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差別は終わらない。スパイク・リー監督「ブラッククランズマン」感想

め~め~。

人種差別というのは、我々が生きてきた歴史の中で、避けては通れない課題の一つとなっています。

スパイク・リー監督「ブラッククランズマン」は、そんな差別意識や問題について、コメディ的要素をいれて、非常に見やすくしつつ、その中にある強烈な問題意識を我々に問いかけてくる意欲作となっています。

1970年代が舞台となっておりますので、難しい話を知らないとわからないんじゃないかと思う人もいるかもしれません。

知っていれば、当時のことがよりわかりますが、わからなくても全く問題ありません

楽しみ方のポイントについて、本記事で紹介しつつ、どんな物語なのかを感想&解説していきたいと思います。


黒人が白人至上主義団体に入る。

正確には白人至上主義ではなく、北方人種至上主義という話らしいですが、「ブラッククランズマン」の楽しみ方の一番大事な点としては、いわゆる弾圧・差別を受けている黒人が白人至上主義者の真っただ中に、嘘をついて潜入していく、というところに面白さがあります。

しかも、この作品は実話がベースとなっており、主人公であるロン・ストールワースが実際に書いた回顧録を基にして作られています。

コロラド州コロラド・スプリングズの警察署で、黒人で、初めて警察官に採用された主人公ロンは、黒人差別を体験します。

「ブラッククランズマン」の面白さとして、ロンという主人公は、親が軍人であり、ドラック(麻薬等)もやっておらず、ちゃんとした家庭で育っているというところがポイントです。

思想的にも偏りが無く、少なくとも劇中においては、強烈なコンプレックスがあるわけでもなく、警官として働き始めますが、すぐに、自分自身の扱いがおかしいことに気づきます。

文書を管理する部署に配属されたロンは、「カエルの資料をだせ」といわれたりします。

黒人の犯罪者は、もはや、人間扱いされていないのです。しかも、それを、同じ黒人であるロンに言うのです。

特に偏見や差別に対して意識が強くなかった彼が、仕事の中で、元ブラックパンサー党の男の演説を聞いてみたり、片一方では、悪名高きクー・クラックス・クランに、黒人でありながら、入会してしまうということを通じて、それぞれの実情を知っていくのです。

コメディ要素

本作の作り方として面白いのは、基本的には、コメディ風である、ということでしょうか。

実話がベースになっているとはいえ、黒人であるロンが、KKKに入るということが異常です。

ちなみに、KKKといえば、白い装束と、三角のマスクで顔を隠し、馬にのって容赦なく人の家を焼き討ちする団体です。

特に、黒人に対する弾圧は凄まじく、劇中でも、そのひどさについては語られています。
また、当時の世界にあっては、そんな黒人に対する差別が、まかり通っていたところがあったのも事実ではあります。

そんな醜悪な歴史の事実を、間の抜けたようなKKKの団員達とのやり取り、一方で、黒人解放活動家との交流を行っていく、というのを、一人の主人公を通して行うあたりは、一種のコントのような面白さで包んでおり、見ていて決してつらくなるものではありません。

KKKの支部長である男と電話しているロンのやり取りがあります。

「俺が、白人のフリしたニガー(黒人の差別的表現)とは思いませんか?」

「ないね、ニグロ(こちらも、黒人に対する差別的表現)は話せばわかる。例えば君だ」

「俺?」

ひやりとさせられる場面もありますが、絶妙に、間の抜けたやり取りが面白いです。

ちなみに、これだけ差別的な言葉やり取りを堂々とできるのも、同じ黒人監督であり、長年に渡り、人種問題含む作品を数多くつくってきたスパイク・リー監督だからこそできるのではないでしょうか。

実際にアメリカにいない我々では、想像もできないほどデリケートな問題です。


実は同じ穴の狢?


さて、リベラルな思想をもつ黒人が、差別的な状況の中で、黒人の解放団体、方や、白人の団体の双方のど真ん中に入り込みます。

普通であれば、どちらか片方に寄ってしまえば、もう片方の意見は聞こえなくなってしまうものです。


ですが、「ブラッククランズマン」は、その両方の意見や状況を、ロンの立場をつかって、見事に描き出しているのです。

片方の意見だけ聞いていると、なんとなく、それぞれが正しいところもあるような気がしてきますが、作品の描き方としては、どちらも、同じような描き方をしているのが面白いです。

黒人の老人が、ジェシー・ワシントン事件について語ります。

ジェシー・ワシントン事件は、当時農場で働いていたジェシー・ワシントンが、雇い主の奥さんであったルーシー・フライヤーを暴行して殺害したという事件となっており、その彼が、衆人環視の中、リンチに合って殺されたというものです。

その狂気は凄まじく、遺体はお土産として売られたり、その光景の写真がポストカードになって販売されたりする有様で、人間というのはどこまで残酷になれるのか。黒人差別の恐ろしさ知らしめた事件となっています。

事件の生々しい体験談が語られる一方で、クー・クラックス・クランの儀式が行われています。

「神よ、我らにまことの白人を与えたまえ」

彼らは、グリフィスの「國民の創生」を見ます。

こちらも、映画の歴史の中では決してはずすことのできない重要な作品ではありますが、同時に、クー・クラックス・クランという組織を復活させてしまった作品でもあります。

ただ、黒人等への恐怖をあおるものとなっていまして、KKKにとっても、その恐怖を打ち勝つために戦っているのです。

そして、彼らはそれぞれに叫ぶのです。

「ホワイト・パワー!」

黒人解放を求める人たちも叫びます。

「ブラック・パワー!」

どちらがいいとか悪いとか、歴史的な背景とかは関係なく、彼らは彼らなりに正義や歴史をもっています。

その中で、一方的に誰かを傷つけたり何かをしたりするという時点で、良くも悪くも同じ穴の狢といえるような描き方をされているのが面白いです。


そして、主人公は、そのどちらもわかっている


関連映画


さて、最終的なまとめを書く前に、関連する映画も紹介しておきたいと思います。

D・W・グリフィスの「國民の創生」は、先ほども書いた通り、映画の教科書にのるような作品となっています。

人種差別的な内容はあるにしても、画期的な編集方法、今では当たり前に使われているクローズアップやフラッシュバックなどを使用し、映画史において高く評価されている作品です。

しかし、「國民の創生」で黒人虐殺が英雄的に描かれたこと、映画の大ヒットを背景に、ほぼ自然消滅していたはずのKKKが復活し、より過激な組織として復活してしまいます。


あと、スパイク・リー監督といえば、「マルコムX」は外せません。

公民権運動において欠かせない人物でもあるマルコムXの生涯を描いた作品となっており、202分というかなり長尺な映画となっていますが、アメリカにおける重要な人物のことが一気にわかる作品となっています。

希望なのか、絶望なのか。

ホワイト・パワーもブラック・パワーもどっちもどっちな感じをみせつつ、主人公たちは、少しだけ希望を見せてくれます。

黒人解放活動家パトリスを不当に辱めた警察官を、みんなで協力して追放するのです。

差別はもちろん許されるものではありません
ですが、差別というのは存在し、それは巧妙に避けられたり、隠されたりしています。

ですが、黒人も白人も関係なく、世の中をよくしていくことが、少なくとも、主人公の周りではできたりします。

そのあとに、さらなる大きな力によって、捜査がつぶされたりしてしまいますが、主人公たちはめげずに仕事を続けます。

ロンの物語が終わったあとも、実際のドキュメンタリー映像が流れます。

差別や争いは絶えませんが、「ブラッククランズマン」は、希望も絶望も両方見せてくれる、非常に重厚な作品となっており、同時に、それを決して重たくないテイストで見せてくれる作品となっています。


以上、差別は終わるのか。スパイク・リー監督「ブラッククランズマン」感想でした!


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