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濱口竜介監督×マチュー・アマルリック監督オンライン対談 全文公開!

8月27日に東京・Bunkamuraル・シネマで『彼女のいない部屋』上映後に行われた、マチュー・アマルリック監督と濱口竜介監督(『ドライブ・マイ・カー』)のオンライン対談の内容をテキストにて公開します。
お互いに尊敬し合う2人の初対談の模様を、ぜひお楽しみください。

※映画のネタバレを含む記述がありますので、映画鑑賞前の方はお気をつけください。

濱口竜介監督×マチュー・アマルリック監督 オンライン対談 (2022年8月27日 @Bunkamuraル・シネマ)

マチュー・アマルリック監督:
今日はありがとうございます。まず配給会社のムヴィオラさん、上映してくださるル・シネマさん、皆さんが僕の映画を上映してくださってとても光栄に思っています。(コロナ禍で)非常に難しい時期にもかかわらず、日本で公開してくださったことに心動かされています。本当は僕もそこにいたかったのですが、実際にお会いできなくてごめんなさい。ですが、9月中旬に10日間くらいは日本に行けると思いますので、その時にお会いできることを楽しみにしています。

マチュー・アマルリック監督

濱口竜介監督:
ル・シネマ、そして他の会場にお越しの皆様、夜遅くまでお待ちいただいてありがとうございます。監督をしています濱口竜介です。今日はマチューさんの話し相手ということで、本当に光栄な役割をいただいたなと思っています。マチューさんは私にとっても映画を見始めた時からの大スターなので、本当に緊張していますけれど、限られた時間のなかではありますが、この素晴らしい映画のことをお尋ねしたいなと思っています。

まず映画の感想を述べさせていただきたいと思います。本当に素晴らしいと思いました。
実は去年同じカンヌ国際映画祭で出品されていて、その場では見られなかったんですけれど、マチューさんとはお会いして、非常に舞い上がった記憶があるのですが、去年見ていれば去年のベストでしたし、今年見て、今年のベストの映画だと思っています。近年でもここまで心を揺さぶられる映画というのは稀だと思っています。

濱口竜介監督

アマルリック:
カンヌで濱口さんにレストランでお会いした時、本当に素敵な出会い方だなと思いました。僕たちを引き合わせてくれたのはグロリア・ゼルビナーティさんという女性です。素敵だと感じたのは、まだお互いに最新作を見ていなかったけれど、僕らの作品を両方とも観ていた人がいて、2人に通じるものを感じていたということです。僕たちはお互いまだ親しい間柄ではなかったのですが、グロリアさんが2人を繋げてくれたのです。そのこと自体がマジックだと思いました。

濱口:
グロリアさんは『ドライブ・マイ・カー』のプレス担当もやってくださっていた女性なんですが、マチューさんともずっと長くお仕事をされていて、私たちを引き合わせてくれた。本当に幸運なことだったと思っています。

その時に映画を見ていなくて感想を伝えられなかったことを、映画を見た後で本当に残念に思いました。本当に素晴らしいと思っています。素晴らしいと思うのは、まず、映像と音響のあり方、話しの進め方というものが本当に驚くべきもの、ものすごく高い技術によって達成されているものだと思っているんですけど、エモーションのためにすべての技術が総動員されているということがなにより素晴らしいと思いました。エモーションと技術が完全に両立している、このことを本当に素晴らしいと思っています。
この映画の成り立ちというのは、この素晴らしいパンフレットを読めばわかるので、ぜひそちらを見ていただきたいのですが、今日は私の興味に基づいて、俳優とのコラボレーションについて特に伺えたらありがたいと思います。
クラリス役のヴィッキー・クリープスさん、本当に素晴らしいと思いました。見せびらかしのような演技がまったくなくて、だからといって無感情なのではなく、蓄えていた感情を必要なときに放出することができる。こういう役の理解に達している俳優を見るのは本当に稀なことだと思います。もちろんそれは俳優個人の力でしかたどり着けない場所だと思うのですけれども、そこで、俳優でもあるマチューさんにお伺いしたいのは、いったいどうすればこれほどの理解に俳優はたどり着けるのか、演出はどうやったらそれをサポートできるのか、ということを伺えればありがたいと思います。

アマルリック:
まず、この映画には原作があります。クロディーヌ・ガレアという方の、演劇の戯曲です。その戯曲は、時に詩のように書かれていて、少しセリフはありますが、寡黙な戯曲です。例えば、竜介さんの手法では(『ドライブ・マイ・カー』の中の)「ワーニャ伯父さん」の稽古そのものが、演出の言葉で到達しえないものに到達していて、(その稽古自体から俳優への)リレーのようなものが生み出されている気がします。それで十分だと思います。

ですから、僕がヴィッキーに何かを教えるとか演出するとかではないんです。実は(最初に彼女と会った時は)まだシナリオさえも書けていませんでした。
シナリオの草稿のようなものを書き始めた2日後に、まるでジャンヌ・ダルクが神のお告げを受けたかのように「ヴィッキー・クリープスだ」と彼女の存在が僕の前に現れ、(その後、初めてヴィッキーに会った時に)この戯曲を渡しましたが、僕らは戯曲については何も話しませんでした。

記事で読んだのですが、竜介さんと俳優との作業で素晴らしいと思うのは、感情を排除した形で本読みをし、稽古をするということです。それはジャン・ルノワールもやっていた方法ですよね。そしてもうひとり、僕たちを繋げている人がいます。映画愛を授けてくれたジョン・カサヴェテスです。
意外に思われるかも知れませんが、カサヴェテスの原点にあるのは、演劇、稽古、練り上げた脚本です。

僕の場合は、撮影中は毎朝、脚本に新たにセリフを書き加えて役者たちに渡すという方法をとっています。新鮮さが大事だからです。

僕はカメラの準備に注力します。長い25分くらいのカットにするのか、1テイクで撮れるのか。2テイクで撮れるのか。ヴィッキーがテイクごとに、(役の)苦しみを何度も味わうことなく、1テイクで一気に(感情を)放出できるようにです。一種、リレーをしている感じです。僕がヴィッキーにバトンを渡し、ヴィッキーがバトンを受け取って映画を続ける。彼女が継走するのです。つまり、この映画は(ヴィッキー演じる)クラリスがショットを生み、編集をしている。皆さんが目にする映像、耳にする音は、すべてはクラリスが想像して作った気がしています。というより「クラリスが自分の想像を(スクリーンに)投影した」と言ったらいいでしょうか。まるで映画館で上映するように。

濱口:
ジョン・カサヴェテスの名前がでてきて本当に嬉しく思います。『さすらいの女神(ディーバ)たち』はあきらかに『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』を思わせるし、前作の『バルバラ』では『オープニング・ナイト』を想起させられました。今回は終盤の雨が降った中で木馬を家に仕舞い込むというあのシーンで『ラヴ・ストリームス』の記憶がふっとよみがえったりもしました。いまこうしてカサヴェテスの名前が聞けて、とても嬉しく思っています。この映画自体、ジョン・カサヴェテスとアラン・レネが融合したような、本当に奇跡のような映画だと思っています。なので、その名前がいまマチューさんから出たことを嬉しく思います。

(木馬の部分を通訳中、アマルリック監督、思わず反応して)
アマルリック:
まさにその通り! 木馬のシーンはオマージュなんですよ!
(濱口監督、アマルリック監督の様子に笑顔浮かべる)

濱口:
これに関連して伺いたいのは…いま木馬の話がありましたが、庭には家族の暮らしというものが、遊具とか木とか、そういう形で作られている。そしていくつものポラロイド写真がありました。つまりその物語が始まる前の時間、我々が知り得ない時間というものを俳優やスタッフたちは共有しているのだというふうに思います。そのことが、俳優が演技をする上での基盤になっているのではないかとも思いました。どういうふうに準備を——スタッフとディスカッションし、俳優を迎え入れたか——その準備のプロセスについて伺ってもいいでしょうか。

アマルリック:
そうですね。美術スタッフのローラン・ボードが家族の家を作ってくれたわけです。確かに僕たちは撮影前に、家族の過去を創造する必要があると気がつきました。そして、(観客は)この家族の生活が中断されたことを少しずつ感じ取る。子供たちは成長を続けるけれども、ある時点で、家族の生活は中断されます。

僕たちが一番最初にしたことは、ヴィッキー、(夫のマルクを演じた)アリエ、息子役のサシャ、娘役のアンヌ=ソフィと一緒にその家に入ることでした。そこで4人は写真を撮り合いました。冷蔵庫は昔の写真や思い出というものを貼る場所ですが、冷蔵庫に貼るための写真を撮ろうじゃないか、それが僕らが一番最初にした共同作業でした。それは家族がとても幸せで、そのときは気づいていなかったかもしれないけれど、喜びを分かち合っていた時代の家族写真です。
録音担当のオリヴィエ・モヴザンはピアノ演奏を録音しました。娘役のアンヌ=ソフィが弾くピアノ「エリーゼのために」です。よく考えればわかるのですが、その後、映画で耳にする彼女の全てのピアノ演奏は実際には存在しません。存在したことがないものです。現実には「エリーゼのために」を弾いていた時点で少女は亡くなるのです。

本作を見直しながら僕が感じるのは、濱口さん、映画というのはパラレルワールドの存在を信じる心とその豊かさへの信頼を育み、現実を豊かにしてくれる場所ではないかということなんです。だから亡霊も出てきます。吸血鬼も出てきます。そして僕らはそれに対してワクワクします。映画を作るたびに、僕らは間違いなく新しい領域を探究します。それがドキュメンタリーであったり、フィクションであったりするわけですが、(観客とも)共有できるミステリアスな領域を探求する、濱口さんの仕事には本当に感銘を受けています。その点で、あなたは僕の弟であると同時に、ちょっと師匠かなと。僕らは映画愛という共通の感性で仕事をしていますよね。

濱口:
ありがとうございます。本当に嬉しいです。いま弟と言ってもらったのは一生忘れないことだと思います。
いまマチューさん自身からこの映画の素晴らしさというものを言葉にしてもらったと思います。現実と空想、過去と現在、あり得たかもしれない未来。そういうものがすべて境界線を超えていく語りというものが、この映画の一番の、とくに前半部分において、すごく緊張感を保った鑑賞体験の鍵となっている部分だと思います。

音の使い方が本当に素晴らしい。ピアノという楽器の使い方が素晴らしいと思うんですけれども、だんだん後半になるにつれて明らかになるのは、境界を超えるというのは彼女自身のある種の祈りのようなエモーション、この語りそのものがクラリスのエモーションなんだということがわかる。その瞬間の感動というものは本当に計り知れないものがあると思います。私はいま3回くらいこの映画を見ているんですけれども、回を追うごとにワンショット、ワンショットがどれだけ考えて作られているかということがわかって、本当に胸が震えるような思いがします。今日初めて見た方もぜひ2回、3回と見ていただきたいなと思っています。
音に関して、音と境界を超えるということに関して、ひとつ象徴的なシーンがあると思います。残された3人——夫と成長した子供たち——が朝食を作っているシーン、そこでクラリスの声が聞こえて、夫と直接やりとりをするようなシーンがあります。その時に父親役を演じたアリエ・ワルトアルテさんの反応というのがすごく、何というのか生々しい、本当に対話をしているような感じでやっている。このときの演出は一体どういったものだったんでしょうか。これだけ実際に会話をしているように振る舞えるのは、彼が素晴らしい俳優だからというだけなのか、どういうことをされたのか伺いたいと思いました。

アマルリック:
お話を聞いていて、たくさんの想いが浮かんできます。私が読んだ記事の中で、竜介さんが話されていたのですが、一方で、カメラを手なずけて、ひとつの装置を見つけ、何かを体系化するけれど、それはもう一方で、生命の生々しい瞬間を引き出すためだということです。

子供は亡くなっているけれど、彼らが成長し、存在しているということをクラリスがどう想像するか、それをどう映像にするかを考えました。彼女はもちろん、子どもたちがこの世に存在していないことを知っている。けれど、それを否認しているわけです。(彼女の頭の中では)彼らは生きているのです。だから僕は、この作品のなかで、皆さんお気づきになっているかもしれませんが、ロバート・ベクトルという画家が描いた絵を壁に飾りました。母親と子供二人がアイスクリームを食べている絵です。最初は写真かなと思うけれど、少しずつ、あれ、変だな、これは写真かな、絵かな?と疑問が生まれ、これは現実を複製しているのだと気づく。それに近いことをクラリスもやっている気がします。
彼女は綿密に現実を複製しているのです。監督や技術スタッフがやるべきことは、すでに存在しない現実、暮らしというものをどう取り戻すか、クラリスの作業にどう加担するかということですね。例えば、私はこう思ったんです。彼女は、彼女なしで生きていける家族を想像したのです。彼女なしでも家族は普通に生き続けているとクラリスは想像する。彼女を忘れてです。彼女なしでも何の問題もなく家族は暮らし続けていると。それである時、彼女はマルクに呼びかけます。「私はここにいるわよ」って。マルクはすごく苦しんだはずです。彼女なしの生活を何とかやってきたわけですから、今さら彼女の声を聴きたくないんです。だから僕は彼にバンダナをかぶらせ、そこで頭にかぶったバンダナを乱暴に取る動作をしてもらいました。この一連のシーンの撮影はとてもシンプルです。

クレープのシーンは、彼らが演技している部屋の隣で、ヴィッキーがマイクをつけて、どういう演技が行われているかをモニターで見ているんです。台所での夫と子供たちの会話を聴いて、見ている。彼女はマイクでアリエだけに直接話しかけることもできました。彼だけは耳に隠しイヤホンをつけ、子供たちはつけていません。彼だけがイヤホンをつけていました。
あのシーンは本当に、入念に準備をしました。俳優には事前に動作のタイミングを詳細に伝えてありました。たとえば、マルクが息子の頭を撫でるのを見たタイミングで「ああ、彼も大きくなったわね」というクラリスのセリフが来るとか。アリエの次のコーヒーをサーブする動作のタイミングとか。
ヴィッキーがちょっとしたアイデアを加えたこともあります。私が監督としてよくやることですが、ヴィッキーが現場に入る前に私自身がクラリスを演じてみるわけです。技術スタッフの見ている前で私はクラリスになります。この小道具は使えるなとか、自分がやってみて見つけたことを撮影現場に入ってくるヴィッキーに伝達するのです。あのシーンは誘惑のシーンだと伝えました。「彼は君のこと忘れている、もう一度、彼の心を惹き付けてみてくれないか」というふうにです。ヴィッキーは彼をもう一度誘惑します。だからあそこでヴィッキーは、J.J.ケイルの「チェリー」を歌い始めるわけです。これはヴィッキーのアイデアです。夫の耳元で囁くように。あそこでヴィッキーがまさか泣くとは、彼女も僕自身も思っていませんでした。でも彼女は泣きました。家族生活が失われた実感、隣の部屋にいるのに自分には触れられないことに感極まったのだと思います。

実はあのシーンは25分のテイクを2つ撮っているんです。ひとつのテイクは、スライダーを使って、300ミリまで可能なズームレンズ搭載のカメラで。これは様々な距離感で撮影できます。もうひとつのテイクは撮影監督のクリストフ・ボーカルヌが、本来ヴィッキーがいるべきテーブルの場所に構えて撮りました。クラリスの場所は空白ですから。家族生活の瞬間を取り戻すために、彼女が携帯で撮っているというイメージでした。ごめんなさい、長く話し過ぎていますね。

濱口:
この素晴らしい映画がどうできているのかということが伝わってきたような気がします。本当に生々しい演技というものがある。だから、たとえ一度見通してこの映画がどういう構造かがわかった状態でまた見ても、過去であるとか妄想の部分が活力を失うことは決してない。現実と同じ強度で常に存在していると感じます。それが本当に素晴らしいことだと思うし、いま聞いたように2つのポジションから撮るということで編集ができるようになるわけですよね。違うポジションから撮ったほうが編集しやすくなるのはあきらかで、そのことによって本当に生々しい、本当に良い部分だけを音響とともに組み合わせて、観客に提示することができる、本当に最高の技術というものがここには使われていると思います。ただそれが、あるエモーションのために使われているということが一番感動的だし、ジョン・カサヴェテスを思わせる——極めて複雑なアラン・レネを思わせる構成でありながら、カサヴェテスを思わせるところだと思っています。

もう最後の質問にしなくてはいけないということなので、最後に簡単な質問をするんですけれど。マチューさんは言うまでもなく素晴らしい俳優でもあるわけですけれど、俳優としての経験があって演出に生かされているところがものすごくあるのは今日の話を聞いてわかったんですけれど、僕が伺いたいのは、演出家からされて嫌だったことで「俺は絶対に俳優にはしない」と思っていることがあれば聞いてみたいです。

アマルリック:
(嫌だったことで自分はしないということがあるかという質問には)「ノン(ない)」です。
僕自身が俳優になったのは年齢的には遅いんです。アルノー・デプレシャンの発明です。僕自身は、自分にできるかどうかわかっていませんでした。その前までは映画の技術スタッフとしてあちこちでいろんなことをやっていて、デプレシャンの『そして僕は恋をする』で、初めて本当の意味での俳優になったわけです。そして(俳優とスタッフは)タイプは違うけれども、映画の手仕事であることには変わりないと気づきました。
なので、私自身はまったくカメラの後ろとか前とか、俳優であるか監督であるかということに境界線は感じないんですね。現場でショットを作り上げる時に、カメラの前と後ろという境界はないと思っています。俳優として演じているときは、すごく尊敬している監督、あるいは友人である監督、あるいは両方のときもありますけど、彼らと本当に素晴らしい体験をしているとワクワクしています。
今回は監督としてアリエ・ワルトアルテという俳優と仕事をしてみて、アリエはかなり入念にセリフを準備をする人なんです。ノートを自分で用意していろんなことを書き連ねて役の準備をする。そういうやり方もいいなあと思いました。時間をたっぷりかけます。読み合わせもします。ヴィッキー・クリープスは全く違います。実は彼女にコッポラの『雨のなかの女』を見ておいてと言ってあったのですが、ヴィッキーは映画が公開されてから、僕に告白したんです。見たというのは嘘で、見ていなかったと。でも、彼女には自分が見るよりも、僕が『雨のなかの女』をどんなふうに語ったかというところから出発する方法がしっくりきたのだそうです。そういうふうに、アプローチの仕方は役者によって違いますよね。実際に体を動かして演技をして、俳優の立場になって僕がわかったことは、何というか極めて些細な小道具であるとか技術的なこと、例えば車を運転するとか、そうしたシンプルなことがあれば十分なんです、結局ね。とてもシンプルです。そういうものがありさえすれば、言葉を経由する必要は必ずしもないんです。僕自身は、俳優という経験を通して、言葉ではないコード化された言語をおそらく会得していると思います。

先ほどの質問に答える形でいうと、僕自身、俳優として受け入れてきたけれども、自分では俳優に対してしたくないことというのはあります。例えば、ラブシーン(フランス語では“愛のシーン”=メイクラブするシーン)ですね。監督というのは女性でも男性でも、ラブシーンの演出をつけるのは怖いんですよね。「ここはメイクラブを演じてくれればいい」と言う、ただそれだけ。でも、メイクラブのそれぞれの仕草の中にこそ、ストーリーテリングにとって、色々な意味が含まれているのです。だから親密なシーンは、俳優におまかせという形で丸投げするのは絶対にやってはいけないと僕自身は思っています。『ドライブ・マイ・カー』の前半のラブシーンで、竜介さんの演出によって、ひとつひとつの仕草は多くを語っていました。まったくもって信じられないくらいにです。それは演出によるものです。俳優は監督の意図、そのシーンが意味することを共有したのです。行為の中に込められたもの、それはインスピレーションを俳優に与えます。そして後になって気づくのです。素晴らしい演出です。「どうして、彼女は上の空なんだろう? いや、上の空というわけではないのかな? わからないな」。そこがものすごく興味深い。竜介さんは、その行為のひとつひとつを考えて演出していると僕は思います。メイクラブをするシーンでは、俳優に丸投げは絶対にダメです。

濱口:
ありがとうございます。なんか自分のことを言われると吹っ飛びますね。本当に、俳優個々のやり方を尊重されていることがよくわかりました。ありがとうございました。

アマルリック:
僕のほうこそ今日はありがとうございました。こういう会話を将来的にもどんどん続けていけたらと思います。

素晴らしい対談をありがとうございました!
最後は撮影タイムにも応えてくださいました。


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