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『彼女のいない部屋』マチュー・アマルリック監督 来日舞台挨拶全文 ①9月17日 Bunkamuraル・シネマ(東京) 

彼女のいない部屋』公開を記念し、9月に来日したマチュー・アマルリック監督。来日翌日に行われた東京 Bunkamuraル・シネマでの舞台挨拶の様子をテキストにてお届けします。満員のお客様を目にしたアマルリック監督の興奮が伝われば嬉しいです。また、「あのシーンはそういう意図だったのか」と、あらためて感動する話もたくさんありましたので、ぜひお読みください。

<9月17日 Bunkamuraル・シネマ 舞台挨拶より>

司会:武井みゆき(ムヴィオラ)、通訳:人見有羽子

アマルリック監督:
皆さん、今日は本当にありがとうございます。この作品が日本で公開されるにあたって、とても感動しているのですが、私を日本に招待してくださって本当にありがとうございます。この感動は私だけのものではなく、きっと皆さんにも感動があるのではと思います。私たちはこの数年の間離れ離れだったわけですから。ようやく会うことができたのですよね!本当にここにいられることを嬉しく思います。ありがとうございます。

司会:
それではここからは質疑応答の時間にさせていただきますが、大変残念なんですが、東京都の映画館の感染症対策により、お客様に発声していただくことが難しい状況です。そのため、先に質問をいくつか集めさせていただきまして、その質問を監督にお答えいただくという形で進めさせていただきたいと思います。一つでも多く監督にお答えいただけるように私たちも頑張ります。よろしくお願いします。それではまずは最初のご質問です。

質問①「前回僕はアマルリック監督と濱口監督のオンライン対談を拝見しました。同じ年のカンヌに参加した時はお互いの作品を観ていなかったと仰っていましたが、その後『ドライブ・マイ・カー』を観てどんな感想をもちましたか?僕は本作との共通点として“赤い車”というイメージとともに、どちらも主人公が“死者とともに”赤い車を走らせているように感じたのが印象的でした。監督はいかがでしたでしょうか?」

監督:
濱口監督と出会った時はレストランで、その時はお互いにお互いの作品を観ていなかった。でもこの二つの作品にはたしかに何か通じるものがあると、そういうことは僕自身も感じていました。撮影後ずいぶんしてからですが、この作品のロケ地であるピレネー地方のサン=ゴーダンスに、プロデューサーのラエティティア・ゴンザレスと一緒に立ち戻ったのですが、そこで『ドライブ・マイ・カー』を観たんです。たしかに仰るように、何か共通項というか、僕の言葉で言えばそれは何か“いとこ関係”のような関係にある映画であるように感じました。
実は僕自身、日本の映画にすごくインスパイアされています。この作品は特にインスパイアされています。クラリスというヒロインは、“パラレルワールドを持つ”ことを自分に許しているというか、自分に“パラレルワールドがあるんだ”ということを信じて生き延びようとしています。ファントム、亡霊と一緒に生き延びようとしている。この映画を作りながら僕自身が感じていたのは、黒沢清監督の作品とか河瀬直美監督、あるいは諏訪敦彦監督、あるいは青山真治監督、そのような監督の影響が僕自身の中にもあるんじゃないかな、ということです。でもその時には、濱口竜介さんの映画をほとんど知らなかったので、だからこそ、『ドライブ・マイ・カー』との間には、 “いとこ関係”が現れたんじゃないかと思います。
クラリスはパラレルワールドを想像できますが、我々フランス人には合理主義的なところがあって、なかなか “自分の生きている世界と別の世界がある”ということを許容しない国民性があります。でもクラリスは死者や不在の人と共に、しかも暗くではなく、楽しみながら面白がりながら生きることができるヒロインなんです。

司会:ありがとうございます。それでは次の質問です。
質問②「主役のヴィッキー・クリープスさんにはポール・トーマス・アンダーソン監督やM・ナイト・シャマラン監督など作家性の強い監督の作品によく出演しているイメージがあります。アマルリック監督がヴィッキーさんを撮りたいと思った特別な理由がありましたら教えてください」

監督:
もしヴィッキー・クリープスが今この会場に僕と一緒にいたら、この質問が無駄になるくらいすぐに、皆さんもパッと理解されるんじゃないかな。ヴィッキーが初めて僕の脳裏に現れたとき——その4ヶ月前にポール・トーマス・アンダーソン監督の『ファントム・スレッド』を観ていたんですね。4ヶ月後にこの映画の脚本の執筆を始めて、一日半くらいした時——これはクロディーヌ・ガレアの戯曲を原作にしていますから、脚本化するために原作をなんとか組み立てようとしていたんですが、彼女の顔が、まさに自分の目の前に“現れた”感じだったんです。本当にその言葉がふさわしいと思います。 “顕現した”というか、パッと彼女が現れたんです。『ファントム・スレッド』をご覧になった方は覚えていらっしゃるかもしれないですが、その中でヴィッキー・クリープスの役柄はレストランのウェイトレス役で、そして扉を開けて彼女が“現れる”というシーンがまさにあったんです。だから彼女は僕の前に現れたんですね。
僕はすぐに彼女のエージェントに電話をして、なんとか彼女と会わせてくれないかと言ったら、「いいですよ。三週間後にパリに行きますよ」と教えてくれたんです。僕は田舎にこもっていたんですが、三週間後にパリに行き、彼女に会いました。まだ脚本を書き終えていなかったので脚本もなく、ただ原作であるクロディーヌ・ガレアの本を彼女に渡した。それが最初の出会いです。その時、僕らはこの作品の内容を話すのを全く忘れていたんですよ!「これをやりたいと思うのですがどうですか」「読んでみましょう」。それくらいの感じだけ。その時はそれで別れました。それでも僕には、「絶対に彼女と一緒に作品を撮る」という確信みたいなものが生まれました!それが、まさに“出会い”なんじゃないかなと思います。

司会:運命的なものを感じますね。では、次の質問です。
質問③「次回が3回目の鑑賞です!素晴らしい作品をありがとうございます。本作を作る上で一番苦労したことを教えてください」

監督:
苦労ですか、うーん、どうだろうな…。どちらかというと逆説的な、パラドックスなことになりますが、本当に楽しい喜びが溢れていた撮影現場だったんです。かえって、喜劇を撮るほうが苦労するものですよね。喜劇は人を笑わせなければならない、とても危険なリスクを伴います。とても緊張した撮影現場で喜劇を撮るのは拷問みたいなところがあるんですが、『彼女のいない部屋』に限ってはそういうことは全くありませんでした。
ただ僕が監督として、俳優たちのために準備できることは、やはり技術的な面です。俳優たちのための遊びのような空間をしっかり作っておく、というのが監督としての役目だったかなと思います。例えば、25分のシーンを1テイクで撮る。一回撮ってうまくいけばもうそれで終わりにしますが、もう一度、2テイク目を撮るとする。でもその時、同じカメラアングルや同じカメラワークではなくて、違う形で撮るといった工夫をする。「こういうふうなこともあり得る」という仮定というものをたくさん用意しておくんですね。そうして技術的な面は既にもう準備万端にして、そこで僕から俳優たちにバトンを渡す。まるでリレーのように。すると俳優たちが僕が書いたものに命を与えてくれる。生き生きしたものを生み出してくれるんです。ちょっと話が逸れますが、僕自身はこの映画で「死者」を描くという気持ちはなくて、ヴィッキーが考える “まだ子どもたちと生きているんだ”という、その“生きている”というところをなんとか創出しようと思っていました。現場は、子どももいますし、生き生きしていたので、苦労なんていうのはありませんでしたね。
ヴィッキーが悲しみの中で、遺体と出会うというシーン、あれを何テイクも何テイクも撮ったら、それは俳優として苦痛ではないですか。だからそうならないように技術もすべて用意して、彼女が1テイクで終われるように、ということをする。それが監督として最低限の礼儀だと思っていました。

司会: それでは次の質問です。
質問④「主人公のクラリスが映画の中で出会う“見ず知らずの人々”の多くが、彼女にとっての “真実” をそのまま受け入れ、それを当然のこととして接している点について。監督がこうした場面や瞬間を描いたことには、どういったインスピレーションやきっかけがあったのでしょうか? 私には親しい人や近親の人が突然亡くなるという経験がまだ無いのですが、もしかしたら経験した人にしか感じられない、監督自身のご経験がきっかけになっているのでしょうか」

監督:
クラリスは、「見知らぬ人に話しかけること」「見知らぬ人と過ごすこと」、それを望み、それを彼女自身が必要としていたんです。自分とは関係なく、生活は続いている、それを感じられる場所に自分から足を運んだんじゃないかなと思います。それが魚屋さんだったり、カフェの人だったり、ガソリンスタンドの女性だったり、そういう何気なく、何事もなく人生が続いている所に彼女は身を置きたかったんじゃないかと。僕自身の経験かというと、たしかに僕自身も、「ちょっと今つらいな」という時は家にいないで外に出るんですよ。そして外に出ると、「この世界は全然自分のこと必要としていないよな」と気が付く。自分の悩みが「相対化される」ということがあるんですよね。それは僕だけじゃなくて、みんな誰もが経験してることだと思います。つらい時って、いつも以上に全然見知らぬ人たちと話をしたい、一言二言ちょっと情熱的に話をしたい、そういうことって多分ありますよね。そういうことに「でもこれって良いことだな」って、僕自身ちょっと感動してしまうんです。そこに何か安らぎや慰めを見つける。だからクラリスは、車を停めているときに通りすがりの男性に「君の車は素敵だね」と言われて「私はどうなの?私はきれいじゃないの?」と言ってみたり、あるいはフルート奏者の人をちょっと誘惑してみたりする。フルート奏者の人はわかってるんです。「彼女が求めているのは自分じゃない」と。でも彼女を受け入れる。そういうことって、人生の中であることだと思います。
付け加えると、脇役のような形で出てくるあの人たちはプロの役者さんたちじゃないんですよ。本当にあそこで働いている人たちに撮影に参加してもらったんです。だから尚更、観ている人に語りかけるものというのがあるのではないかと思います。

司会: ここからは少しこの映画を離れて、アマルリック監督のより幅広い映画観をお伺いしたいと思います。
質問⑤「監督の映画は女性の主人公が多いと思うのですが、それは意識されて、“女性を描きたい”ということで選んでらっしゃるのでしょうか?そしてもし男性を主人公にするならば、どんなテーマやストーリーにしたいですか?」

監督:
女性のヒロインが多いということについては、あまり考えたことはなかったですね…。たしかに自分自身が監督として映画を撮る時には、「未知の世界に近付きたい」という気持ちが無意識にあると思うんですね。例えば、女の子の部屋を覗いてみたいなとか。おそらく、かなり確実に、それは悪くないことだと思います(笑)。でもそれは意識的にしているわけではなくて、引き寄せられているんでしょうね。
いつも、その当時の彼女をヒロインにして一緒に映画を撮る、ということが多かったんですが、今回初めてヴィッキー・クリープスという私生活で僕の彼女ではないプロの女優さんと一緒に撮ってみて、「意外に悪くない」と思ったんですよね。撮影現場で自分がすごく自由にいられるのを発見しましたし(笑)、友情関係というものが生まれましたし、先ほど“リレーのバトンを渡す”と言いましたけど、“共犯関係”というものも生まれたわけですよね。
男性を主役にした作品を撮っていないわけではなくて、たとえば『さすらいの女神たち』とか『青の寝室』とかは、僕が演じているんですが。僕はいつもすべての人物の中で一番こっけいな役を自分にあてることにしているんですね。格好良い役なんか自分にあてることはできませんからね。それで一番格好悪い役を自分がやるんですけど、実際作ってみて「あんまりうまくいってないな」と思ったこともあります。

司会:次の質問です。
質問⑥「アマルリックさんが出演した映画で最初に観たのが『ミュンヘン』でした。その後色々な作品を拝見しています。ご自身で作りたいと思う作品と、出演したいと思う作品に違いはありますか?」

監督:
実は、僕がカメラの後ろで仕事をし始めたのは、まだ17歳くらいの頃なんですね。その後、短編映画を撮ったりして、その頃映画はまだデジタルじゃなくてフィルムで、そのフィルムの編集をやったこともあって、「これはいいぞ、なかなか面白いぞ」と思ったんです(笑)。それで監督の助手もやってみたんですけど、「これはちょっとつまらないな」と思いました(笑)。現場の制作進行、雑用係のようなこともやってみましたし、小道具もやったことがある。つまり映画の現場でやる色々なことを、ちょこちょこちょこちょことやってたんです。そして、アルノー・デプレシャンがとても奇妙なアイディアで…僕に役者の経験させようとしたわけです。それが僕が30歳の時の『そして僕は恋をする』という映画だったんです。
30歳で本当の意味の俳優としてデビューして、それから俳優の経験を積んでいって、「ああ、俳優っていうのも技術スタッフと同じで、僕がこれまでやっていたことと同じなんだ。別のやり方ではあるけどとても手作業的な仕事なんだ」ということを感じるようになりました。なぜなら現場では技術スタッフが1つのショットを作り上げるために奔走しているし、俳優たちもそれをなんとか良いものにしようと努力している。そこにはカメラの前とか後ろとかの境界線はないんですよ。
そして、僕自身、これは確かだと思うのは、俳優として何度も何度も演技をしてきたという経験が、この作品ではとりわけ活きていると思います。ヴィッキー・クリープスや、あるいはマルクを演じたアリエ、それからとりわけ子どもたちですよね。現場では、彼らとの間に「言葉を介する必要がない」という、そんな経験をしたんです。それは、空間の撮り方であったり、ちょっとした仕草であったり、リズムであったり、あるいは感情的なものであったり、「それだけあればすべてができる」という、そういうことを今回の作品ではより強く感じました。それはやはり僕がこれまで俳優という仕事に恵まれたからこそできたことだと思いました。

司会:今の答えを聞くとうかがいにくいんですが、次の質問です。
質問⑦「俳優業と監督業、どちらがお好きですか?これからの監督と俳優の仕事の比率というのを、もし考えていらっしゃったら教えて下さい」

監督:
僕の映画監督と映画俳優が並行するキャリアというのは、今皆さんにお話ししたように進んできたわけですが、今現在の状況を告白すると、俳優としては少し出る作品を減らしてますね。なぜかというと、俳優をやっていて「危険だな」っていうような、そういう感覚が少しなくなってきたんです。あまり危険を伴わない、そういうような所で俳優を続けていくことは減らしていきたいという状態なんです。どちらかというと、「映画を撮る」ことを今すごく熱心にやっていて、この作品のようにきちんとした技術スタッフがいて、沢山の人に囲まれて撮っている映画もあれば、今回イメージフォーラム・フェスティバルで9月18日に上映してもらうジョン・ゾーンのドキュメンタリー『Zorn Ⅲ』のように、録音も映像も本当に一人でやっている作品もあります。また、エマーソン弦楽四重奏団というカルテットがいるんですが、彼らは47年演奏を続けていて、年齢もかなり重ねて、最後のスタジオ録音をする、それを監督として、ドキュメンタリーの作家として、音も録り、映像も撮り、ということをしました。そういう創作をしていると、自分がもっと花を開いていくような、そういった感覚をとても感じられる、というのが今の実感なんです。
撮るだけでなく、書くことも旺盛にやっています。もちろん本を書いてるわけではなくてシナリオを書いています。今、その助成金に応募するために書いているのは、シリーズものなんです。ロベルト・ムージルという小説家がいて、彼はすごく長い小説を残しているんですが、僕が考えているのは、一週間に一回、一話26分のテレビシリーズ。それが一年間続くのでエピソード的には全部で52話にもなる。なんとか応募してうまくいけばと思って書いています。とにかく、監督をしたりシナリオを書いたりしている時のほうが、自分を驚かせてもらえることがある。それが今の実感ですね。

司会:
ありがとうございます。残念ですが、質疑応答の時間がそろそろ終了となります。今のお話を聞いても、アマルリック監督の今後の活躍が大変楽しみです。それでは、アマルリック監督、ありがとうございました!

最後は撮影タイム。「ヴィッキーは僕より背が高いんだよ」と、
『彼女のいない部屋』のポスターを少し上に持ち上げてくれました。
ご来場の皆様、誠にありがとうございました!



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■『彼女のいない部屋』映画をご覧になった方に

このページは”映画鑑賞後の方だけ”に向けて作成しました。監督がなぜこのように描いたか、どんなことを考えて演出したかなどをまとめています。ぜひ映画を観た後にお読みください。


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