ゴールデンカムイの理解を深める為に。映画「二百三高地」感想
め~め~。
「ゴールデンカムイ」といえば、野田サトル氏によるアイヌの金塊をめぐる戦いや策謀が描かれる群像劇となっています。
時代は、1900年あたりとなっておりまして、実をいいますと、大正時代である「鬼滅の刃」よりも前の時代を扱った作品になっています。
映画にされることが多いのは、第二次世界大戦前後であることが多い中で、日露戦争で生き残った男が主人公であり、さらに、アイヌの女の子と金塊をめぐって当時の北海道を歩き回るという物語は、絵が特徴的なので気になりませんが、内容だけでいえば、とっつきにくい内容に思えてしまうところです。
しかし、「ゴールデンカムイ」はそんな時代状況などを知らなくても面白いですし、それが知識を深める為のきっかけにもなるので大変意義深いところではありますが、それでも、最低限の知識をいれておくことで、より理解が深まります。
今回は、「ゴールデンカムイ」の中でも何度となく登場する、「二百三高地」という場所や、不死身の杉元という主人公が、どんな激戦地で生き延びたのか、また、第七師団に所属する人たちがどういうポジションであったかも含めて、理解を深めるための補助線として役に立つこと間違いなしの映画を紹介してみたいと思います。
二百三高地
映画「二百三高地」は、1980年に公開された日本映画であり、当時の制作予算でだいたい5億円前後でつくられるところを、15億円という破格の金額、そして、製作期間3年間という日本映画史上の中でも見逃せない映画の一つとなっています。
本作品は、日露戦争においてもっとも重要な役割を果たし、且つ、あまりに戦死者が多かったという旅順攻略を描いた作品となっています。
「ゴールデンカムイ」の中でも、「旅順の野戦病院で見かけた」とか、二百三高地では云々といったセリフもあり、こんなとんでもない場所でのことをさらっと言っているのだなとわかると思います。
とはいえ、185分という、約三時間の映画を見るというのはかなり大変です。
しかしながら、「ゴールデンカムイ」を理解するにあたっては、非常に雰囲気をつかみやすい作品ともなっているため、作品への興味が下がらないうちにぜひみていただきたいところ。
ということで、どういった作品かを含めて感想&解説をしていきたいと思います。
勝ち目の薄い戦い
さて、後世に生きる我々は、日露戦争が日本に有利に決着したことについてわかっていますが、物語の冒頭においては、日本がいかに厳しい立場にあったかが描かれます。
当時のロシアは大国であり、シベリア鉄道も含めて、大変な軍事力をもっていました。そんな中、小国にすぎない日本が侵略されないためには、先にロシアとの戦いに勝利をする必要があったのです。
時の伊藤博文と、丹波哲郎演じる児玉源太郎中将のやり取りが象徴的です。
「あんたの腹の割った意見を聞きたいと思うんじゃが。いったい、我が国はこの戦争に勝てるんか」
伊藤博文自身が開戦しなければと進めていたにもかかわらず、疑問を投げかけます。
こんな言葉を言う時点で、もはや間違っていると思いますが、いかに戦わなければならないのっぴきならない事情があったかがわかるというものです。
「勝算はありません。おそらく、五分五分。死力を尽くして、六分四分」
国の軍部ですら、この時点でこんな考えです。
しかし、ロシアが、鉄道等のインフラを増やしてしまえば、物量で勝つことができなくなる未来がみえている以上、なんらかの形で力を示す必要があったのです。
だいたい、勝ち目があるから戦うのが当たり前だと思うのですが、待っていてもどうせ負けるのだから、勝算があるかもしれないうちに戦っておこうという発想であるところが、厳しいところです。
もちろん、アメリカに間をとりもってもらおうとしてみたり、開戦する前に何かできることはないかと画策はしていますが、それが厳しいことは誰の目にも明らかです。
「明治国家は今、国民の好むと好まざるとにかかわらず、残酷で巨大な事業を遂行しなければならなくなっていた。大国の餌食として横たわる羊から、獲物にかみつくオオカミに変貌することである」
二人の主人公
さて、本作品では、二人の主人公を通して、作品が描かれていきます。
一人は、オリジナルキャラクターである古賀。
彼は、学校の教師をしていた人物ですが、日露戦争にあたり、少尉待遇で入隊した人物です。
「二百三高地」は、戦争賛美の映画ではもちろんありませんが、かといって、明らかな反戦映画というわけでもありません。
もちろん、それをとらえる人間によって考え方はかわるでしょうが、少なくとも、本作品で描かれている古賀というキャラクターの変容は、ロシア文学を愛する、まじめな男が、戦争という狂気によってかわっていく姿を描いています。
「美しい日本。美しいロシア」
彼は、自分が受け持つ学校の教室の黒板に、そのように書き、自分が戦争から戻ってくるまで消さないで欲しいと生徒たちに言うのです。
正直言って現実をわかっていないアマちゃんです。
本作品の脚本で優れているのは、現実を知らないで敵(ロシア)を愛する人間もいるのだ、といっていた人物と、実際に、兵士をコマのようにして使う立場にあった指揮官である、乃木希典と、考えが逆転していく姿が見事です。
敵を人間としてみていた古賀が、結局敵として相手をみるようになることと、人間をコマとしてみなければならない乃木が、死んでいく兵士たちへの想いで板挟みに合うところは、脚本の妙といえるでしょう。
乃木希典
さて、乃木希典(のぎ まれすけ)という人物は、実在しております。
現場を描く古賀に対して、軍上層部を描く乃木の状況となっているのですが、大変に苦しい立場にいる人物です。
大変な人格者として描かれ、事実そのような人物であったこともまた周知のことのようです。
旅順攻略という困難な作戦を仰せつかり、正攻法で攻めようとするものの、早期攻略を要求されたために、突撃を繰り返すしかなかったという事情も描かれます。
さんざん、死体の山を築く中で、乃木は息子に自分をどう思うかと聞きます。
「名将として尊敬しております。」
「幾千の人名を命令一つで殺して、将たるものに、名将などというものは一人もおらん。わしが指揮官として有能だったのは、少佐時代までじゃ。あとは木石に徹しちょる。木石では、腹も切れん。誰がかわってくれるものがおれば、わしほどの木石になれるものはおるまい」
ちょっと話がずれますが、銀河英雄伝説におけるヤン・ウェンリーもまた、この手のことを言われると否定していました。
どんなに戦果が華々しくとも、その裏では、必ず将兵が死んでいます。
戦争において、まるっきり血を流さないで終えられるということは、ほぼ無いといっていいぐらいなのです。
しかし、将兵が死ぬからといって兵を動かさなければ、もっと多くの人が死んでしまいます。
その立場による板挟みが、のちの乃木の運命をも象徴しているところです。
木石について
唐代中期における詩人、白居易の言葉で「人木石にあらず(ひとぼくせきにあらず)、皆情有り」というものがあります。
文字通り、人間は石や木と違って喜怒哀楽の感情をもっている、ということを言っていますが、乃木が木石はまさにこの言葉を引用したものとなっています。
人は感情があるにもかかわらず、乃木希典は、あえて、自らを木石と言います。
人を命令して死にに行かせる人間には、喜怒哀楽があってはいけません。
命令するたびにショックを受けていては使い物にならないからです。
自らを木石といいながら、一方で木石になりきれていない彼は、自分が名将だったのは少佐までだ、というのです。
たいだいにおいて、少佐という立場であれば、実際に兵を率いて自らも最前線へ出向きます。
しかし、それ以上の立場になった場合は、なかなか最前線にでることもできませんし、自らが戦うとなった場合には、それはすでに負け戦の状態でもあるのです。
後半、彼は、自ら歩兵師団を率いて戦いに出るといいますが、そんなときに、丹波哲郎演じる児玉源次郎が彼のもとにやってきます。
突撃せよ
物語の核心に入る前に、「ゴールデンカムイ」で気持ちを盛り上げるためのポイントもおさらいしておきます。
「ゴールデンカムイ」の主人公である、不死身の杉元は、第一師団の所属だったと言っています。
まさに、この旅順攻略にでているのは、第一師団と第十一師団となっておりますので、ひたすら兵士を殺すために戦わせているようにしかみえない戦闘いの中に、杉元がいたと思えば、いかにとんでもない強運と体力を誇っていたかがわかるというものです。
実際、これは、凍えるほどの場所という設定になっており(撮影は、日本でしたので、冬用の軍服をきた撮影はかなり過酷だったそうです)、凍えて死んでしまう兵士もおりました。
また、第七師団が、時の明治天皇の直轄であり、いかに重要な兵力であったかも、「二百三高地」でも語られていますので、事前に「ゴールデンカムイ」をみていた人は、知識と映画の内容がむずびつきやすいところではないでしょうか。
兵士と上官
さて、乃木希典という人物のやさしさもわかる一方で、その心が壊れていく様もわかるようになっています。
佐藤充演じる男が、乃木希典にたばこをもらうシーンがあります。
本来こんなことはありえないところですが、たばこの箱ごと渡しねぎらいの言葉をかけます。
「寒いじゃろ。身体大丈夫か」
「どうせ、わしら消耗品ですさかいに。こんぐらいの寒さ」
瞬間、仲代達也演じる乃木の表情が無くなります。
どれだけ自分が兵士に近づいていこうが、結局、その立場は変えられないのです。
兵士にとっては、仲間内でつかうような軽口であり、平気ですよ、という意味でいったつもりでも、乃木に対しては、痛烈な一言となってしまったところが心に響きます。しかも、彼は人格者なので、気に病まないように微笑んで去っていきます。
また、白襷隊(しろたすきたい)というのもすさまじいです。
もはや、死ぬしかないとわかっているにも関わらず、突撃していく部隊がおり、ますます戦況が悪化していく姿が描かれていきます。
消耗品と自らいう兵士がいたとしても、それを、そのとおりに受け取れる人間もそうそういるものではありません。
木石になろうとする乃木が苦悩を深めていきます。
丹波哲郎
本作品においての最重要人物として、児玉源太郎という人物がいます。
総参謀長としての重大な立場であり、乃木とは昔から親交のある人物でもあると同時に、旅順攻略における決定打を考えた人物として描かれています。
所説ある中で、児玉源太郎の果たした役割はほとんどなかったという考えもあるそうですが、少なくとも、映画「二百三高地」においては、乃木希典という男の自殺的ともいえる突撃を止めた人物であり、乃木と異なる立場で決着をつけた人物でもあります。
どういうことかといいますと、乃木は本来、感情を排して兵士を動かしていく立場であったはずでした。
しかし、息子たちも混じっていましたが、兵士たちをコマとしてみることができず、冷静な判断ができなくなっているように描いています。
それに対して、児玉源太郎は、乃木に向かって言います。
「日本の運命がかかっとるんじゃ。ここはな、黙って、わしが投げる石(いし)になってくれ」
「こだまぁっ、わしは、木石(ぼくせき)じゃないぞ」
あれほど、自分のことを木石といっていた乃木が、はじめて感情を露わにします。
しかし、児玉はそれをばっさり切り捨てます。
「乃木、貴様の苦衷(くちゅう)などを斟酌(しんしゃく)している暇など、わしにはない。わしが考えていることはのぉ。ただこの戦争に勝つこと、それだけじゃ」
総参謀長である児玉は、乃木の上官です。
友人でなく、作戦参謀長として彼に言ったのです。
この場面の迫力と、説得力は、映画「二百三高地」の中でも屈指の場面となっています。
木石であろう(感情を無くそう)とした乃木が木石(無感情)になれず、木石じゃないと反論。
しかし、木石に徹した児玉に一蹴される。
名優同士でなければ決してなりたたないシーンです。
戦いの後に
のちの名場面として、三船敏郎演じる明治天皇に復命するシーンがあります。
顔の大写しで報告をする姿は、すさまじいの一言です。
おびただしいほどの将兵が、無惨にも死んでしまった戦いの中で、自分の息子も含めて、かんたんな文章の中に入ってしまうという事実に、乃木も涙を流さずにはいられなかったというところがわかる場面となっています。
実際にはそうではなかったそうですが、ただ、映画「二百三高地」における乃木というキャラクターがわかり、且つ、作品内で描きたい人物像がよりはっきりとするところではないでしょうか。
さて、冒頭でも書いた古賀の活躍もあるのはあるのですが、圧倒的に乃木希典という人物の葛藤にこそ本作品の魅力があると思いますし、きっかけがなんであったとしても、古い映画はなかなかみるモチベーションがわかないことが多いので、「ゴールデンカムイ」を言い訳にして、ぜひ、名作をご覧いただければと思います。
以上、ゴールデンカムイの理解を深める為に。映画「二百三高地」感想でした。
次回も、め~め~。
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