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鶏の檻から脱出できるか。インドの闇。Netflixオリジナル映画「ザ・ホワイトタイガー」
め~め~。
インド映画といえば、「ムトゥ 踊るマハラジャ」をはじめとした、歌って踊って、とにかく長時間楽しむイメージがある方もいるかと思いますが、実際のインドの社会を描いた作品をみると、なかなか重い部分が見えてきます。
インドといえば、カースト制が歴史的にも重要な制度として語られるところですが、現在、インドにおいてカースト制は存在していますが、カーストを理由に差別することは許されていません。
されていませんが、長く根付いてきたカースト制というものは、国民の間に染みわたっており、そう簡単に払拭されるものではありません。
映画「ザ・ホワイトタイガー」は、そんな中で、カースト制の影響からなる巨大な檻から抜け出した男を描いた物語となっています。
タイトルだけ見てみると、なんの映画かわからなくなってしまうところですが、そんなインドの社会の闇を含めて、感想&語っていければと思いますので、よろしくお願いします。
インドの歴史で最高の発明
本作品は、物語のテーマを、冒頭で一気に語ってくれます。
「インドの1万年の歴史で最高の発明は? ?」
と主人公のナレーションが入ります。
「鶏の檻です。鶏は血の匂いで自分の運命を知っても、暴れもせず逃げようとしません。使用人も同じように育つのです」
主人公であるバルラムは、カーストの下位に属していた生まれとなっています。
そのため、頭がよかったにも関わらず、学校にもいかせてもらうことができず、石炭をひたすら手で割ることでお金を稼いでいます。
君はホワイトタイガーだ、と言われながら、結局、そのまま大人になってしまうのですが、彼の住んでいるところの地主の次男をみた瞬間、彼は、誰に仕えるべきかを悟ります。
本作品は、鶏の檻のような奴隷としての精神から抜け出せなかった男が、どのようにして檻からでたのか、ということを語る形になっているのが特徴です。
そのため、主人公が成功したことそのものは確定しているので安心してみていることができるのですが、一方で、そんな彼が、どうして、そこまで奴隷のように従順に、主人に従っていたのか、それが、インドの社会にどれほど強く根付いているのか、ということを気づかせてくれる作品となっています。
抜け出せない貧困
バルラムは、地主の次男坊をみかけてなんとか雇ってもらおうとします。
バルラムがすごいのは、車が2台あるのに運転手が一人しかいないということを知るや、まずは運転免許を取る為に、すぐに交渉を始めるところです。
バルラムの家族は、祖母であるおばあさんが実権を握っており、20人近い家族が、働かされたりしつつ生活しています。
おばあさんからすれば、自分の孫が目の届かないところにいってしまったら、稼ぎ手がいなくなってしまうことを懸念しますが、バルラムは、仕送りは必ず渡すし、何より、地主のところにやとわれれば裕福になれる、といってプレゼンします。
300ルピーを払って、運転できるように教習所で習い、なんとか運転手として雇ってもらうところからかわっていきます。
物語の前半は、貧困の村からの成り上がりがメインとなっているのですが、後半になってくると、その違和感がわかるようになってきます。
檻の中の失楽
バルラムは、実はそうとうな努力家です。
「インターネットを知っているか」
と、地主の次男であるアショクに聞かれます。
当然彼は知りませんが、すぐに、インターネットカフェに行って、パソコンをさわりにいきます。
そして、次の時には「インターネットは、クモの糸のようですね」
とご主人たちの会話に入ってくるのです。
この辺りの野心家っぷりは、目を見張るところですが、実は、この時点では、彼は、檻の中にいる存在だったりします。
ちなみに、そろそろ、ネタバレもいれていきますので、気になる方は、ご了承の上読み進めていただければと思います。
アショクとピンキー
地主の次男であるアショクと、その妻のピンキーは、インド系の人間ではありますが、二人ともアメリカにいた経験があります。
そのため、使用人であるバルラムに対しても、非常にフランクに接しており、インド社会においては先進的な人間であるように見えます。
「様はつけなくてもいい」
と言って、一見いい人なのですが、実は、それほどすごい人物ではないことがわかります。
アメリカ相手に商売をする、といいながら、いつまでたっても商売の計画を立てないアショク。
政治家に賄賂を贈る為、アショクはバルラムと共に、デリーへと赴き、ホテル暮らしをするようになります。
バルラムは、良くも悪くもご主人であるアショクやピンキーに対して尊敬の念をもっているのですが、それが、少しずつはがれていくのがわかります。
ご主人はご主人たりえるのか
車の中でいちゃつきだすピンキー。
アショクは、バルラムが見ているからやめるようにいうのですが、ピンキーは、かまわないわ、と言ってなかなか聞きません。
つまり、使用人を対等に扱うようにみせつつ、結局、人として見ていなかったことが暗示されるのです。
奥さんの胸元が気になるから、目をそらすための動作について指摘され、これは、お祈りだといってごまかすと、二人は面白がって真似をします。
インド人であるはずのアショクとピンキーは、インドの伝統的なものを知らず、かといって、アメリカ人でもないという矛盾した存在であることもまた示されるのです。
極めつけが、物語冒頭で起きた事故になります。
子供をひいてしまったことにショックを受けているアショクとピンキーに対して、なだめながら、その場を後にするバルラム。
こう言ってしまうのもどうかと思いますが、夜中に道路の飛び出してくる子供を轢いたとしても、日本のように捕まることはまれだと思われます。
犯罪であることには変わりありませんが、少なくとも映画の中で描かれるインドにおいて、物乞いをする子供たちの事件を真剣に捜査するようなところではないのです。
ですが、アショクとピンキーはショックを受け、しかも、その罪を、バルラムがやったことにするのです。
もちろん、それをさせたのは、アショクの父親ではあるのですが、そのやり口がずるいところです。
まるで、家族だといわんばかりに優しい態度をとり、万が一、警察にその事件が訴えられたときには、すべてバルラムがやったということにする、というものでした。
それでも、何の見返りも求めずにサインをするバルラム。
これこそが、奴隷たる精神のなせる業です。
その後、事件に対して訴えがないと知るや、周りの反応は元通りになります。あまりに都合が良すぎます。
持ち上げられては、投げ捨てられるを繰り返されて、まともでいられるはずもありません。
バルラムは、徐々に、奴隷のような状況に疑問を抱き始めるのです。
主人と奴隷
それでも、アショクとバルラムの間には、一時友情のようなものが芽生えそうになります。
奥さんであるピンキーに逃げられてしまったアショクは、酒びたりの日々を送ります。
それを献身的に介護し、一緒にお寺に行ったり、元気づけるようにするバルラムでしたが、最終的には拒絶されます。
結局、アショクもまた、バルラムという人を、対等には見ていなかったのです。
さらに、バルラムは、先輩の運転手に聞きます。
「運転手は年をとったらどうなる?」
「目が悪くなるまでは働けるだろう。でも50歳を過ぎたらクビになる。理由もなくクビになるか。事故を起こして死ぬか。ホームレスになるかも」
結局、主人を信じて尽くしたところで、最後には捨てられることがわかってしまうのです。
檻から出る準備
「主人の金をくすねる手段を学び始めました」
この言葉は、いままで映画を見てきた人間からすると、衝撃的な言葉です。
インドの奴隷的な状態の人たちがなぜ、主人のお金を盗まないのか。
それは、それぞれが自分が奴隷であることについて疑問をもつことがなく、それぞれが、檻にいれられているような状態だからだと説明されています。
主人であるほうも、奴隷たちがお金をくすねるとは考えもしないのです。
信頼といえば、聞こえがいいですが、少なくとも、バルラムは、ご主人を見限ったことがわかるところです。
そして、彼は、ご主人を裏切り、副業を始めます。ガソリンを売り、白タク行為を行う。
「現金を目にして感じたのは、罪の意識よりも怒りです」
なぜ怒りを感じたのか。
これは、気づくかもしれませんが、搾取されていることへの怒りです。
彼の稼ぎは、半年間でたったの36ルピーです。
彼は、200ルピーの靴を履いたり、100ルピーの服を着ているにも関わらずです。ちなみに、芳香剤が4300ルピーである考えると、いかに安く働かされていたのかわかる金額です。
インドのカースト制は、1000以上の階級があったそうですが、いまは二つと作中では語られます。
腹が膨れた人間か。ぺちゃんこの人間か。
主人公は、ぺちゃんこの人間から、腹が膨れた人間になろうとしていくのです。
「貧乏人が頂点に到達する方法は二つ。犯罪か政治的手段です」
主人公は、両方を用いて成り上がっています。
最後のシーンでは、まさかのカメラ目線で、視聴者に対して語り掛けてきます。
「反逆は成功した」
関連映画
さて、映画「ザ・ホワイトタイガー」は、インドのいまだに続く見えないカースト制の名残によって、抑圧されていた主人公を描いていましたが、インドの状況を知るために、見ておくと面白い映画を紹介したいと思います。
主人公であるバルラムが、「クイズにでも答えろというのか」みたいなことを言っている場面がありますが、これは、クイズミリオネアに答えてお金を手に入れた少年を描く「スラムドックミリオネア」について皮肉を言ったものとなっています。
スラムドックミリオネア自体は、ちょっとしたミステリー的なタッチにしつつ、スラム出身の貧しい少年が、なぜクイズを全問正解できたのか、ということの疑問を解いていくような内容となっています。
そんな少年がクイズを解けるはずがない、というところから、まさかの展開につながるところは非常に面白いところとなっていると同時に、インドの貧困模様がわかる作品となっています。
また、3時間を超える内容ながら、「きっとうまくいく」については、インドを舞台にした映画が気になったら必見の作品になっています。
インドの大学に入学した主人公たちを中心に、親戚の期待を一身に受けながら、学問で身を立てていこうとする若者を描くと同時に、そんな礎があった中で、インドというのが発展してきたことがわかる作品となっています。
こちらについては、内容が重たくなったりしながらも、歌や踊りがふんだんに組み込まれており、インド映画って豪華だな、と思わされるものとなっていますので、オススメです。
また、インドの経済的発展を描いたものとして、純粋に、ピザを食べてみたい少年たちのドタバタを描いた「ピザ!」も、面白いところです。
日本の昭和時代も、こんな感じだったのかもな、という、ピザ屋ができて興奮する、みたいなものが描かれた作品です。
貧困の描き方
さて、補足的な映画として紹介しておきたいのは、アカデミー賞もとった「パラサイト 半地下の家族」でしょうか。
こちらの作品も貧富の差が描かれた作品となっておりますが、こちらは、金持ちの足元で、貧乏ながらもしたたかに生きる家族を描いたものとなっています。
ただし、富裕層が、貧乏人をどこまでも見下しているところや、それに対して、主人公たちのとった行動などは、心に刺さるところですし、何よりも、貧乏には地下に住み、お金持ちが高台に住むという視覚的な描き方も面白いところでした。
「ザ・ホワイトタイガー」もまた、主人公はホテルの地下で生活し、アショクは高層でゲームをしているという構図は、貧富の差もそうですし、地下にアショクが下りてくるあたりは、結局、お金持ちもまた檻の中にいる、ということを暗示しているようで、面白いところです。
貧困や、貧富の差の描き方というのは色々ありますが、「ザ・ホワイトタイガー」については、そんな貧困の差があったとしても、どのような覚悟で抜け出すか、ということを示した、ある意味危険な、しかし、とても重要な事柄を示した作品となっています。
以上、鶏の檻から脱出できるか。インドの闇。Netflexオリジナル映画「ホワイトタイガー」でした!
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