皆さん、映画は自由なんですよ。どうやって撮ったっていいんです。
もうすぐ発売されるブルータスの映画ページ「みんなの映画」でホンマタカシさんが、ある素晴らしい有名作品とともにこのシーンに触れてくれたので読者の方は是非とも読んでください。ヒントはJLGです。
2021年1月15日 ムヴィオラ 武井みゆき