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『彼女のいない部屋』マチュー・アマルリック監督 来日舞台挨拶全文 ②9月19日 伏見ミリオン座(愛知)

彼女のいない部屋』公開を記念し、9月に来日したマチュー・アマルリック監督。今回は、来日期間中に愛知・伏見ミリオン座で行われた舞台挨拶の様子をテキストにてお届けします。
この日は台風14号による新幹線運休並びに、途中経路の風雨による遅延や事故の可能性のため、東京から移動予定だった監督の舞台挨拶をオンラインへと切り替えるアナウンスをしておりました。しかし監督自身が「直接ファンの皆さんに会いたい」と熱く希望して新幹線に飛び乗り、奇跡的に名古屋まで到着し、無事に対面での舞台挨拶が実現しました。
このテキストでは、当日お越しになれなかった方にも、舞台挨拶の様子を少しでも楽しんでいただけたら幸いです。

<9月19日 伏見ミリオン座 舞台挨拶より>

司会:松岡ひとみ(映画パーソナリティ/MC)、通訳:坂本安美(アンスティチュ・フランセ東京)

司会:
皆さん、今日は『彼女のいない部屋』舞台挨拶付き上映にお越しくださいまして、誠にありがとうございます。それではマチュー・アマルリック監督です。皆さん、大きな拍手をお願いします!
(大きな拍手)

司会:
先ほど、ちょっとだけ皆さんにお知らせをさせていただいたんですが——監督がとにかく名古屋にお越しになりたかった、熱い思いだった、ということを皆さんにお伝えしました。監督から一言ご挨拶をお願いします。

アマルリック監督:
こんにちは。皆さん本当に本当にありがとうございます。もう何年もオンラインで生活していると、皆さんと直にお会いするということの大切さを知らされて、東京からとはいえオンラインでしか皆さんと繋がれないのはあまりにも残念だと思ったんです。新幹線の方が台風よりも早かった!
(大きな拍手)

司会:
いろんな監督さんがこのミリオン座にいらっしゃいます、主に日本の監督さんなんですが。でも、この下のカフェで、打ち合わせをしながらひつまぶしを食べたのはマチューさんだけです!(笑) 窓際でひつまぶしを召し上がっていらっしゃいましたね。お味のほうはいかがでしたか?

監督:すごく美味しかったです。ごちそうさまでした。 

司会:
良かったです。またぜひゆっくりと遊びに来ていただきたいです。
さて、今日はとにかく皆さんのお声が聞きたい、感想が聞きたい、ご質問を受けたいということでしたので、さっそく会場にいる皆さんからお受けしたいと思います。皆さん、今映画を見たばかりですので整理整頓されてるんじゃないかと思いますが、よろしければ……それでは、一番早く手を挙げていただいた、前の方、お願いいたします。

質問者1:
今回の映画は死者と生きている人の境が非常に曖昧で、黒沢清監督との共通点が見えたんですけれども、黒沢監督はゴダールからの影響をすごく受けたと言っていますが、マチューさんはゴダールからどのような影響を受けられたでしょうか?

監督:
そうですね、やはり映画の友情というものが連なって一つの作品が生まれたと自分でも思っています。先日東京で黒沢監督と夕食を共にする機会があって、やはりそういった話をしたんです。僕の中にもやはりジャン=リュック・ゴダールがいて、そうした亡霊たちとともに映画が撮れたというふうに思っています。主人公のクラリスはどちらかというと西洋的な行いというよりは日本人的な行いを選んで、死者と共に生きる、死者と共にパラレルワールドを生きることができる女性という意味で、日本的なものに近い、日本的な習慣に近い女性だと思っています。(質問者のTシャツを見て)あなたもTシャツに写っているルー・リードと毎晩きっと対話をなさってるんじゃないでしょうか? (笑いが起こる)

質問者1:
死者から希望をもらえる映画だと思いました。ゴダールもルー・リードも死にましたけども、この映画を見て、死者も私たちのことを見守ってくれて、私たちも死者のことを忘れないということで、とても希望をもらいました。ありがとうございました。

司会:
監督がこの映画を撮る前に『リメンバー・ミー』(原題:Coco)というディズニー映画もご覧になったと、この映画のパンフレットに書かれていましたが、あれも死者との話になっていますよね。他にも色々な映画もご覧になったということがこのパンフレットに書かれています。

監督:
本当に驚くべき素晴らしい映画です。妻と共にできなかった旅を続ける、という素晴らしい作品だと思います。『Coco』という作品はまたメキシコ流の死者との関係を描いている映画です。フランスは人が亡くなると、ただ暗い、悲しいもの、亡くなってしまった、というところに落ち着いてしまうところがあるんですけどね。たとえば、今日、日本は祝日だというのをさっき聞いて、「なんの祝日?」と尋ねたら、「敬老の日」だと。「えっそれが祝日になるの!?」と驚きました。そういうふうに、年をとっていく人たちのための祝日があるなんて素晴らしいことだと思います。

質問者2:
日本の伝統芸能の中に能というものがございまして、その中には狂女物といって、狂った女性が失った子どもを探し回るという演目が5本ほどあるんですが、今回の作品にも共通点をすごく感じました。今日を入れて3回ほど見させていただいたんですが、毎回その三島由紀夫の能学集とか、そういったものに相通ずるものがあると思います。監督は、能などをご覧になったことはありますか?

監督:
能はまだ見たことはないんですが、今お話しいただいたことと今日の映画というのはどこかで繋がっていると、知らないながらも納得しています。この映画には原作があって、クロディーヌ・ガレアという女性の劇作家が書いたものから出発していて、実際それは舞台化はされなかったんですが、ガレアは実際に日本の小説などもたくさん読んでいる人なので、元々の原作者がもしかしたら、日本の能や日本の小説に影響を受けているということもあるかと思います。

質問者3:
まず感想なんですけれど、夢と現実を音で接続して表現するというのがすごく面白くて、今いったいどういうふうな関係になっているんだろう?というのを見るのがすごく楽しかったです。その中で、夢に来ていたリュシーが現実で直接クラリスを押して拒絶する、というシーンがあって、音だけで接続されていた世界から現実に引き戻されて、接触を行うことで辛い現実を突きつける、というところにすごく残酷さみたいなものを感じました。
質問なんですが、クレープを焼く親子3人の場面で、手持ちカメラによる手ぶれみたいなものがあって、あそこのシーンだけ手ぶれがすごく際立っていたように思ったんですが、なぜああいった撮影方法を選択されたのでしょうか?

監督:
最初にいただいた感想なんですが、本当に人が辛い思いを味わう時——誰かを亡くしてしまう、それはもしかしたら愛をなくすのと同じくらい辛い経験かもしれないんですけれども——そうした時に、人がちょっと狂気に触れるという瞬間というのは誰にでもあると思うし、その必要性も人は感じると思うんですね。その時に、この映画の中でクラリスがある種の狂気の中で夢の中に入っていって、やがて前に進むために、実際に現実と夢が衝突する瞬間に立ち会う、というのはすごく人間的なことだと思います。
日本の場合、皆さんがどういうふうな反応をされたりするのか、感情をあらわされるのかはわからないですけれども、フランスでは本当に辛いこととか信じられないようなことが起こった時に「C'est pas vrai !」というふうに叫んでしまう。「そんなの本当じゃない!」って。「C'est pas vrai」=「It’s not real」。その言葉に集約されるようなことがクラリスには起こっているんだと思うんです。だから観客の皆さんも映画を見ていて、「これは本当じゃない」と思った時に皆さんの中で起こっていることも、ある意味同じような、そういう感情の揺り動かしというものがあるんじゃないかなというふうに思っています。
だからあまりにも彼女がそこで、夢…想像の世界の方にグーっと入って、辛い現実を否定しようとしたことで、夢の方が逆に生き始めて、彼女のことさえ必要としないで夢の方がどんどん生きていっている、というのがクレープのシーンなんですよね。だから、「ああちょっと待って。自分で作ってるはずの夢の方が動き出しちゃってるから、声をかけないといけない」と思って、彼女は夫の名前を呼ぶ。夢の方が勝手に生き始めてしまっているので、「私ここにいるのよ」と言わざるをえない。だから撮影の方法が違うんです。まるで携帯で自分が撮っているかのようなシーンなんです。断片を自分でつかまえようとしている、彼女がそういうふうに生きているシーンといいますか。だから手ブレが多いように感じられたというのは、そういうことなんですよね。
山での遭難のシーンで、雪が溶けて春になって、というのを撮るために、この作品はいくつかの季節を跨いで撮っています。その春から冬になるまでの間に、少しずつ編集していきました。最初は彼女の声が聞こえる、というマルクのところを撮って、6ヶ月経って家に戻った時に台所を見て、「じゃあここでもヴィッキーが一人でいるシーンを撮ろう」と思ったんですね。編集によって繋げていくことで、メロドラマがそこで作られていったんです。

司会:
すごい、納得です。もう一度見たくなりますね。あの、お時間がですね、そろそろ最後の…

監督:
ぜひ女性の方からの質問もお受けできますか。

司会:
そうですね…(女性を指して)ではそちらの方、お願いします。

質問者4:
本日は楽しく鑑賞させていただきました。まずはストーリーが交錯しながらそこに伴うように、伴奏のように流れる音楽の美しさに非常に心動かされました。そして映像のカットの美しさでいうと、先ほど仰られていたクレープのシーンがとても印象的でしたし、彼女が車のフロントガラスに雪が積もっているのを掻くところを内側から撮ったカットも、それがとても美しく印象的で。なおかつ、娘さん(リュシー)が「先生がパリの音楽院に推薦するって」と言う場面で階段の下から撮ったカットも非常に印象的で素敵だったんですけども、その発想だったりとか、どうしてその美しいカットを撮れたんだと思われますか? 
あとは、どのくらい撮影期間がかかったのでしょうか?

監督:
クロディーヌ・ガレアの原作となった戯曲にはすでにピアノという要素があって、そのピアノが現実と夢のコミュニケーションの触媒になっていました。リュシーは「エリーゼのために」をようやく弾けるようになったくらいのときに亡くなってしまうんですけど、夢の中で彼女がどんどんピアノを学んでいく、というふうにクラリスは想像していく。小さい頃と少し大きくなった頃のリュシーを演じる女性は本当のピアニストにしよう、と原作を読んだときに思ったんですね。だから二人とも子役俳優ではなく、ピアノを勉強している子たちに演じてもらったんです。実際に彼女たちがその場でピアノを演奏しているのを撮影しています。
僕も小さい頃、ピアノをやってたんです。でも怠け者だったのでピアノはあまりやらなくなって、映画を作るようになりました(笑)。なので自分がもしピアノを弾けてたら、というようなそういう何か…リュシーがまるでめちゃくちゃに弾いているような曲も、あれは「リチェルカータ」(「ムジカ・リチェルカータ第1番」)というすごく難しい曲を弾いているんですが、実は僕は“音楽”をずっと撮り続けてるんですよ。もし後で京都まで僕と一緒に行っていただける方がいたら…京都の出町座で上映するジョン・ゾーンという前衛ミュージシャンのドキュメンタリーがあるんです。それは12年間ずっと撮り続けています。今、7年間一緒に暮らしている女性が、ソプラノオペラ歌手のバーバラ・ハンニガンという人。彼女との暮らしのおかげもあり、音楽家と一緒に暮らしたり、音楽家を撮影したりすることで、音楽という仕草で人が対話をするということを自分はどんどん学んでいます。
あの階段のシーンでは、たしか(オリヴィエ・)メシアンの「イエス」(「世の終わりのための四重奏曲 5楽章イエスの永遠性への讃歌」)がかかっていると思うんですけども、(あのリュシーの台詞)は、彼女(クラリス)がピアノのコンクールの報せを受けた時に、その音楽と共に、その音楽がつぶやいている言葉です。
そうした映像というのは、クラリスが自分の中で体のいろんな部分を繋いでいくように、いろんなものを繋ぎ合わせていくように、彼女自身がいろんな断片を使って紡いでいるものなんです。だから映画には小さなオブジェが少しずつ出てきて、そのオブジェによって彼女が映像を紡いでいく。(マルクが)頭に巻くバンダナとか、そういうものが所々に出てくるのは、そういった紡いでいくための、あるいはその紡ぐところの部分、というんでしょうか。でもこうやって話していますけど、皆さんは全部分からなきゃいけない、とかそういうことではないんですよ。それはヴィッキー・クリープスがクラリスを演じるために、彼女自身が僕と一緒に作っていった部分。だから、僕のアイディアだけでなく、彼女のアイディアも入れて一緒に作って行ったんです。

司会:
ありがとうございました。本当はもっと続けたいくらいですが、そろそろお時間が来てしましました。でも今日はオンラインじゃなくて良かったですよね、皆さん。(拍手)それではアマルリック監督、最後に一言いただけますか?

監督:
短い時間でしたけれども、皆さんの質問や感想をこうやって生で聞けたことが本当に嬉しかったです。今は見終わってすぐですが、このあと、皆さんが街に出て道を歩いている時に、「ああ、あそこはそういうことだったんだ!」といったように少しずつ思い出していただいたり、何かと何かが繋がっていってまた様々なことを感じていただけたらいいな、と思います。先ほど何回も見たと仰ってくださった方もいましたが、この映画には色々なサインが散りばめられていて、それをまた見つけ合わせていただきたいので、もし良かったらまた何度も見ていただければ嬉しいです。

無事に劇場に到着し、ロビーにて笑顔の監督。
劇場のコラージュの中に、ご自身の写真の切り抜きを見つけて大喜び。


■『彼女のいない部屋』公式サイト


■『彼女のいない部屋』映画をご覧になった方に

このページは”映画鑑賞後の方だけ”に向けて作成しました。監督がなぜこのように描いたか、どんなことを考えて演出したかなどをまとめています。ぜひ映画を観た後にお読みください。

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