家族問題。姉は孤立することが多い。アニャ・テイラー=ジョイ主演「ウィッチ」感想
め~め~。
注目の女優であるアニャ・テイラー=ジョイ主演による映画「ウィッチ」。
こちらは、タイトルだけ見ますと魔女がでてきて、何か悪いことが起きる映画なのかと思ってしまうと思いますが、実を言うとそうではありません。
もちろん、タイトル通り魔女はでてきますが、描いているのは、家族の崩壊の話となっています。
全国の長女のみなさん、我がことのように見てしまう人もいるかもしれませんし、似たような立ち位置にいる人もいるかもしれません。
「ウィッチ」は、アメリカ開拓時代における敬虔なクリスチャンたちの信仰心への試練に見せかけた、長女が踏ん切りをつける物語としてみると、抜群に理解しやすく、面白い映画となりますので、そんなあたりを解説しつつ、感想を述べていきたいと思います。
時代背景について
物語の冒頭では、主人公の家の父であるウィリアムが裁判を受けています。
時代は、1630年のニューイングランドとなっておりまして、イギリスからの入植者がアメリカにきた初期の時代を描いています。
いわゆる、清教徒(ピューリタン)と呼ばれる人たちと思われ、宗教的な新天地を目指してアメリカに来たはずですが、ウィリアムは、キリスト教のおける考え方の違いについて、折り合いをつけることができないで裁判にかけられてしまっています。
「この入植地から君を追放する」
この時代において、入植地から追放される、ということは、ほとんど死を宣告されているようなものです。
にもかかわらず、ウィリアムは男らしく言います。
「望むところだ」
アニャ・テイラー=ジョイ演じるトマシンは思わず父の方を見ます。裁判官の人も、表情の変化こそ薄いですが驚いています。
本作品の一番の元凶を作り出したのは、父親であるウィリアムですが、結果として、それを長女であるトマシンが被害を被っているというところに悲劇があります。
赤ん坊が消える。
啖呵を切って町をでて、荒地を開拓した一家ですが、冬が近づいてきます。
穀物であるとうもろこしも良いものが採れず、畑に何もありません。そんな中、アニャ・テイラー=ジョイ演じるトマシンは、一番小さい赤子である弟のサムをあやしています。
そう、荒地に住むだけでも大変なのに、赤ん坊まで生まれてしまっています。
町を追放されたばかりの段階で、母親はお腹をさすっていましたので、追放後に生まれた子供です。
トマシンが「いないいないばぁ」と子供をあやしていると、一瞬にして赤子が消え去ります。
本作品は、それが魔女の仕業なのか、はたまた、誰かが嘘をついたりしているのか、妄想や夢の中の出来事なのか、ちょっとわからない風になっていることも、作品に深みをもたせることに一役買っています。
赤ん坊がいなくなったことで、母親はおかしくなっていき、父親は父親である威厳を保てなくなっていきます。
そうして、家族崩壊のゲームは始まるのです。
擦り切れていく母親
さて、本作品は、それでなくても厳しい入植地という場所から、追放されてしまった一家が、魔女という存在に脅かされながら、信仰を保てるのか、という点で見ることも可能です。
ですが、コミュニティから隔絶され、追放されてしまった一家が、長女であるトマシンが女性的な魅力を開花させることをきっかけに、一家が崩壊していくという物語となっています。
本来であれば、入植地の中で、それぞれ不満やストレスが発散されていくところですが、閉ざされた家族が、それぞれの想いを発散できずにいると、責任感のある人にどうしても怒りや不満の矛先がむいてしまうものです。
長女であるトマシンの、赤ん坊を奪われてしまった、ということはあくまできっかけに過ぎません。
母親であるケイトは、トマシンが女性として成長することで、恐怖を感じてしまっています。
俗な言い方をすれば、旦那が奪われてしまうような恐怖を感じてしまったというところです。その結果、トマシンに家事全般を押し付けてみたり、過剰に強い口調になったりします。
トマシンからすれば、これだけ頑張っているのに、なぜツライ目にあわなければならないのかと不思議なはずです。
勿論、キリスト教徒である彼らが、それぞれの欲望を露骨に表現するはずもありません。
長女に対して、厳しくあたる奥さんを、父親であるウィリアムは、何もいえなかったりするところにも、一家の問題点があります。
一家の頼れない父親
自分が植民地から追放されるということは、家族も追放されるという意味であることは十分にわかっていたはずです。
しかし、父親であるウィリアムは、家族を荒地での生活を余儀なくさせてしまいます。
これが、決断力と行動力があり、物語の冒頭のとおり、信念の為であれば死も辞さないような人物であれば、一家も機能したかもしれません。
ですが、ウィリアムという男は、開拓場所ということや、うまくいかない植物の栽培等も含めてだいぶやられています。
冬を目前に食べ物がないことから、慣れない猟をしようと息子のケイレブと森に入っていくのですが、銃も満足にうてません。
しまいには、妻のケイトがもっていた銀のコップを、勝手にインディアンと交換してしまっています。
過酷な状況の中なので、一家で協力しなければならないのですが、一家の規範となるべきウィリアムが、妻の持ち物を勝手に売ってしまい、しまいには、トマシンが疑われたときに、本当のことを言いません。
あとで、トマシンにも非難されてしまいますが、過酷な状況の中で、どんどん一家が壊れていく一番の原因をつくっているのは、父親だったりするのも皮肉です。
さらには、妻であるケイトに、
「イングランドに帰りたい」
と言われ、続けざまに遠回しに非難されます。
「かつて感じた、イエス様ほどの愛がない」
と言い出す始末。
キリスト教におけるイエスとの関係というのは、なかなか複雑になっておりまして、愛が重要なキリストにおいて、常に、旦那と神との三角関係というのが発生してしまいます。
それにしても、旦那に対して、昔の恋人(イエス)のほうがよかった、ということを言うのは、あまりに野暮です。
しかし、ウィリアムは、それに対して何も言えません。
何か大事な本音を隠しつつ、無理やり、物事を平定させようとすると、どうしても、無理がでてきてしまいます。
ここから、先は、ネタバレをしつつ解説していきますので、気になる方は、映画をご覧になってから記事を読んでいただければと思います。
姉は母に疎まれる
「トマシンが月のものを迎えたわ」
ケイトが、ウィリアムに言います。
「奉公に行く年頃なのに、ここじゃ何もできない。子供たちも、まるで野生児よ。ケイレブを手放したくない。家族が餓死する」
説明するまでもありませんが、ケイトは、トマシンを追い出そうとしているのです。
月のものを迎えたから奉公にいく年頃、なのに野生児同然となっていて可哀そうだ、というわけではなく、そういうことを理由にして、長女を追い出そうとしているのです。
親が親になりきっていない場合に、発生しがちなことですし、夫に対しての信用がなくても発生する可能性が高いわけですが、トマシンは、極限状態の中で、母からいらない、と言われたようなものです。
結果として、彼女はすべてを失うことになります。
弟の欲望
さて、疎外されている長女が心を許しているのは、弟のケイレブです。
しかし、弟のケイレブもまた、美しく成長している姉に対して、性的な欲望を抱きつつあります。
隔絶された世界の中で、弟はその想いの間に揺れ動いているというところも、悲劇が拡大する要因となっています。
結果として、ケイレブは、そんな欲望と、姉が追い出されないようにするために、森の中へと足を踏み入れ、魔女の魅力にあらがうことができず、心身ともに大ダメージを追うことになります。
一家の崩壊を加速させるのが、トマシンであるということもあって、彼女が、魔女にならざるえない状況がどんどん積みあがっていってしまいます。
恐ろしい双子
映画「シャイニング」にしても、何にしても、双子というのは、時に恐ろしいものの象徴のように使われることがあります。
特に、「ウィッチ」における双子は、生意気盛りであり、家畜たちを驚かせてあそんだり、家族をからかうことが面白い年代だったりします。
平和な時代ならいざしらず、冬を越すことができるかどうかもわからない中で、状況を把握しないで騒いだり遊んだりしている双子は、ひどく憎たらしく見えます。
トマシンが、「私は魔女だ。言ったら呪い殺す」といって、双子の妹を脅したりするのですが、あとから、それがブーメランのように帰ってくるあたりは、恐ろしいです。
参考作品
さて、話題を少し変えてみたいと思います。
本作品は、何度も似たようなことを書きますが、閉鎖的な環境の中で、父親が力がないために、母親が長女に嫉妬をすることを止められず、弟は性的対象に混乱し、年下の妹と弟は、生意気盛りで手に負えない。
そんな家庭崩壊の原因を、魔女のせいだ、という風にもみれる作品になっているのが面白い点です。
魔女らしき人達はでてきますし、物語のラストにおいても、空に浮かぶ魔女のような人たちはいます。
ですが、いずれにしても、これは、魔女が起こしたものかもしれないし、人間が起こしたものかもしれない、と両方の解釈が成り立つようにできています。
黒ヤギが悪魔の変化したものだ、ということが語られて、父親が突進を食らったりします。
ヤギが本性を現したのだ、と思いたくもなりますが、双子がからかっている時点でも、十分危険な感じは漂っていました。
単に、興奮したヤギがウィリアムに突進しただけかもしれません。
弟も、魔女らしきムチムチの人に誘惑されていますが、あれが本当に実在するのかは正直怪しいところです。
話はそれますが、「うみねこのなく頃に」という作品があります。
これは、ある一族の中でおきる連続密室殺人事件について語られたものであり、これが、果たして魔女が魔法で起こした不可能犯罪なのか、単なる人間の起こした可能な殺人事件であるのか、ということを、推理し合うという物語になっています。
極々簡単に書きますと、密室で人が死んでいたのを、魔法の力で部屋の外から殺したのだ、ということにするのか、なんらかの装置をつかって殺したのか、ということです。
シュレディンガーの猫でお馴染みの考え方ですが、観察者が確定させるまで、猫が死んでいるか生きているかわからないように、観察者がみるまで、その事件は、魔法によって起きた事件か、人為的な事件かはわからない、というものです。
それを、登場人物たちも含めて推理をし合って決めていくというスタイルは非常に斬新でした。
「ウィッチ」もまた、魔女によって赤子がさらわれたのか、弟が誘惑されたのか、トマシン自身が魔女だったのか、ということも含めて、どちらともとれるようにつくってあるところが面白い点です。
彼女は魔女だったのか。
魔女の存在はわかりませんが、少し、つっこんだ見方をしたうえで、本作品の紹介を終えようと思います。
物語のはじめのほうで、トマシンは告解を始めます。
「私は罪を犯しました。仕事をさぼり、両親に逆らいました。安息日にこっそり遊びに興じ、心の中で戒律を破りました。聖霊ではなく、自分の欲望に従いました。私は罰として、惨めで過酷な人生を送るべきなのです。でも、どうか、イエス様に免じてお赦しを」
一回目だと、そんなものかなぁと思ってみているだけになりますが、彼女が魔女であったかもしれない、という事実を踏まえてみてみますと意味が変わります。
本作品は、必ずしも映像でみているものが真実とは限りません。
トマシンは、弟のサムに対して、いないいないばあっ!とやってあやしている、その一瞬で赤子がいなくなってしまって驚きます。
ですが、この告解を改めて深読みすると、弟を放っておいて、遊んでいたのではないかと思うのです。
気づくと、弟はいなくなっていた。オオカミなのかもしれませんし、魔女の仕業かもしれません。
魔女がいたとすれば、子供の脂を身体にぬりたくり、空に浮かぶためにつかったのかもしれません。
過酷な日々の中で、つい日常の事柄を忘れてしまうこともあるでしょう。それを罪とするには、あまりに、トマシンに背負わされた罪は大きいものです。
今でいえば、ヤングケアラーとでもいうところでしょうか。
いずれにしても、彼女は、自分の告解のとおり、惨めで過酷な人生を送り、人間性を失って魔女となるのです。
「ウィッチ」は、魔女になった話であり、魔女になるしかなかった少女の物語でもあります。
それが、入植時代のニューイングランドの一家を舞台に描かれ、家族崩壊の物語として現代に公開されるというのは、非常に恐ろしく、そして、象徴的なものとしてみることができます。
女優として一気に名前をあげたアニャ・テイラー=ジョイの出世作でもありますし、一見の価値のある作品となっているのが「ウィッチ」となっています。
以上、家族問題。姉は孤立することが多い。アニャ・テイラー=ジョイ主演「ウィッチ」感想でした!
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