終末何して過ごす?映画「孤独なふりした世界で」感想
め~め~。
皆さん、世界が滅亡したら、何をしますでしょうか。
世界で自分だけが生き残ってしまったとしたら。
とはいえ、タンパク質は、魚を釣れば摂取できて、賞味期限が切れているにしても、缶詰が大量にまだある世界となったとき、その人生をどのように過ごすことにしますか。
自分以外の人間が死んでしまったセカイで、以前は人間嫌いだった男が、世界が滅亡した後で、人間に心を開いていく物語として描かれている作品「孤独なふりした世界で」の紹介をしていきたいと思います。
この作品を見た後、人間の本質に触れたような気持ちになれるかも、しれません。
ちなみに、本作品は、簡単にネタバレしてしまいますので、先入観なく見たい方は、ぜひ、作品をみた後に記事に戻ってきていただければと思います。
ピーター・ディンクレイジの演技
もうネタバレになってしまいますが、本作品の登場人物はたったの4人です。
物語の前半は、ピーター・ディンクレイジ演じるデルという男と、エル・ファニング演じるグレースの物語となっています。
ピーター・ディンクレイジといえば、超大作「ゲーム・オブ・スローンズ」において、ティリオン・ラニスター役を演じて、圧倒的な存在感と演技力を示す存在として、物語に欠かせない人物となっておりました。
その時の役もそうですが、ピーター・ディンクレイジは、小人症の役者となっています。
演技力が圧倒的なこともありますが、多くの人は、身体的特徴にも注目したのではないでしょうか。
「孤独なふりした世界で」においても、その特徴は生かされています。
「孤独なふりした世界」におけるデルは、身体的特徴から、差別や偏見、心ない言葉を受けた結果、人嫌いになったと思われます。
そのことは、怪我をしていたグレースを助けたにも関わらず、姿を見せないことでもわかります。
本作品は、エル・ファニングも含めて、世界崩壊後の過ごし方を抜群の演技力で表現しているところが見ものとなっています。
ゾンビものではないのが新鮮
世界が滅亡してしまう、あるいは、しそうになる映画というのは、数々ありまして、すぐに思いつくのは、ゾンビものの映画ではないでしょうか。
世界にゾンビ・ウイルスが拡散。生き残りをかけて努力をしつつ、俺たちの戦いはこれからも続く、といった感じで終わることが、この手の作品では多いかと思います。
「日本沈没」に代表されるような、既存の世界がなんらかのきっかけで崩壊していくのを、組織、個人それぞれがどのようにサヴァイブするのか、というのを見ていく作品も、面白いものです。
「ゾンビランド」なんかでは、生き抜くための独自ルールを設定している人物が主人公だったり、有名作品である「ドーン・オブ・ザ・デッド」であれば、ショッピングモールに立てこもってみたりと、様々なゾンビものの映画があります。
ゾンビものでは、サヴァイブしていく中でも、主人公たちの状況把握、生き残る為の条件等をどのように設定していくのか、というのが見どころになります。
しかし、「孤独なふりした世界」では、ゾンビのような差し迫った危機はありません。
周りに人間が死んだにも関わらず、主人公であるデルはなぜか死んでいません。
彼は、その理由もわからないまま、小さな町で日々を過ごします。
「孤独なふりした世界」においては、生き残った原因そのものは、重要ではありません。
設定上はあるかもしれませんが、人間嫌いだった男が、孤独になったときに、どう過ごしていたか、というのが最大のポイントとなっているためです。
終末何して過ごす?
話は逸れますが、藤子・F・不二雄先生による「ドラえもん」の中で、どくさいスイッチというのがあります。
スイッチを押すと邪魔者がいなくなる、というスイッチなのですが、のび太は、みんながいなくなればいいと言ってスイッチを押してその通りになってしまいます。
ドラえもんの世界では、独裁者を懲らしめるためのスイッチという落ちでしたが、実際に、自分以外の人間がいない、という状況になったら、正気なままでいられるでしょうか。。
ピーター・ディンクレイジ演じるデルは、死体となってしまった町の住民たちを土に埋めて、彼らの写真等をファイルに保管します。
彼は、もともと整理するのが好きな人物だったのでしょう。
黙々と死体を片付けて、使えるもの(主に電池)を回収し、死んでいった人たちの生前の記録を残し続ける。
なぜこんなことをやっているのか、というのははっきり語られませんが、グレースという女生との対比で考えれば、その想像はつくところではないでしょうか。
ちなみに、「地球の放課後」という漫画がありまして、青年と少女たちだけで、誰もいなくなった(モンスターっぽいのはいますが)世界で過ごすという物語もあったりします。
この手の作品も色々なアプローチの仕方があるのがわかって面白いところです。
SF だけどファンタジー
本作品は、世界滅亡後を描き、物語のラストでは、生き残った人々も見せます。
生き残った人たちは、大勢の人たちが死んだ事件を、意図的に忘却しています。
自分たちだけが生き残ってしまったという罪悪感や、死んでいった人たちの為に何かしなければならないという義務感や責任を一切感じないように、物理的な手術が行われています。
その結果、過去を省みることなく、かつてと同じ生活を送っているのです。
正直、このあたりは、設定につっこまざるえないところです。
人類が崩壊した以上、電気やガス含めたあらゆるインフラが機能しないはずです。少なくとも、相応の制限がかかるはず。
我々が文化的な生活が送れるのも、一定数以上の人間がいて、インフラ含めてこの世の中をまわしてくれているおかげです。
主人公が一人で暮らしていた町が放っておかれる程度には、世界の人口が減っている状態で、食糧問題含む様々な問題が噴出するはずなのに、悠長にジョギングしたりはできないはずなのです。
今まで通りの生活ができないはずの世界の中で、そのことを忘れて今までどおり生活している人々をみて、主人公であるデルは、驚きます。
設定の違和感を感じるところでしょうが、この作品は、SFというよりは、もっと寓話的な作品としてとらえると、そこまで拒絶反応は起きなくなります。
孤独な男が人と触れあう
主人公であるデルは、事件が起きなければ、永遠に人嫌いなままだったでしょう。
しかし、世界が崩壊して一人になったとき、彼が選んだのは、人々を知るという行為でした。
普通、いくら整理整頓が好きだからといって、地図にばつ印を書きながら、自分の住んでいる町を清掃しようとは思わないはずです。
人がいなくなって初めて、彼は人間を知る機会を与えらえれたというところが、秀逸です。
そして、エル・ファニング演じるグレースがきたことで、一人ではない孤独を味わうことになります。
グレースの両親を名乗る人物たちは、未来しか考えない極端な人物として描かれているのは、過去を蒐集していたデルとの対比になっているところです。
あれほど人間がいるという設定にも関わらず、過去も未来も含めて、今を生きる人間が、デルとグレースだけというラストは、寓話的に正しい終わり方なのだと思います。
設定的な部分の整合性を気にしてしまうと、ついつい、つっこみたくなる作品ではありますが、出演者の演技力の高さといい、そこに描かれる風景や物語は心に響くものがあります。
90分に満たない短い映画ではありますが、エッセンスが詰まった作品となっておりました。
以上、終末何して過ごす?映画「孤独なふりした世界」感想でした!
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