辛くても生きていくしかない。映画「ドライブ・マイ・カー インターナショナル版」感想
め~め~。
アカデミー国際長編映画賞(旧アカデミー賞外国語映画賞)を受賞し、数々の賞を受賞した「ドライブ・マイ・カー」。
本作品は、村上春樹原作「女のいない男たち」に収録されており、他の作品も織り交ぜながら一本の映画となっている作品です。
約3時間にも及ぶ長尺作品であり、登場人物たちは何を思い、語ろうとしているのかを汲み取りながら見ていく必要があることから、油断すると結局何を楽しめばいいかわからないまま終わる可能性もあります。
本作品を気になっているけれど、まだ見ていない方は前半だけ、ネタバレを気にしない場合は、後半も含めて、本記事をみていただきつつ、ムービーメーメーがどのようにして映画をみていったかを参考にしていただければと思います。
演劇と人生
本作品の主人公である西島秀俊演じる家福祐介(かふく ゆうすけ)は、舞台俳優です。
彼には、美しい妻がいますが、二人の間にできた子供は3歳で亡くなっており、その喪失感をかかえながら、生活しています。
物語冒頭では、夫婦の夜の営みの最中やその後に行われる二人の習慣をみることになります。
情事の後、または最中に、奥さんである音(おと)は、不思議な物語を彼に聞かせるのです。
内容とはともかくとして、肌を合わせた人間にしか語らない物語が存在している、というのが、のちにもやもやしたその後の真実とリンクしていく道具として機能しています。
村上春樹
村上春樹といえば、「風の歌を聴けで」デビューし、世界的な作家として名声を響かせている作家であり、知らない人はいないのではないかと思います。
どこか冷めた主人公や、すぐにベッドをともにする女性が多くでてきたり、やたらにパスタを茹でるイメージがありますが、本作でのセリフのやり取りは、実に村上春樹らしいセリフまわしが飛び交います。
ただし、これは「ドライブ・マイ・カー」が狙っている演出と非常に合致している部分でもあります。
小説のセリフをそのままリアルな人間が語ると、かなり胡散臭いものになるものですが、舞台でのセリフのようなやり取りが当たり前に行われている本作品では、逆に、それが自然に聞こえるというところも、楽しむべきポイントとなっています。
棒読みの役者たち
本作品をみていて、すぐに気づくのは、役者がみんな棒読みだ、ということではないでしょうか。
感情が入っておらず、物語の冒頭での主人公家福と、その妻音(おと)とのセリフのやり取りを聞いていると、夫婦というよりも、割り切った関係の愛人かと思ってしまうほどです。
いわゆるダイコン役者ばかりなのかと思ってしまうところですが、多少有名の差があるにしても、ほぼ全員がそんな演技をしているのを見ると、これはワザとやっている、というか演出だな、ということがわかります。
「高槻、一度自分の読むテキストに集中してみろ。ただ、読むだけでいいんだ」
「私たちは、ロボットじゃありません」
「うまくやる必要はない。ただ読めばいいんだ」
これが本作品における演出法です。
普段の会話のやりとりが、セリフのような棒読みになることで、彼らが本音で話をしているのか、それか、舞台のセリフを言っているのか、あいまいになっていきます。
そんな、舞台と現実の境界線が、ぼやけていくような感覚に陥るところ、また、画面の切り替えの際に、舞台のセリフなのか、現実のセリフなのか、一瞬わからなくなるところは「ドライブ・マイ・カー」の面白さとなっているのです。
舞台が語る
「ドライブ・マイ・カー」は、主人公たちの物語と、劇中劇によって、物語の本質が語られていきます。
特に、愛していた妻が、若い男と不倫いたことがわかった後、妻が何食わぬ顔で夫の状態を確かめるために連絡をしてくる。
そんな衝撃展開で気持ちがもやもやしている中、舞台のセリフが流れます。
「ようするに、25年間。あいつは人様の地位にふんぞり返っていたというわけだ。まるで殿様気取りじゃないか」
「どうやら、キミ、やっかんでいるんだな」
「そうとも。大いにやっかんでいるさ」
セリフそのものの本来の意味とはずれていますが、感情的、雰囲気的なつながりはしっかりと感じます。
このように、役者の気持ちを、役者にそのまま言わせるのではなく、舞台のセリフで言い換えていくというやりかたは、「ドライブ・マイ・カー」の魅力の一つです。
普段のセリフ。
舞台のセリフ。
それらの声のトーンが同じであるからこそ、そのセリフにぞくりとするタイミングがあったりします。
鏡越しの真実
ネタバレというほどではないですが、ここからは、作品をみたあとにご覧になったほうが楽しめると思いますので、ご注意いただければと思います。
本作品は、3時間にも及ぶ長い作品となっているにも関わらず、物語そのものも、決して起伏の激しいものではありません。
岡田将生演じる高槻が、自分の感情や肉体的な行動を抑えることができずに、問題を起こしてしまうキャラクターとしてでてきており、主人公に対する大きなゆさぶりをかける人物として描かれます。
ちなみに、家福の妻である音(おと)と、高槻が男女の関係にあったかは、断言できないようになっているところは、憎い演出といえるでしょう。
(長年のファンであれば、背中の肉付とかで断定できるかもしれませんが、素人目には)本人かもしれないし、そうではないかもしれないつくりになっています)。
少なくとも、鏡越しで遠くからみたときに、高槻とは断言できないようになっているところは、物語の考える上でポイントとなってくるところです。
さて、本作品を語る上で、欠かすことができないのは、車の中でのやり取りでしょう。
これは余談ですが、「ドライブ・マイ・カー」というタイトルは、もともと、村上春樹が、ビートルズの名曲「ドライヴ・マイ・カー」にインスパイアされてつくられた短編となっています。
さらには、「ドライブ・マイ・カー」というタイトルには、性交の意味も含まれているということもあり、色々な意味でタイトルと内容が合った作品だと思います。
車の中
本作品において、車の中でのやり取りは特別なものになっています。
かなり長い時間を車の中でのセリフのやり取りで行っていることから、退屈しそうになるところではありますが、「ドライブ・マイ・カー」における車の中は重要です。
主人公にとって、車はセリフを頭の中にいれる場所であり、亡き妻とのつながりの場所であり、ドライバーである渡利みさきにとっても、それは母親とのつながりを示す場所となっています。
そして何より、車の中においてキャラクターたちは、おそらく嘘をついていない、という点も忘れてはいけないところです。
脱線しますが、映画の文法において、雨の中では本当のことを言うなんてものがあります。
特に、音(おと)が、雨の中、車に乗っているシーンなんていうのは、映画の作法上では、かなり、重要な場面となっているという示唆があると、考えながらみるべきところとなっています。
「わたしね、あなたのことが本当に大好きなの。わたし、あなたで本当によかった」
音(おと)は、その後、家福に何かを言おうとして、突然亡くなってしまいます。
家福は、妻との関係が崩れてしまうんじゃないかという恐怖や不安から、家に帰ることができず、結果として妻を助けることができなかったと思い、罪悪感を抱え続けます。
映画の演出の定型を知っていると、家福の恐怖や不安はたんなる杞憂であることがわかります。もっとも、若い男との不倫があるという事実は変わりませんが。
あと、「ドライブ・マイ・カー」を読み解く上で、もっとも重要なサブテキストがあります。
それは、劇中でも演じられている「ワーニャおじさん」です。
本作品が、アントン・チェーホフの「ワーニャおじさん」の現代版や翻案だと考えれば、物語が提示しているのは常に同じものとなっているのは、脚本的にも、演出的にも見事にはまっているものといえます。
ワーニャおじさん
チェーホフといえば、「櫻の園」が有名ですが、それと同じくらい「ワーニャおじさん」は有名です。
とはいえ、内容については、ロシア作品にありがちな長いセリフのやり取りが中心となっており、物語に大きな起伏があるわけではないので、舞台関係とかに興味がある人でなければ、ぴんとこないかもしれません。
作中でも語られているので説明する必要はないかもしれませんが、「ワーニャおじさん」がいわんとするところは、ツライ現実の中で死ぬのではなく、その事実に耐えながら生きていくか、ところがポイントとなっています。
「ドライブ・マイ・カー」の中でも、それは何度もセリフで言われています。
「なんて辛いんだろう。この僕の辛さがお前にわかれば」
「仕方がないの。生きていくほかないの」
尊敬していた人物に裏切られ、自暴自棄になったワーニャおじさん、失恋したソーニャ。ツライ現実の中でも、二人は生きていこうとするところが、「ワーニャおじさん」の見どころとなっています。
ワーニャの姪であるソーニャが言うセリフは、本作品の貫く救いのセリフとなっています。
「長い長い日々と、長い夜を生き抜きましょう。運命が与える試練にもじっと耐えて。今も。年をとってからも。他の人のために働きましょう。そして、最後のときがきたら、おとなしく死んでゆきましょう。そして、あの世で申し上げるのです。あたしたちは苦しみました、と」
これは、主人公たちへの言葉として、そのまま転用できるものです。
「神様は私たちを憐れんでくれるわ。そして、伯父さんと私は、夢のような生活を目にするの。うっとりと微笑を浮かべて、ほっと一息つくの。あたし、そう信じてる。そうしたら、あたしたち、ゆっくり休みましょうね」
家福は、妻の不倫を知りながら、その関係が壊れるが恐ろしく、妻を助けることができずに罪悪感を持ち続けていました。
ドライバーであるみさきは、この場合ソーニャに対応する人物であると同時に、自身もまた母親を見殺しにしてしまったという罪悪感から、車で広島まで逃げてきた人物です。
「ドライブ・マイ・カー」においては、「ワーニャおじさん」との対比、セリフでの往来によって、主人公たちの心情や、なすべきことがわかるようになっている作品となっています。
たんなる劇中劇とは思わないと思いますが、それぞれが密接にからみあいながらもぼやけているからこそ、この作品は面白いといえるところです。
そして、辛さから逃げるのではなく、長い夜を生き抜くことの大切さを提示する不変のテーマ。
チェーホフという世界的な作家の代表作をモチーフに使いつつ、インターナショナルに対応した内容でもあること。
色々な言語が飛び交う本作品ですが、もっとも大事なセリフが、言葉を使わない手話で語られるというのも、絶妙な演出といえるでしょう。
日本映画的であると同時に、世界でも通用する内容を提示したからこそ、世界的な評価につながったものと思われます。
ラストの意味
さて、本作品は、ウイルス関連の影響により、本来韓国で撮影するはずだったところが、広島での撮影という風になったという経緯にあります。
ですが、そんな中にありながら、物語のラストでは、ドライバーであったみさきが、韓国のスーパーで買い物をするシーンを見ることができます。
どのように解釈するか、というのは難しいところですが、いくつかの点を踏まえて最後に、自分なりの解釈を述べておきたいと思います。
みさきは、柴犬と何かのミックス犬を、赤いサーブにの後ろに乗せて走りだします。
いつの間に、韓国に行ったのか、どうしてなのかと思うところですが、犬は、広島にいたユナ夫妻が飼っていたゴールデンレトリーバーを思い出させます。
日本という異国の地で暮らすユナ夫婦は、子供を流産したことでツライ思いをします。
これは、家福夫妻とも同じ境遇といってもいいと思います。
ですが、彼らは、辛い日々を生き抜いて、二人で生きています。
家福にとってか、みさきにとってかはわかりませんが、彼らにとって、ユナ夫妻は、理想的な状態に見えたのではないでしょうか。
日本にきた韓国人との関係を逆転させて、日本人である家福と、みさきが、今度は韓国へ行った。
赤いサーブは、家福そのものの象徴でもあるので、みさきにあげたというよりは、一緒に韓国にいる、と考えたがほうが自然です。
さらに、「ワーニャおじさん」の最後のセリフを考えても、死後ではなく、新しい別天地で、幸せに暮らしている、というのを示したのではないかと思います。
あれほど強調していた、みさき頬の傷がなくなっているというのも、象徴的です。
いつも無表情だった彼女は、微笑みながら、物語は終わります。
みさきについて
「ドライブ・マイ・カー」というタイトルにありながら、出番こそそれほど多くはありませんが、存在感があるのが渡利みさきです。
彼女は、北海道の上十二滝村という場所の出身ということになっています。
実は、もともと原作では、北海道の北寄りにある中頓別町が舞台だったはずですが、たばこを捨てる表現で抗議が入って、架空の村に変更されたという経緯もあったりします。
ちなみに、家福に「君の好きなところに連れて行ってくれ」と言われて、ごみ処理施設に連れていく場面で、彼女が地元である北海道の考えていたという伏線になっているところは面白いです。
広島における平和の軸線についての説明があることでカモフラージュされていますが、みさきは、ゴミが落ちて舞い上がる様子のをみて「ちょっと、雪みたいじゃないですか」といいます。
どんな感性をしているんだ、と不思議に思いましたが、故郷である北海道の、雪が舞う姿を思い出していたと考えれば、それほど突飛な感性ともいえなくなります。
だからこそ、雪のまだ残る北海道にいく意味があったといえるでしょう。
感想について
さて、「ドライブ・マイ・カー」は、海外のような大規模な予算では作られていないということもあって、映像的な派手さはありません。
いわゆる、日本映画的なけだるい雰囲気と、北野武映画にもみられる湿気のある青っぽい画面が特徴となっています。
近年において、ここまで派手に賞をとっていく作品というのも珍しいところでしたが、見るのに集中力をつかう作品となっています。
ただし、決して眠くなる映画ではないのは、常に漂う緊張感があるからでしょう。
我々が生きる現実も、楽しいことばかりではありません。
辛いことのほうが多かったりする中で、「ドライブ・マイ・カー」は、「ワーニャおじさん」という不朽の名作を引用しながら、生きるということはどういうことなのか、その中で、我々はどのような心構えでいるべきなのか、ということを教えてくれる作品となっています。
本作品のように、二日がかりで広島から北海道までドライブはしたくありませんが、生きているのがツライと思ったとき、ふと、ドライブマイカーしてみるのも、いいかもしれないと思えてくるかもしれません。
以上、辛くても生きていくしかない。映画「ドライブ・マイ・カー インターナショナル版」感想でした!
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